第一次上田合戦では真田昌幸の率いる真田軍の頑強な抵抗に徳川軍は実質敗退します。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6
第一次上田合戦(神川合戦)
戦争:上田合戦
年月日:1585年
徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[注釈 1]。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。
翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。
引用終了
石川数正は徳川方の中枢で、近代の軍で言えば中将以上ですから、諸説ありますがその出奔は徳川方の軍事機密がダダ漏れになったとする見方が大半のようです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%95%B0%E6%AD%A3
石川数正
謎の出奔
ところが、天正13年(1585年)11月13日、突如として家康の下から出奔し、秀吉の下へ逃亡した[4]。理由は謎であり、「家康と不仲になった」「秀吉から提案された条件に目が眩んだ」など諸説入り乱れているが、今でもはっきりした理由は分かっていない。数正は徳川の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は徳川にとって大きな衝撃であった。以後、徳川軍は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。この改革に尽力したのが、織田・徳川連合軍によって武田家が滅亡した際に、家康が信長による武田の残党狩りから匿った武田の遺臣達である(『駿河土産』)。
その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えた。
(中略)
天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。このため天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。この戦いにおいて家康に秀吉との和睦を提言したともされる(この説は後に数正が秀吉方に与したという結果論から作られた説とも)。
(中略)
出奔の理由
数正が出奔したことは家康を大きく動揺させ、軍制の改正を余儀なくされたともされているが、出奔の理由には諸説あって定かではない。
秀吉との外交関連
次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
数正が徳川家に従わせた経緯がある小笠原貞慶が離反し、秀吉と内通したため、その責任を追及されたとする説。
松平信康関連
信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
その他
父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にも関わらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるを得なかったからとする説。
家康と示し合わせ、徳川家の為に犠牲となった形で投降したふりをしたという説。
山岡荘八の小説『徳川家康』では、家康の家臣には外交に向かない無骨者の三河武士が多いため、家康や本多重次との暗黙の了解のうちに、あえて秀吉の家臣となり、家康の外交を秀吉の側から助ける役目を引き受けたという設定になっている。
引用終了
これらのどれも十分有り得る事だし、何もたった一つだけの要因で出奔したとは限らず、石川数正も上記の多くの要素のうちの全て、或いはいくつかの要素のANDで出奔する事になった可能性が高いと筆者は考えています。
筆者の考えた可能性としてはただこれらだけでなく、「第一次上田合戦で手こずったのも、石川数正が秀吉経由で徳川方の軍事機密を漏らしていたからかも知れない」とも考えられるし、実は徳川氏の地盤である三河、は1583年から1584年まで、水害が酷くて今までの軍事力を維持するのも困難な状況になっていた可能性は高く、石川数正も「これはもうダメかな」と考えていたのかも知れないと言うのも一つの要因かとも考えられます。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
徳川氏の勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」[19]に見舞われた。その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる[20]。
家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという[21]。
引用終了
水害と戦の多発で農業生産がダメージを受けているところへ、地震が来て精神面で影響を受けた面はあると思います。
引用開始(一部抜粋
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm
1583(天正11)年
6月26日 三河で地震。(家忠日記)
引用終了
軍事機密の漏洩は、石川数正の出奔によるものだけでなく、第一次上田合戦での実質敗退で、ある事が誰にもわかってしまった事ではないかと筆者は考えています。
ある事とは「徳川軍は野戦などには強いのですが、敵方領地内での城攻めにはそう強くはない事、そして敵方領地内で山岳や谷など起伏の激しい地形、特に山岳ゲリラ戦には弱かった」、と言う事です。
これが何を意味するか?と言うと、それは「対真田氏だけでなく、上杉氏や前田氏などにも真田氏と同様の戦法を採られたら徳川軍は勝てない」と言う事を意味します。
真田昌幸の戦上手はわかりますが、それだけでなく秀吉の後押しがあったからこそ真田氏はあのような強便な姿勢をとれたのではないか?と思うのです。
更には「石川数正が仮に軍事機密を漏洩していなかったとしても、第一次上田合戦で手こずる事により、以前から対豊臣柔軟派であった石川数正には徳川方内部から内通(スパイ)容疑をかけられて出奔せざるを得なくなる状況に追い込まれた」、と言う事も筆者は十分にあったと見ています。
そう言った意味では第一次上田合戦は「徳川軍の軍事機密をバッチリゲットできた秀吉の目論見通りに展開できた」のではないでしょうか。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6
第一次上田合戦(神川合戦)
戦争:上田合戦
年月日:1585年
徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[注釈 1]。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。
翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。
引用終了
石川数正は徳川方の中枢で、近代の軍で言えば中将以上ですから、諸説ありますがその出奔は徳川方の軍事機密がダダ漏れになったとする見方が大半のようです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%95%B0%E6%AD%A3
石川数正
謎の出奔
ところが、天正13年(1585年)11月13日、突如として家康の下から出奔し、秀吉の下へ逃亡した[4]。理由は謎であり、「家康と不仲になった」「秀吉から提案された条件に目が眩んだ」など諸説入り乱れているが、今でもはっきりした理由は分かっていない。数正は徳川の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は徳川にとって大きな衝撃であった。以後、徳川軍は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。この改革に尽力したのが、織田・徳川連合軍によって武田家が滅亡した際に、家康が信長による武田の残党狩りから匿った武田の遺臣達である(『駿河土産』)。
その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えた。
(中略)
天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。このため天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。この戦いにおいて家康に秀吉との和睦を提言したともされる(この説は後に数正が秀吉方に与したという結果論から作られた説とも)。
(中略)
出奔の理由
数正が出奔したことは家康を大きく動揺させ、軍制の改正を余儀なくされたともされているが、出奔の理由には諸説あって定かではない。
秀吉との外交関連
次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
数正が徳川家に従わせた経緯がある小笠原貞慶が離反し、秀吉と内通したため、その責任を追及されたとする説。
松平信康関連
信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
その他
父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にも関わらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるを得なかったからとする説。
家康と示し合わせ、徳川家の為に犠牲となった形で投降したふりをしたという説。
山岡荘八の小説『徳川家康』では、家康の家臣には外交に向かない無骨者の三河武士が多いため、家康や本多重次との暗黙の了解のうちに、あえて秀吉の家臣となり、家康の外交を秀吉の側から助ける役目を引き受けたという設定になっている。
引用終了
これらのどれも十分有り得る事だし、何もたった一つだけの要因で出奔したとは限らず、石川数正も上記の多くの要素のうちの全て、或いはいくつかの要素のANDで出奔する事になった可能性が高いと筆者は考えています。
筆者の考えた可能性としてはただこれらだけでなく、「第一次上田合戦で手こずったのも、石川数正が秀吉経由で徳川方の軍事機密を漏らしていたからかも知れない」とも考えられるし、実は徳川氏の地盤である三河、は1583年から1584年まで、水害が酷くて今までの軍事力を維持するのも困難な状況になっていた可能性は高く、石川数正も「これはもうダメかな」と考えていたのかも知れないと言うのも一つの要因かとも考えられます。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
徳川氏の勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」[19]に見舞われた。その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる[20]。
家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという[21]。
引用終了
水害と戦の多発で農業生産がダメージを受けているところへ、地震が来て精神面で影響を受けた面はあると思います。
引用開始(一部抜粋
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm
1583(天正11)年
6月26日 三河で地震。(家忠日記)
引用終了
軍事機密の漏洩は、石川数正の出奔によるものだけでなく、第一次上田合戦での実質敗退で、ある事が誰にもわかってしまった事ではないかと筆者は考えています。
ある事とは「徳川軍は野戦などには強いのですが、敵方領地内での城攻めにはそう強くはない事、そして敵方領地内で山岳や谷など起伏の激しい地形、特に山岳ゲリラ戦には弱かった」、と言う事です。
これが何を意味するか?と言うと、それは「対真田氏だけでなく、上杉氏や前田氏などにも真田氏と同様の戦法を採られたら徳川軍は勝てない」と言う事を意味します。
真田昌幸の戦上手はわかりますが、それだけでなく秀吉の後押しがあったからこそ真田氏はあのような強便な姿勢をとれたのではないか?と思うのです。
更には「石川数正が仮に軍事機密を漏洩していなかったとしても、第一次上田合戦で手こずる事により、以前から対豊臣柔軟派であった石川数正には徳川方内部から内通(スパイ)容疑をかけられて出奔せざるを得なくなる状況に追い込まれた」、と言う事も筆者は十分にあったと見ています。
そう言った意味では第一次上田合戦は「徳川軍の軍事機密をバッチリゲットできた秀吉の目論見通りに展開できた」のではないでしょうか。