1583年3月(5月)賤ヶ岳の戦いが勃発し、4月23日(6月13日)に柴田勝家はお市と共に自害し、豊臣方が勝利します。
その後、毛利輝元は11月に秀吉に人質を提出します。
引用開始(一部抜粋)
http://nrekishi.yoka-yoka.jp/e768774.html
1583(天正11)年の出来事
1月21日 古河公方・足利義氏(こがくぼう・あしかがよしうじ)が死去
閏1月5日 羽柴秀吉が山城の妙喜庵(みょうきあん、京都府大山崎町)で茶会を開催
3月5日 島津義久(しまづよしひさ)が鹿児島の宣教師を追放
3月17日 賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)勃発
3月29日 東大寺(奈良県奈良市)の不開門(あかずのもん)が暴風のため倒壊
4月24日 北ノ庄城の戦いに敗れた柴田勝家が自刃
5月4日 丹羽長秀(にわながひで)が三国湊(みくにみなと)の振興策を実施
6月2日 織田信長の一周忌法要が開催
7月7日 羽柴秀吉が近江で検地を実施
8月28日 羽柴秀吉が大坂城(大阪府大阪市)の築城を開始
11月1日 毛利輝元が羽柴秀吉に恭順の意を示すための人質を提出
某月某日 イエズス会宣教師・ルイス・フロイスが『日本史』記述開始
引用終了
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
毛利輝元
信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている。
賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し、秀吉に臣従した。
引用終了
では賤ヶ岳の戦いの後の約半年間、一体、毛利氏は何を考えていたのでしょうか?
それは毛利氏が徳川に付くか、豊臣に付くかを様子見していたのではないか?と筆者は見ています。
織田信長の家来としては柴田勝家と羽柴秀吉の二人がトップなのですが、柴田勝家亡き後、秀吉に従うのかと言うと、当時それは毛利氏にとっては危ない選択とも言えるのです。
何しろ信長時代の中国攻めの中心が秀吉だったからです。
それならば通常は少し遠い徳川氏と同盟を結んで近畿地方、北陸、中部西域の豊臣方を挟み込むのが普通の考え方なのですが、あいにく賤ヶ岳の合戦で徳川氏は中心ではありませんでした。
当然、柴田勝家の取り分だったところは秀吉方の大名達に分配される事になります。
こう言う点からも求心力は秀吉に集中した為、毛利氏も秀吉に従う方向になっていた事はわかります。
しかしそれだけでしょうか?
前回の記事で引用しました1583年から1584年の三河他の水害で、毛利氏も流石に「もう徳川の力は維持できないのではないか?」と考えたのではないか、とも思えます。
この状況の様子を見ていたのが、4月から10月です。
そして毛利氏から秀吉に人質が送られてから、秀吉は急に家康に対し強硬な姿勢に転じます。
元々、中国大返しの時点から秀吉と毛利氏が裏で繋がっていたようにも筆者には解釈できるのですが、やっぱりかと言う事でしょうか。
それが小牧・長久手の戦いなのかもしれません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。
(中略)
各大名の動向
秀吉と同盟
池田恒興(美濃)
森長可(美濃)
丹羽長重(越前)
木曾義昌(信濃)
前田利家(加賀)
佐竹義重(常陸)
宇都宮国綱(下野)
毛利輝元(中国)
信雄・家康と同盟
根来衆(紀伊)
雑賀衆(紀伊)
粉河寺衆(紀伊)
佐々成政(越中)
長宗我部元親(四国)
北条氏直(関東)
引用終了
これで見ると長宗我部氏はこの戦いでは徳川方だったんですね。
関ヶ原の戦いでは何故長宗我部氏が西軍に属したかは、以前の記事で書きましたが、それだけでなく、この小牧・長久手の戦いでハシゴを外された苦い経験も多少はあったのかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
休戦・講和
秀吉は合戦から半年以上経った11月12日に、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は11月17日に三河に帰国した。信雄は伊賀と伊勢半国を割譲させられ伊賀は脇坂安治、伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方大名に分け与えられた。
その後、秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、家康との講和を取り付けようと試みた。家康は返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にするために大坂に送った。こうして、小牧の役は幕を閉じた。
秀吉包囲網の瓦解
信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまったため、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ紀州攻め・四国攻めにより制圧されることになる。
引用終了
その後、毛利輝元は11月に秀吉に人質を提出します。
引用開始(一部抜粋)
http://nrekishi.yoka-yoka.jp/e768774.html
1583(天正11)年の出来事
1月21日 古河公方・足利義氏(こがくぼう・あしかがよしうじ)が死去
閏1月5日 羽柴秀吉が山城の妙喜庵(みょうきあん、京都府大山崎町)で茶会を開催
3月5日 島津義久(しまづよしひさ)が鹿児島の宣教師を追放
3月17日 賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)勃発
3月29日 東大寺(奈良県奈良市)の不開門(あかずのもん)が暴風のため倒壊
4月24日 北ノ庄城の戦いに敗れた柴田勝家が自刃
5月4日 丹羽長秀(にわながひで)が三国湊(みくにみなと)の振興策を実施
6月2日 織田信長の一周忌法要が開催
7月7日 羽柴秀吉が近江で検地を実施
8月28日 羽柴秀吉が大坂城(大阪府大阪市)の築城を開始
11月1日 毛利輝元が羽柴秀吉に恭順の意を示すための人質を提出
某月某日 イエズス会宣教師・ルイス・フロイスが『日本史』記述開始
引用終了
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
毛利輝元
信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている。
賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し、秀吉に臣従した。
引用終了
では賤ヶ岳の戦いの後の約半年間、一体、毛利氏は何を考えていたのでしょうか?
それは毛利氏が徳川に付くか、豊臣に付くかを様子見していたのではないか?と筆者は見ています。
織田信長の家来としては柴田勝家と羽柴秀吉の二人がトップなのですが、柴田勝家亡き後、秀吉に従うのかと言うと、当時それは毛利氏にとっては危ない選択とも言えるのです。
何しろ信長時代の中国攻めの中心が秀吉だったからです。
それならば通常は少し遠い徳川氏と同盟を結んで近畿地方、北陸、中部西域の豊臣方を挟み込むのが普通の考え方なのですが、あいにく賤ヶ岳の合戦で徳川氏は中心ではありませんでした。
当然、柴田勝家の取り分だったところは秀吉方の大名達に分配される事になります。
こう言う点からも求心力は秀吉に集中した為、毛利氏も秀吉に従う方向になっていた事はわかります。
しかしそれだけでしょうか?
前回の記事で引用しました1583年から1584年の三河他の水害で、毛利氏も流石に「もう徳川の力は維持できないのではないか?」と考えたのではないか、とも思えます。
この状況の様子を見ていたのが、4月から10月です。
そして毛利氏から秀吉に人質が送られてから、秀吉は急に家康に対し強硬な姿勢に転じます。
元々、中国大返しの時点から秀吉と毛利氏が裏で繋がっていたようにも筆者には解釈できるのですが、やっぱりかと言う事でしょうか。
それが小牧・長久手の戦いなのかもしれません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。
(中略)
各大名の動向
秀吉と同盟
池田恒興(美濃)
森長可(美濃)
丹羽長重(越前)
木曾義昌(信濃)
前田利家(加賀)
佐竹義重(常陸)
宇都宮国綱(下野)
毛利輝元(中国)
信雄・家康と同盟
根来衆(紀伊)
雑賀衆(紀伊)
粉河寺衆(紀伊)
佐々成政(越中)
長宗我部元親(四国)
北条氏直(関東)
引用終了
これで見ると長宗我部氏はこの戦いでは徳川方だったんですね。
関ヶ原の戦いでは何故長宗我部氏が西軍に属したかは、以前の記事で書きましたが、それだけでなく、この小牧・長久手の戦いでハシゴを外された苦い経験も多少はあったのかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
休戦・講和
秀吉は合戦から半年以上経った11月12日に、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は11月17日に三河に帰国した。信雄は伊賀と伊勢半国を割譲させられ伊賀は脇坂安治、伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方大名に分け与えられた。
その後、秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、家康との講和を取り付けようと試みた。家康は返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にするために大坂に送った。こうして、小牧の役は幕を閉じた。
秀吉包囲網の瓦解
信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまったため、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ紀州攻め・四国攻めにより制圧されることになる。
引用終了