徳川勢の大坂の陣とそれに対抗する豊臣勢の抵抗について筆者が不可解に思うのは、真田幸村が家康に対して絶対やってはいけない野戦をかなり行った事です。
仮に仕方なく野戦を実施したならば、バリケードになる竹束や馬防柵などを持ち運ばねば徳川軍には到底かなわないのですが、大阪の陣で対決する真田勢はどうも神出鬼没な動きだったようで、それならば竹束や馬防柵などは殆ど持ち歩いていなかったと言う可能性が高いようです。こうしたものは移動が大変でしかも敵方に見つかりやすいと考えるからです。
そして竹束や馬防柵などが殆ど無いような野戦でかつ接近戦ならば真田勢の武具である「赤備え」は寧ろ目立って標的になってそれが致命傷になりやすく、これをこの戦いで幸村が使ったのも不可解です。
接近戦を選択したならばなるべく相手方と似た色の武具にして敵味方の区別が多少とも付きにくいように工夫し、兵力差をいくらかでもカバーしようとするのではないでしょうか。
「赤備え」はその色からして目立つので、兵力をより多く見せるのには効果があったケースも過去にはあるようですが、大坂の陣ではその兵力差は既に大きく開いていたし、基本は篭城戦だったので効果は殆ど無かったなずなのです。
更に幸村が野戦を採用するしか無くなり、やむなく大坂城の真田丸周辺だけでの野戦と真田丸への機敏な撤収の組み合わせをしただけと言うなら多少は理解できるのですが、結構遠出をしてます。つまり武田勝頼が大敗した長篠の戦いでの武田騎馬軍団のやり方にやや近いよう戦法を幸村は採っているようにも見えます。
当然の如く幸村が大坂から遠出した場合、家康のお家芸である野戦の餌食になるのは明白なのですが、幸村は結構やや遠出を行っていたようなのです。
以上から筆者が分析した結果はこうです。
幸村は「最初から戦死するための参戦をした可能性がある」か、或いはそうでなければ「最初から名目上だけでも豊臣氏が滅亡したという事実を作る為に徳川方から工作部隊として送り込まれ、できれば実行後に脱出するために豊臣方に参加した可能性がある」の「どちらかでしかなかった」と言う事ではないでしょうか。
では前者の可能性ですが、仮に戦死が目的であったなら最後がとても勇猛果敢とは言えず、変だと思いませんか?
幸村は寺で休んでいる所を徳川方に討ち取られたと言うのが通説ですが、こうした最後はどう見ても冴えないもので真田幸村もこんな姿は望まなかったはずです。
戦死する為の参戦をしたのなら、戦死するとわかっていても徳川軍に勇猛果敢に馬か何かで突撃し、例え逃げられるチャンスがあっても逃げずに鉄砲か槍で方々から撃たれて最後を遂げる、或いは切腹して果てると言うのが普通ではないでしょうか。
そして更に不可解なのは家康の採った戦法です。
織田信長が今川義元を討った桶狭間の戦いの時のように、家康も「城外で狙うは真田幸村か毛利勝永の首のみ」と大号令を発する事は簡単にできたはずなのです。更に戦力の差から見てもその差は圧倒的だったはずで、こうした戦法は当時の家康なら簡単に採用出来たと思われます。
所詮、多勢に無勢。徳川勢が幸村勢を圧倒する兵力で竹束や場棒柵などで簡単に囲い込んで徐々に狭めて行き、幸村らの首を取り、晒し首など(例え幸村の影武者のものであっても)にするのは徳川方にとってやる気になれば簡単に出来たはず、と思うのは私だけでしょうか。
しかし家康はそうした戦法や晒し首を実施していません。
「晒し首をしないと言う姿勢」自体が「家康がそもそも最初から首実検も本気でする気が無かった」と言う事だったのではないでしょうか。
筆者がこうした状況から導き出せた結論はこうでしかありません。
「幸村が勇猛果敢に家康の本陣に突進して見事戦死した、と言う名誉を与えて、幸村が生き延びるのを手引きしたのは実は家康本人である可能性が高い」。
家康の目的はあくまで豊臣氏の滅亡を公式に早急に確かなものにする、と言う事であって、少なくとも幸村の生存が仮に後で裏付けされても本来の目的に影響は少ないので幸村が逃げ延びる機会、あるいは段取りを予め考えていたのではないかと考えています。
何故そこまで急ぐのか? と言うとそれは「冬の陣で高性能の大砲を開示してスペイン勢にこのレベルの大砲を所有している事を既に知られてしまったから」ではないでしょうか。
仮に豊臣氏が滅亡したとしても他の反徳川である外様大名、その他勢力にスペイン勢からこのレベルの高性能な大砲が大量供給されないよう、至急に禁教令を更に強化する必要があったと考えられるのです。
天正地震から後は大規模な自然災害が多発するのですが、関ヶ原の戦いの後も例えば1604年以降、特に1613以降の大地震、津波、噴火、飢饉などの状況から考えてもう豊臣云々ではないような大災害も想定しておかないと徳川家は危なくなる、と家康はややオーバースペックでリスク想定をしていたのではないか、と考えています。
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen03.htm
)
1604(慶長 9)年
1月 8日 岩木山西方の鳥海が破裂し、湖水が流出。(地震調査会)(日本火山総覧)
11月 紀州、四国、西国で地震と津波。上総で大津波があり、人馬多数死す。(当代記 3)
12月 6日 紀州、四国、西国で地震と津波。遠州舞坂で津波により80戸流出。八丈島では民家悉く流出。
50余人が死亡。上総では人馬数百が死す。(東照宮 9)(地震資料2-1)(日本災異誌)
12月16日 東海、南海、西海道諸国に地震と津波。死者多数。(地震資料2-1)
1605(慶長10)年
1月 関東で大地震。死者多数。伊勢、筑紫でも大地震。(孝亮記 1)
9月15日 八丈島が噴火。三ツ根田畑損失多し。(震災調査会)
11月15日 八丈島噴火。(談海)
11月 下旬、浅間山が噴火する。(御日記44)
12月18日 八丈島噴火。一夜にして大山が出現する。(慶長日記 1)(御日記44)
(台徳院御実記 2)(柳営年表)
1606(慶長11)年
6月 1日 江戸で地震が3回ある。(慶長日記 2)
1607(慶長12)年
1月 6日 江戸で大地震。(当代記 2)
1月20日 江戸で大地震。(台徳院御実記 5)
2月 6日 江戸で大地震。(当代記 2)
3月28日 地震あり。(日本災異誌)
4月 6日 浦和に大雹降り、鳥多数死亡。(慶長日記 3)
6月13日 駿府で地震。(当代記 4)(台徳院御実記 5)
1609(慶長14)年
3月 1日 浅間山噴火。(当代記 5)(台徳院御実記 9)
1610(慶長15)年
4月 9日 三河国日近という所に石が降る。大きさ4、5寸。数は5つ。天震動し、雷の如し。(当代記)
1611(慶長16)年
2月22日 江戸で地震。(台徳院御実記15)
8月13日 会津で大地震。若松城が倒壊する。4万石が地陥りし、湖水が湧出して2700余人が死す。
(続史愚抄53)(台徳院御実記16)
8月21日 会津で地震。(当代記 6)
10月28日 仙台で大地震。三陸地方に大津波が襲い、1783人が死亡する。(台徳院御実記17)
1612(慶長17)年
2月20日 江戸で地震。(台徳院御実記18)
9月 2日 大風雨で各地で洪水。美作津山で吉井川が氾濫、500余人が死亡。
また伊賀上野城天守の工事をしていた180人が死亡する。
11月13日 江戸で地震。(台徳院御実記20)
この年、阿蘇山噴火。(日本災異誌)
1613(慶長18)年
6月 佐賀領で虫損。実盛虫田に入りて喰い枯らす。(鍋島勝茂譜)
8月 3日 暴風雨で長崎からの貿易船15隻が沈没。生糸相場が暴騰。
この年、阿蘇山寶池から砂石が噴き出し、郡中に降る。(震災予防調査会報告86)
1614(慶長19)年
9月 2日 江戸で地震。(慶長日記10?)
10月15日 諸国で大地震。(大地震暦年考)(御日記54)(孝亮記 2)(和漢合運指掌図 4)
1615(元和 1)年
1月16日 京で地震。(孝亮記 2)
1月17日 京で地震。(続史愚抄53)
1月30日 京で地震。(続史愚抄53)
2月24日 京で地震。(続史愚抄53)
3月 4日 京で地震。(孝亮記 2)
3月25日 京で地震。(孝亮記 2)
6月 1日 江戸で大地震。家屋多く倒壊。(玉露叢 5)(続史愚抄53)
7月14日 京で地震。(孝亮記 2)
7月27日 台風による被害のため、佐渡の年貢を3年間半減する。
11月25日 大地震。(日本災異誌)
翌年にかけて諸国大飢饉。(津軽信枚公御代日記)(続史愚抄53)
(歴史地理4-3)(凶荒史考)(青森県史 1)
引用終了
「地震」と言う記述でなく「大地震」、或いは地震に限らず複数の書物で書かれているものはかなり被害が大きかったようです。
自然災害による兵器や軍事施設の被害、更に食料不足などの影響が大きい場合、徳川方の防衛力や経済力低下が十分に有り得る事を諸外国に知られる前に鎖国を強化する必要があった、と言うのも家康が大坂の陣で終結を急いだ理由の一つなのかも知れないと筆者は見ています。
仮に仕方なく野戦を実施したならば、バリケードになる竹束や馬防柵などを持ち運ばねば徳川軍には到底かなわないのですが、大阪の陣で対決する真田勢はどうも神出鬼没な動きだったようで、それならば竹束や馬防柵などは殆ど持ち歩いていなかったと言う可能性が高いようです。こうしたものは移動が大変でしかも敵方に見つかりやすいと考えるからです。
そして竹束や馬防柵などが殆ど無いような野戦でかつ接近戦ならば真田勢の武具である「赤備え」は寧ろ目立って標的になってそれが致命傷になりやすく、これをこの戦いで幸村が使ったのも不可解です。
接近戦を選択したならばなるべく相手方と似た色の武具にして敵味方の区別が多少とも付きにくいように工夫し、兵力差をいくらかでもカバーしようとするのではないでしょうか。
「赤備え」はその色からして目立つので、兵力をより多く見せるのには効果があったケースも過去にはあるようですが、大坂の陣ではその兵力差は既に大きく開いていたし、基本は篭城戦だったので効果は殆ど無かったなずなのです。
更に幸村が野戦を採用するしか無くなり、やむなく大坂城の真田丸周辺だけでの野戦と真田丸への機敏な撤収の組み合わせをしただけと言うなら多少は理解できるのですが、結構遠出をしてます。つまり武田勝頼が大敗した長篠の戦いでの武田騎馬軍団のやり方にやや近いよう戦法を幸村は採っているようにも見えます。
当然の如く幸村が大坂から遠出した場合、家康のお家芸である野戦の餌食になるのは明白なのですが、幸村は結構やや遠出を行っていたようなのです。
以上から筆者が分析した結果はこうです。
幸村は「最初から戦死するための参戦をした可能性がある」か、或いはそうでなければ「最初から名目上だけでも豊臣氏が滅亡したという事実を作る為に徳川方から工作部隊として送り込まれ、できれば実行後に脱出するために豊臣方に参加した可能性がある」の「どちらかでしかなかった」と言う事ではないでしょうか。
では前者の可能性ですが、仮に戦死が目的であったなら最後がとても勇猛果敢とは言えず、変だと思いませんか?
幸村は寺で休んでいる所を徳川方に討ち取られたと言うのが通説ですが、こうした最後はどう見ても冴えないもので真田幸村もこんな姿は望まなかったはずです。
戦死する為の参戦をしたのなら、戦死するとわかっていても徳川軍に勇猛果敢に馬か何かで突撃し、例え逃げられるチャンスがあっても逃げずに鉄砲か槍で方々から撃たれて最後を遂げる、或いは切腹して果てると言うのが普通ではないでしょうか。
そして更に不可解なのは家康の採った戦法です。
織田信長が今川義元を討った桶狭間の戦いの時のように、家康も「城外で狙うは真田幸村か毛利勝永の首のみ」と大号令を発する事は簡単にできたはずなのです。更に戦力の差から見てもその差は圧倒的だったはずで、こうした戦法は当時の家康なら簡単に採用出来たと思われます。
所詮、多勢に無勢。徳川勢が幸村勢を圧倒する兵力で竹束や場棒柵などで簡単に囲い込んで徐々に狭めて行き、幸村らの首を取り、晒し首など(例え幸村の影武者のものであっても)にするのは徳川方にとってやる気になれば簡単に出来たはず、と思うのは私だけでしょうか。
しかし家康はそうした戦法や晒し首を実施していません。
「晒し首をしないと言う姿勢」自体が「家康がそもそも最初から首実検も本気でする気が無かった」と言う事だったのではないでしょうか。
筆者がこうした状況から導き出せた結論はこうでしかありません。
「幸村が勇猛果敢に家康の本陣に突進して見事戦死した、と言う名誉を与えて、幸村が生き延びるのを手引きしたのは実は家康本人である可能性が高い」。
家康の目的はあくまで豊臣氏の滅亡を公式に早急に確かなものにする、と言う事であって、少なくとも幸村の生存が仮に後で裏付けされても本来の目的に影響は少ないので幸村が逃げ延びる機会、あるいは段取りを予め考えていたのではないかと考えています。
何故そこまで急ぐのか? と言うとそれは「冬の陣で高性能の大砲を開示してスペイン勢にこのレベルの大砲を所有している事を既に知られてしまったから」ではないでしょうか。
仮に豊臣氏が滅亡したとしても他の反徳川である外様大名、その他勢力にスペイン勢からこのレベルの高性能な大砲が大量供給されないよう、至急に禁教令を更に強化する必要があったと考えられるのです。
天正地震から後は大規模な自然災害が多発するのですが、関ヶ原の戦いの後も例えば1604年以降、特に1613以降の大地震、津波、噴火、飢饉などの状況から考えてもう豊臣云々ではないような大災害も想定しておかないと徳川家は危なくなる、と家康はややオーバースペックでリスク想定をしていたのではないか、と考えています。
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen03.htm
)
1604(慶長 9)年
1月 8日 岩木山西方の鳥海が破裂し、湖水が流出。(地震調査会)(日本火山総覧)
11月 紀州、四国、西国で地震と津波。上総で大津波があり、人馬多数死す。(当代記 3)
12月 6日 紀州、四国、西国で地震と津波。遠州舞坂で津波により80戸流出。八丈島では民家悉く流出。
50余人が死亡。上総では人馬数百が死す。(東照宮 9)(地震資料2-1)(日本災異誌)
12月16日 東海、南海、西海道諸国に地震と津波。死者多数。(地震資料2-1)
1605(慶長10)年
1月 関東で大地震。死者多数。伊勢、筑紫でも大地震。(孝亮記 1)
9月15日 八丈島が噴火。三ツ根田畑損失多し。(震災調査会)
11月15日 八丈島噴火。(談海)
11月 下旬、浅間山が噴火する。(御日記44)
12月18日 八丈島噴火。一夜にして大山が出現する。(慶長日記 1)(御日記44)
(台徳院御実記 2)(柳営年表)
1606(慶長11)年
6月 1日 江戸で地震が3回ある。(慶長日記 2)
1607(慶長12)年
1月 6日 江戸で大地震。(当代記 2)
1月20日 江戸で大地震。(台徳院御実記 5)
2月 6日 江戸で大地震。(当代記 2)
3月28日 地震あり。(日本災異誌)
4月 6日 浦和に大雹降り、鳥多数死亡。(慶長日記 3)
6月13日 駿府で地震。(当代記 4)(台徳院御実記 5)
1609(慶長14)年
3月 1日 浅間山噴火。(当代記 5)(台徳院御実記 9)
1610(慶長15)年
4月 9日 三河国日近という所に石が降る。大きさ4、5寸。数は5つ。天震動し、雷の如し。(当代記)
1611(慶長16)年
2月22日 江戸で地震。(台徳院御実記15)
8月13日 会津で大地震。若松城が倒壊する。4万石が地陥りし、湖水が湧出して2700余人が死す。
(続史愚抄53)(台徳院御実記16)
8月21日 会津で地震。(当代記 6)
10月28日 仙台で大地震。三陸地方に大津波が襲い、1783人が死亡する。(台徳院御実記17)
1612(慶長17)年
2月20日 江戸で地震。(台徳院御実記18)
9月 2日 大風雨で各地で洪水。美作津山で吉井川が氾濫、500余人が死亡。
また伊賀上野城天守の工事をしていた180人が死亡する。
11月13日 江戸で地震。(台徳院御実記20)
この年、阿蘇山噴火。(日本災異誌)
1613(慶長18)年
6月 佐賀領で虫損。実盛虫田に入りて喰い枯らす。(鍋島勝茂譜)
8月 3日 暴風雨で長崎からの貿易船15隻が沈没。生糸相場が暴騰。
この年、阿蘇山寶池から砂石が噴き出し、郡中に降る。(震災予防調査会報告86)
1614(慶長19)年
9月 2日 江戸で地震。(慶長日記10?)
10月15日 諸国で大地震。(大地震暦年考)(御日記54)(孝亮記 2)(和漢合運指掌図 4)
1615(元和 1)年
1月16日 京で地震。(孝亮記 2)
1月17日 京で地震。(続史愚抄53)
1月30日 京で地震。(続史愚抄53)
2月24日 京で地震。(続史愚抄53)
3月 4日 京で地震。(孝亮記 2)
3月25日 京で地震。(孝亮記 2)
6月 1日 江戸で大地震。家屋多く倒壊。(玉露叢 5)(続史愚抄53)
7月14日 京で地震。(孝亮記 2)
7月27日 台風による被害のため、佐渡の年貢を3年間半減する。
11月25日 大地震。(日本災異誌)
翌年にかけて諸国大飢饉。(津軽信枚公御代日記)(続史愚抄53)
(歴史地理4-3)(凶荒史考)(青森県史 1)
引用終了
「地震」と言う記述でなく「大地震」、或いは地震に限らず複数の書物で書かれているものはかなり被害が大きかったようです。
自然災害による兵器や軍事施設の被害、更に食料不足などの影響が大きい場合、徳川方の防衛力や経済力低下が十分に有り得る事を諸外国に知られる前に鎖国を強化する必要があった、と言うのも家康が大坂の陣で終結を急いだ理由の一つなのかも知れないと筆者は見ています。