本能寺の変については自然災害とあまり関連性が高いと思われないのですが、桶狭間の戦いと関ヶ原の戦いについて以前に記事にしましたので、その間に発生したこの本能寺の変についても書いてみたいとも思います。
この変については黒幕説が多々有り、これだけ黒幕説が多いと言う事はそれだけ織田信長を厄介者と思う人や組織、利権などが多かった、と言う事でもあり、そのうちのどれが本当の黒幕でもおかしくはなかった状況と思います。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
本能寺の変
変の要因
諸説概論
なぜ光秀は信長を討ったのか。「これが定説だ」とか「通説になっている」というものは現在のところ存在しない[214][注釈 50]。変の要因については、江戸時代から明治・大正を経て昭和40年代頃までの「主流中の主流」[16]の考えは、野望説と怨恨説であった。「光秀にも天下を取りたいという野望があった」[214]とする野望説は、謀反や反逆というものは下克上の戦国時代には当たり前の行為[214]であったとするこの頃の認識から容易く受け入れられ、古典史料に記述がある信長が光秀に加えた度重なる理不尽な行為こそが原因[215]であったとする怨恨説と共に、史学会でも長らく揺らぐことはなかった。これは講談・軍記物など俗書が広く流布されていたことに加えて、前節著名な逸話で述べたように、二次、三次的な古典史料に対して考証的検証が不十分だったことに起因する。2説以外には、頼山陽が主張した自衛のために謀反を起こしたとする説[216]など、受動的な動機を主張するものの総称である不安説(焦慮説/窮鼠説)もあったが、怨恨が恐怖に復讐が自衛に置き換わっただけで論拠に本質的な違いはなかった。
戦後には実証史学に基づく研究が進んだが、この分野で先鞭をつけた高柳光寿は野望説論者で、昭和33年(1958年)に著書『明智光秀』を発表してそれまで比較的有力視されてきた怨恨説の根拠を一つひとつ否定した[214]。怨恨説論者である桑田忠親がこれに反論して、両氏は比較的良質な一次史料の考証に基づいた議論を戦わせたが、桑田は昭和48年(1973年)に同名の著書『明智光秀』を発表して、単純な怨恨説(私憤説)ではなく武道の面目を立てるために主君信長を謀殺したという論理で説を展開した[214]ので、それが近年には義憤説、多種多様な名分存在説に発展している。信長非道阻止説の小和田哲男もこの系譜に入る。また野望説は、変後の光秀の行動・計画の支離滅裂さが批判されたことから、天下を取りたいという動機を同じにしながらも事前の計画なく信長が無防備に本能寺にいることを見て発作的に変を起こしたという突発説(偶発説)という亜種に発展した[214]。しかし考証的見地からの研究で判明したことは、結局、どの説にも十分な根拠がないということであり、それがどの説も未だに定説に至らない理由となっている。
野望説も怨恨説も不安説等も光秀が自らの意思で決起したことを前提とする光秀単独犯説(光秀主犯説)であったが、これとは全く異なる主張も現れた。作家八切止夫は、昭和42年(1967年)に著書『信長殺し、光秀ではない』を発表して主犯別在説(所謂、陰謀論の一種)の口火を切った。八切は「濃姫が斎藤利三と共謀して本能寺に兵を向けさせた。その際、四国侵攻準備中の織田軍をマカオ侵略と誤認した宣教師が、爆薬を投げ込んで信長を殺害したもの」[16]で「光秀自身はまったく関与していない」と書き、光秀無罪という奇想天外な主張をしたので、歴史家には無視されたものの、史料の取捨選択と独自解釈について一石を投じるものとなった[16]。
また、昭和43年(1968年)に岩沢愿彦が「本能寺の変拾遺 ―『日々記』所収天正十年夏記について」という論文を歴史地理誌に発表して勧修寺晴豊の『日々記』を活字で復刻した[217]ことをきっかけにして公家衆の日記の研究が進み、平成3年(1991年)に立花京子が歴史評論誌上で『晴豊公記』新解釈に基づく論文『信長への三職推任について』を、平成4年(1992年)には今谷明が著書『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』を発表して注目を集めた[218]。平成頃になって史学会では朝廷黒幕説(朝廷関与説)がにわかに脚光を浴びて、有力な説の1つのように見なされるようになった[219]。従来より黒幕説は登場人物を自由に動かして“物語”を書きやすいことから作家に好まれたものであり、数えきれないほどの人物が黒幕として取り上げられていた[220]が、そういった創作分野に史学が混ざったことで一層触発されて、現在も主犯存在説と黒幕存在説(共謀説)の2系統[注釈 51]、そして複合説と呼ばれる複数の説を混ぜたものが増え続けている。平成21年(2009年)に明智憲三郎が発表した著書『本能寺の変 427年目の真実』[注釈 52]は共謀説に分類される。
こうして光秀単独犯説が定番だったものが、光秀を背後で操る黒幕がいたとか、陰謀があったとか、共謀者がいたとかいう雑説が増えていくと、黒幕説(謀略説)には何の史料的根拠もなく空中楼閣に過ぎないという当然の反論や批判が登場した。平成18年(2006年)に鈴木眞哉と藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』で黒幕など最初からいないとして、黒幕説には以下の共通する5つの問題があると指摘した[221]。
事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀と接触したかの説明がない。
実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明がない。
光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明がない。
黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援してない事への説明がない。
決定的なことは、裏付け史料がまったくないこと。
藤本は平成22年(2010年)に発表した著書『本能寺の変―信長の油断・光秀の殺意』でも朝廷黒幕説を含めた各種の黒幕説を批判している[222]。
また平成26年(2014年)の石谷(いしがい)家文書の公表によって、近年は四国征伐回避説(四国説)も着目されているが、この説の取り扱いについては後述する。
本能寺の変の謎については結局は肝心の動機がわからず定説が存在しないため、さまざまな諸説・空説が登場し、歴史家・作家だけでなく歴史愛好家も自らの主張を展開して、百花繚乱という現状であるが、平成6年(1994年)に歴史アナリスト後藤敦が別冊歴史読本(『完全検証信長襲殺 : 天正十年の一番長い日』)誌上で、これらの諸説を整理して大きく3つに分けてさらに50に細分化して分類した。下表はそれに別資料の6つを加えて56にまとめたものである。これらには一部が重複するあるいは複合する内容や同じことを別の表現で言っているものがある[223]ために、それぞれが全く異なる説であるというわけではない。表の中身には研究と創作とが混ざっており、中には何ら史料的裏付けがなく、全くの憶測で説が提唱されている場合もあり[223]、すべて同等に扱うのは適切ではない[223]が、全体像を明らかにするために一覧として示した[注釈 53]。
本能寺の変の真相をめぐる諸説(後藤敦による整理[224]他[225][226][227]を参考に) 光秀単独犯説・光秀主犯説
I. 積極的謀反説 II. 消極的謀反説
野望説
突発説(偶発説・油断説)
怨恨説(私憤説)
不安説(焦慮説、窮鼠説)
ノイローゼ説
内通露顕説
人間性不一致説
秀吉ライバル視説
III. 名分存在説(義憤説) IV. 複合説
救世主説
神格化阻止説
暴君討伐説
朝廷守護説
源平交代説
信長非道阻止説
四国征伐回避説
不安・怨恨説
怨恨・突発説
不安・突発説
野望・突発説
不安・野望説
怨恨・野望説
その他の複合説
主犯存在説
・
黒幕存在説 V. 主犯存在説(主犯別在説) VI. 従犯存在説
羽柴秀吉実行犯説
斎藤利三実行犯説
徳川家康主犯・伊賀忍者実行犯説
複数実行犯・複数黒幕存在説
近江土豪連合関与説
長宗我部元親関与説
濃姫関与説
光秀の妻関与説
羽柴秀吉関与説
VII. 黒幕存在説(黒幕説) VIII. 黒幕複数説(共謀説)
朝廷黒幕説
足利義昭黒幕説
羽柴秀吉黒幕説
毛利輝元黒幕説
徳川家康黒幕説
堺商人黒幕説
フロイス黒幕説・イエズス会黒幕説
高野山黒幕説
森蘭丸黒幕説
法華宗門徒黒幕説
光秀・秀吉共謀説
光秀・家康共謀説
光秀・秀吉・家康共謀説(土岐明智家滅亡阻止説)
足利義昭・朝廷黒幕説
毛利輝元・足利義昭・朝廷黒幕説
近衛前久・徳川家康黒幕説
堺商人・徳川家康黒幕説
上杉景勝・羽柴秀吉黒幕説
徳川家康・イギリス・オランダ黒幕説
足利義昭・羽柴秀吉・毛利輝元黒幕説
その他 IX. 関連説
信長の対朝廷政策との関連[注釈 53]
家臣団統制との関連[注釈 53]
信長自滅説[注釈 53]
信長不死説[注釈 53]
家康暗殺説
※ 無罪説という分類もあるが、分類の都合上除き、本文中に記した。
引用終了
そして最近話題になったニュースがありました。
引用開始(一部抜粋)
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20170912k0000m040159000c.html
<明智光秀>密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ
本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】
藤田教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈したという。
鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。
書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。
引用終了
ただ言える事は、この手紙が本能寺の変のかなり前のものであれば確かに光秀が用意周到に計画していたとも考えられるのですが、手紙の日付けは「6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。」となっています。
こんな事を光秀が山崎の戦いで破れてその後討ち取られたとする6月13日の前日に書いていると言う事はそれまではそのような根回しが十分で無かったと見て良いと考えられます。
いずれは光秀が信長を討ち取るつもりであったとしてもこの手紙の状況、そしてその後に山崎の戦いで敗れた状況から見てあまりにも用意がなされておらず、これが何を意味するのかと言えば、一つは信長による四国征伐が急な話だった事、或いはそれを阻止しようとした斉藤利光が暴走に近い行動に出てそれを光秀も容認せざるを得なかった事、或いはそれだけ秀吉の中国大返しが想定外に速かった事が挙げられると筆者は考えています。
秀吉の中国大返しについては、秀吉が毛利氏との和睦の際、密約したとの説も有るのですが、筆者は「そのかなり前から毛利氏が秀吉を抱き込む事に成功していた」、と筆者は考えています。
秀吉はこの時の体験を生かしたと思われ、その後に徳川方のブレイン、石川数正の抱き込みに成功します。
この変については黒幕説が多々有り、これだけ黒幕説が多いと言う事はそれだけ織田信長を厄介者と思う人や組織、利権などが多かった、と言う事でもあり、そのうちのどれが本当の黒幕でもおかしくはなかった状況と思います。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
本能寺の変
変の要因
諸説概論
なぜ光秀は信長を討ったのか。「これが定説だ」とか「通説になっている」というものは現在のところ存在しない[214][注釈 50]。変の要因については、江戸時代から明治・大正を経て昭和40年代頃までの「主流中の主流」[16]の考えは、野望説と怨恨説であった。「光秀にも天下を取りたいという野望があった」[214]とする野望説は、謀反や反逆というものは下克上の戦国時代には当たり前の行為[214]であったとするこの頃の認識から容易く受け入れられ、古典史料に記述がある信長が光秀に加えた度重なる理不尽な行為こそが原因[215]であったとする怨恨説と共に、史学会でも長らく揺らぐことはなかった。これは講談・軍記物など俗書が広く流布されていたことに加えて、前節著名な逸話で述べたように、二次、三次的な古典史料に対して考証的検証が不十分だったことに起因する。2説以外には、頼山陽が主張した自衛のために謀反を起こしたとする説[216]など、受動的な動機を主張するものの総称である不安説(焦慮説/窮鼠説)もあったが、怨恨が恐怖に復讐が自衛に置き換わっただけで論拠に本質的な違いはなかった。
戦後には実証史学に基づく研究が進んだが、この分野で先鞭をつけた高柳光寿は野望説論者で、昭和33年(1958年)に著書『明智光秀』を発表してそれまで比較的有力視されてきた怨恨説の根拠を一つひとつ否定した[214]。怨恨説論者である桑田忠親がこれに反論して、両氏は比較的良質な一次史料の考証に基づいた議論を戦わせたが、桑田は昭和48年(1973年)に同名の著書『明智光秀』を発表して、単純な怨恨説(私憤説)ではなく武道の面目を立てるために主君信長を謀殺したという論理で説を展開した[214]ので、それが近年には義憤説、多種多様な名分存在説に発展している。信長非道阻止説の小和田哲男もこの系譜に入る。また野望説は、変後の光秀の行動・計画の支離滅裂さが批判されたことから、天下を取りたいという動機を同じにしながらも事前の計画なく信長が無防備に本能寺にいることを見て発作的に変を起こしたという突発説(偶発説)という亜種に発展した[214]。しかし考証的見地からの研究で判明したことは、結局、どの説にも十分な根拠がないということであり、それがどの説も未だに定説に至らない理由となっている。
野望説も怨恨説も不安説等も光秀が自らの意思で決起したことを前提とする光秀単独犯説(光秀主犯説)であったが、これとは全く異なる主張も現れた。作家八切止夫は、昭和42年(1967年)に著書『信長殺し、光秀ではない』を発表して主犯別在説(所謂、陰謀論の一種)の口火を切った。八切は「濃姫が斎藤利三と共謀して本能寺に兵を向けさせた。その際、四国侵攻準備中の織田軍をマカオ侵略と誤認した宣教師が、爆薬を投げ込んで信長を殺害したもの」[16]で「光秀自身はまったく関与していない」と書き、光秀無罪という奇想天外な主張をしたので、歴史家には無視されたものの、史料の取捨選択と独自解釈について一石を投じるものとなった[16]。
また、昭和43年(1968年)に岩沢愿彦が「本能寺の変拾遺 ―『日々記』所収天正十年夏記について」という論文を歴史地理誌に発表して勧修寺晴豊の『日々記』を活字で復刻した[217]ことをきっかけにして公家衆の日記の研究が進み、平成3年(1991年)に立花京子が歴史評論誌上で『晴豊公記』新解釈に基づく論文『信長への三職推任について』を、平成4年(1992年)には今谷明が著書『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』を発表して注目を集めた[218]。平成頃になって史学会では朝廷黒幕説(朝廷関与説)がにわかに脚光を浴びて、有力な説の1つのように見なされるようになった[219]。従来より黒幕説は登場人物を自由に動かして“物語”を書きやすいことから作家に好まれたものであり、数えきれないほどの人物が黒幕として取り上げられていた[220]が、そういった創作分野に史学が混ざったことで一層触発されて、現在も主犯存在説と黒幕存在説(共謀説)の2系統[注釈 51]、そして複合説と呼ばれる複数の説を混ぜたものが増え続けている。平成21年(2009年)に明智憲三郎が発表した著書『本能寺の変 427年目の真実』[注釈 52]は共謀説に分類される。
こうして光秀単独犯説が定番だったものが、光秀を背後で操る黒幕がいたとか、陰謀があったとか、共謀者がいたとかいう雑説が増えていくと、黒幕説(謀略説)には何の史料的根拠もなく空中楼閣に過ぎないという当然の反論や批判が登場した。平成18年(2006年)に鈴木眞哉と藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』で黒幕など最初からいないとして、黒幕説には以下の共通する5つの問題があると指摘した[221]。
事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀と接触したかの説明がない。
実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明がない。
光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明がない。
黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援してない事への説明がない。
決定的なことは、裏付け史料がまったくないこと。
藤本は平成22年(2010年)に発表した著書『本能寺の変―信長の油断・光秀の殺意』でも朝廷黒幕説を含めた各種の黒幕説を批判している[222]。
また平成26年(2014年)の石谷(いしがい)家文書の公表によって、近年は四国征伐回避説(四国説)も着目されているが、この説の取り扱いについては後述する。
本能寺の変の謎については結局は肝心の動機がわからず定説が存在しないため、さまざまな諸説・空説が登場し、歴史家・作家だけでなく歴史愛好家も自らの主張を展開して、百花繚乱という現状であるが、平成6年(1994年)に歴史アナリスト後藤敦が別冊歴史読本(『完全検証信長襲殺 : 天正十年の一番長い日』)誌上で、これらの諸説を整理して大きく3つに分けてさらに50に細分化して分類した。下表はそれに別資料の6つを加えて56にまとめたものである。これらには一部が重複するあるいは複合する内容や同じことを別の表現で言っているものがある[223]ために、それぞれが全く異なる説であるというわけではない。表の中身には研究と創作とが混ざっており、中には何ら史料的裏付けがなく、全くの憶測で説が提唱されている場合もあり[223]、すべて同等に扱うのは適切ではない[223]が、全体像を明らかにするために一覧として示した[注釈 53]。
本能寺の変の真相をめぐる諸説(後藤敦による整理[224]他[225][226][227]を参考に) 光秀単独犯説・光秀主犯説
I. 積極的謀反説 II. 消極的謀反説
野望説
突発説(偶発説・油断説)
怨恨説(私憤説)
不安説(焦慮説、窮鼠説)
ノイローゼ説
内通露顕説
人間性不一致説
秀吉ライバル視説
III. 名分存在説(義憤説) IV. 複合説
救世主説
神格化阻止説
暴君討伐説
朝廷守護説
源平交代説
信長非道阻止説
四国征伐回避説
不安・怨恨説
怨恨・突発説
不安・突発説
野望・突発説
不安・野望説
怨恨・野望説
その他の複合説
主犯存在説
・
黒幕存在説 V. 主犯存在説(主犯別在説) VI. 従犯存在説
羽柴秀吉実行犯説
斎藤利三実行犯説
徳川家康主犯・伊賀忍者実行犯説
複数実行犯・複数黒幕存在説
近江土豪連合関与説
長宗我部元親関与説
濃姫関与説
光秀の妻関与説
羽柴秀吉関与説
VII. 黒幕存在説(黒幕説) VIII. 黒幕複数説(共謀説)
朝廷黒幕説
足利義昭黒幕説
羽柴秀吉黒幕説
毛利輝元黒幕説
徳川家康黒幕説
堺商人黒幕説
フロイス黒幕説・イエズス会黒幕説
高野山黒幕説
森蘭丸黒幕説
法華宗門徒黒幕説
光秀・秀吉共謀説
光秀・家康共謀説
光秀・秀吉・家康共謀説(土岐明智家滅亡阻止説)
足利義昭・朝廷黒幕説
毛利輝元・足利義昭・朝廷黒幕説
近衛前久・徳川家康黒幕説
堺商人・徳川家康黒幕説
上杉景勝・羽柴秀吉黒幕説
徳川家康・イギリス・オランダ黒幕説
足利義昭・羽柴秀吉・毛利輝元黒幕説
その他 IX. 関連説
信長の対朝廷政策との関連[注釈 53]
家臣団統制との関連[注釈 53]
信長自滅説[注釈 53]
信長不死説[注釈 53]
家康暗殺説
※ 無罪説という分類もあるが、分類の都合上除き、本文中に記した。
引用終了
そして最近話題になったニュースがありました。
引用開始(一部抜粋)
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20170912k0000m040159000c.html
<明智光秀>密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ
本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】
藤田教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈したという。
鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。
書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。
引用終了
ただ言える事は、この手紙が本能寺の変のかなり前のものであれば確かに光秀が用意周到に計画していたとも考えられるのですが、手紙の日付けは「6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。」となっています。
こんな事を光秀が山崎の戦いで破れてその後討ち取られたとする6月13日の前日に書いていると言う事はそれまではそのような根回しが十分で無かったと見て良いと考えられます。
いずれは光秀が信長を討ち取るつもりであったとしてもこの手紙の状況、そしてその後に山崎の戦いで敗れた状況から見てあまりにも用意がなされておらず、これが何を意味するのかと言えば、一つは信長による四国征伐が急な話だった事、或いはそれを阻止しようとした斉藤利光が暴走に近い行動に出てそれを光秀も容認せざるを得なかった事、或いはそれだけ秀吉の中国大返しが想定外に速かった事が挙げられると筆者は考えています。
秀吉の中国大返しについては、秀吉が毛利氏との和睦の際、密約したとの説も有るのですが、筆者は「そのかなり前から毛利氏が秀吉を抱き込む事に成功していた」、と筆者は考えています。
秀吉はこの時の体験を生かしたと思われ、その後に徳川方のブレイン、石川数正の抱き込みに成功します。