快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  本能寺の変 追い詰められていた人達はどれだけいたのか? その2

2017-09-25 21:23:52 | 地震 津波
 信長が光秀に対して秀吉の応援に行くよう命じたため、光秀の家臣であり、光秀に守られていた斉藤利三は信長からの切腹命令もあって本能寺の変に及んだと筆者は考えているわけですが、追い詰められていたのは敵方として抵抗していた毛利氏もだったと言うのは言うまでも有りません。
 当時、秀吉の中国攻めで高松城の水攻めにより毛利氏の軍勢約4万と秀吉の軍約2万が睨みあい、そこへ織田方から応援の軍がかけつけるとなると、双方互角に近い状態で全面衝突となり大規模な野戦などになって共に大きな犠牲が想定される可能性が高くなります。
 更に信長が政策変更を急遽行い、長宗我部氏と和睦して四国征伐に配分する予定だった兵力を毛利攻めに充当し始めた場合、毛利氏はどう見ても不利となります。
 最悪の場合は長宗我部氏までが織田方として参戦し、攻略した毛利氏の所領を織田方と山分け、と言うシナリオも当然考えられ、更に仮に本能寺の変の後、明智光秀が政権を取った場合であっても、斉藤利三を通して光秀と繋がりが深い長宗我部氏の方が、四国中国地方では大きく勢力を伸ばす事が想定されたはずと考えています。
 毛利氏の所領である鞆の浦にいた足利義昭を本能寺に変の後、毛利氏へその知らせが届いてからすぐに四国経由などで京都へ向かわせれば、光秀は或いはより有利に出来たかも知れないのですが、毛利氏にはそうした動きは有りませんでした。
 高松城の水攻めが和睦となる同時に足利義昭を京都になるべく遅らせないような密約が毛利氏と秀吉との間に存在していたとしても不思議では有りません。
 光秀から足利義昭への密書も毛利氏へ筒抜けだったのかも知れませんが、真相はわかりません。
 毛利氏にとっては信長と信忠がいなくなり、更には信長の政策である中国攻めを続ける跡継ぎの信孝にいなくなって欲しかったのは当然と思われるのですが、更には長宗我部氏優先製政策となるであろう光秀の方が、秀吉よりはいなくなって欲しかった可能性は高かったのではないでしょうか。
 そして本能寺の数ヶ月以上前から毛利氏と秀吉はかなりの連携を話し合っていたのではないか、と考えています。
 本能寺の変から後から、秀吉はまるで精密機械のように上記の条件を満たす結果を次々と残して行きます。
 本能寺の変では信長と信忠が討たれ、山崎の戦いでは明智光秀も斉藤利三も秀吉に討たれ、その後に信長の三男である織田信孝は自害させられる事となりますが、これもどうやら秀吉の意図と見られるているのが通説のようです。
 そして残る織田信雄は既に秀吉の意のままの存在でしかなかったようでした。


引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AD%9D

天正11年(1583年)正月、まず伊勢で滝川一益が挙兵し、3月、雪解けと共に挙兵した勝家に呼応して信孝も挙兵した。こうして賤ヶ岳の戦いが始まると、4月16日、秀吉は江北陣より美濃に入って岐阜城を包囲。20日に賤ヶ岳砦で戦闘があると、秀吉は取って返して勝家を破り、頼みの勝家も24日に北ノ庄城で自害した。25日、秀吉は再び岐阜城の包囲を再開する。
詳細は「賤ヶ岳の戦い」を参照

信雄は信孝を欺いて和議を持ちかけ、岐阜城を開城させて、信孝を尾張国へ向かわせた[47]。信孝の家来の外様衆は離散し、神戸四百八十人衆は団結して帰国した。主人に殉じようとした家来は太田新左衛門尉、小林甚兵衛以下、27人の近習のみだった[48]。また秀吉は、飯沼長継などを信孝に内通したとして斬っており、戦後に秀吉が信孝に仕えた武士を嫌って登用しなかったという事跡も伝わっている。

信孝は長良川を下って尾張国知多郡に奔り、野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺(野間大坊)に退いた。ここの安養院[注釈 22]で4月29日[1](6月19日)または5月2日[2](6月21日)に、信雄の命令によって信孝は自害させられた[19]。これは秀吉の内意があったとされる[1]。

信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれる。安養院には短刀とその血の跡が残る掛け軸が伝来している[3][49]。享年26[1]。太田新左衛門尉は介錯を務めて後、自害して殉死した[48]。

辞世は「むかしより 主(しゅう[注釈 23])をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん[50][注釈 24]」。信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句であるが、同じ尾張国野間の内海で源義朝を騙し討ちにして平清盛に首を献じた逆臣・長田忠致[注釈 25]の故事にかけたものといわれる。

引用終了

 明智光秀と長宗我部氏の連携と勢力拡大をみれば、毛利氏もまた同様に秀吉と連携を取らないと後々明智光秀と長宗我部グループと対等になれないだろうとの危機感を持ち、先手先手で対策をして秀吉に近寄った、と言う所ではないでしょうか。
 結果として毛利輝元は豊臣政権で5大老の中に入りました。