快気分析

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仕組みとアプローチ -  毛利攻め援軍を進言したのは秀吉ではなく明智光秀だったのではないか、とする考え方

2019-01-12 13:51:42 | 明智光秀
 本能寺の変の少し前、秀吉から援軍の要請が信長に入った為に明智光秀が徳川家康の饗応役を解かれた、と言うのが通説とされているようです。
 単刀直入に結論から書きますが、調べて行く内にこれは秀吉政権によるウソだと個人的に考えるようになりました。
 
引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

本能寺の変
(中略)
信長と光秀
天正10年(1582年)5月14日、織田信長は(『兼見卿記』によれば)安土城に下向した長岡藤孝に命じ、明智光秀を在荘として軍務を解くから翌日に安土を訪れる予定の徳川家康の饗応役を務めるようにと指示した[125]。そこで光秀は京・堺から珍物を沢山取り揃えて、15日より3日間、武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康や、金2,000枚を献じて所領安堵された穴山梅雪らの一行をもてなした。ところが、17日、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が現れたので応援を要請するという旨の手紙が届いたため、信長は「今、安芸勢と間近く接したことは天が与えた好機である。自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」[106][注釈 24]と決心して、堀秀政を使者として備中に派遣し、光秀とその与力衆(長岡藤孝・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩川長満)には援軍の先陣を務めるように命じた[106]。ただし『川角太閤記』では、単なる秀吉への援軍ではなく、光秀の出陣の目的は毛利領国である伯耆・出雲に乱入して後方を撹乱することにあったとしている[127]。ともかく、光秀は急遽17日中に居城坂本城に戻り、出陣の準備を始めた。

引用終了

 それでこの事が書かれているのは何なのか? となりwikipediaでこれを辿って行くと「信長公記」のようです。
 この「信長公記」とは如何なるものかと言うと次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98

『信長公記』(しんちょうこうき)は、戦国大名である織田信長の一代記で、戦国時代から安土桃山時代にかけての史料。著者は信長旧臣の太田牛一。原本は江戸時代初期に成立した[1]。全16巻。
(中略)
成立
太田牛一は尾張春日郡の出自で、信長の死後には織田家臣の丹羽長秀に右筆として仕え、長秀の没後には豊臣秀吉に仕えている。『信長公記』は長秀・秀吉家臣時代の記録をもとに編纂されたと考えられている。
藤本正行は著書『信長の戦争』の中で、同じ本の中でありながら、信長に対して「上様」「信長公」「信長」と表現が変わっている部分や、徳川家康を「家康」と呼び捨てにしていたり「家康公」「家康卿」「家康殿」と敬称をつけている箇所などがある点に言及し、さまざまな時期に書いたメモのようなものを切り貼りして一冊の本として作り上げたものであるとみている。

引用終了

 つまりこの「信長公記」とは秀吉や本能寺の変後は秀吉に与した丹羽長秀らの利益優先で書かれた部分も多いものであり、言わば当時において政権を握った秀吉らによって情報操作されたものだったと見て間違いないと考えて良いと思っています。
 別に「信長公記」の全てが偽情報とは限らないのですが、ある真相が欠落していたり、捏造された偽情報が書かれている部分も少なくないのではないでしょうか。
 なので「秀吉が援軍を要請した」、と言うのは当時政権を握っていた秀吉に都合の良いようにすり替えられたものだと思っています。
 では誰が織田信長、信忠とそして明智光秀ら織田方本隊による毛利攻め直接参加を考え、或いは進言したのか?
 実はそれを考え、そして進言したのは他ならぬ明智光秀だったと今では思っています。
 その理由は次の通りです。

 当時において三好氏と縁戚関係になった秀吉によって長宗我部氏の所領が脅かされつつあり、更に信長が長宗我部氏を敵視するように巧みに根回しをする秀吉を明智光秀は面白く思っていなかった。
 そこへ備中高松城攻囲中の秀吉方の土木工事の関係者などに毛利氏が攻撃を加えて妨害した形跡が無く、兵同士の戦闘らしきものも無い。どうやら秀吉と毛利氏が癒着していて共謀関係になりつつ有るのではないか?と思えなくもない状況となった為、明智光秀が信長に「秀吉に癒着か謀反の動き有り」と進言した、と言うのが真相だったのではないか、と(個人的にと言う程度に過ぎませんが)今では考えています。

 「信長公記」とはその名に「公」と言う如何にも利害に流されないような字が入っている表現とは裏腹に秀吉政権と言う「個人商店」の利益を優先して真実などとは関係ない部分も有るプロパガンダの書物ではないでしょうか。