前々回の記事で書いた以外にも明智光秀が畿内を離れて毛利攻め援軍を進言を行い、出雲・石見への国替えを考えていた状況について今回は記事にしてみます。
当時の高野山との関係は次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90#%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E7%B4%80%E5%B7%9E%E6%94%BB%E3%82%81
信長の紀州攻め
(中略)
天正10年(1582年)1月、信長は松山新介を多和(現・橋本市)に派遣する。松山は多和に築城し、2月初頭には盛んに九度山方面へ攻撃を仕掛けた。同月9日、信長は武田攻めに当たって筒井順慶以下大和衆に出陣を促した。同時に、大和衆の一部と河内衆は残留して高野山の抑えとなるよう命じた。14日、高野勢は多和城並びに筒井勢[37]の守る大和口の砦を攻撃。同月末、織田方の岡田重孝らが学文路口の西尾山の砦を攻めたが部将2人を失って撃退される。
3月3日、高野勢50余人が多和城を夜襲して損害を与えた。10日早朝、織田勢は夜襲の報復として寺尾壇の砦を攻撃、城将医王院が討死するも寄手の損害も大きく撃退された。4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。同月、織田方の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城(現紀の川市)を攻撃した。高野勢は大将南蓮上院弁仙と副将橋口隼人らがこれを防ぎ、竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。
引用終了
これを見ると「4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。」と有りますが、織田信孝が転任したから高野衆が勢い付いて「竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。」のではなく、実は原因と結果が逆で「高野衆の攻勢が強くとても制圧できないので 織田信孝のメンツが丸潰れになる前に転任させた」と言うのが実相なのではないか?と個人的には考えています。
そうなると仮に高野山を陥落させた場合、かなりの撫で斬り、つまり大量虐殺が信長によって強行されるわけで、流石に明智光秀と言えども先手を打って毛利攻めと言う大義名分で「大量虐殺の実行者」になるのを避けたかったのではないかと思われます。
これが何を意味するかと言うと、高野衆とそれを支援する雑賀衆の一部グループなどがそれだけ崖っぷちに追い込まれていたと言う事でも有り、「反信長ネットワークを形成して襲撃グループに直接間接で関与してた」と言う可能性がゼロでは無いと考えられるのです。
そして比叡山焼き討ちで当初は反対していたといわれる説が有る明智光秀ならば、「もう同じ様な事はしたくない」と思っていたと想定するのが普通なのではないでしょうか。
通説では明智光秀が愛妻家であったとする説が有力なようですが、それが事実ならば出来る事なら「光秀が高野山の僧らを大量虐殺する実行者」となるのを出来る範囲で回避すべくあらゆる対策案を考えてその一部を信長に進言し、それが「明智勢を含む織田本隊による毛利攻め」だったのではないかと(個人的な見方に過ぎないのですが)考えています。
織田勢本隊参加による毛利攻めで得をするのは秀吉ではなく明智光秀だったのではないでしょうか。
当時の高野山との関係は次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90#%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E7%B4%80%E5%B7%9E%E6%94%BB%E3%82%81
信長の紀州攻め
(中略)
天正10年(1582年)1月、信長は松山新介を多和(現・橋本市)に派遣する。松山は多和に築城し、2月初頭には盛んに九度山方面へ攻撃を仕掛けた。同月9日、信長は武田攻めに当たって筒井順慶以下大和衆に出陣を促した。同時に、大和衆の一部と河内衆は残留して高野山の抑えとなるよう命じた。14日、高野勢は多和城並びに筒井勢[37]の守る大和口の砦を攻撃。同月末、織田方の岡田重孝らが学文路口の西尾山の砦を攻めたが部将2人を失って撃退される。
3月3日、高野勢50余人が多和城を夜襲して損害を与えた。10日早朝、織田勢は夜襲の報復として寺尾壇の砦を攻撃、城将医王院が討死するも寄手の損害も大きく撃退された。4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。同月、織田方の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城(現紀の川市)を攻撃した。高野勢は大将南蓮上院弁仙と副将橋口隼人らがこれを防ぎ、竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。
引用終了
これを見ると「4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。」と有りますが、織田信孝が転任したから高野衆が勢い付いて「竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。」のではなく、実は原因と結果が逆で「高野衆の攻勢が強くとても制圧できないので 織田信孝のメンツが丸潰れになる前に転任させた」と言うのが実相なのではないか?と個人的には考えています。
そうなると仮に高野山を陥落させた場合、かなりの撫で斬り、つまり大量虐殺が信長によって強行されるわけで、流石に明智光秀と言えども先手を打って毛利攻めと言う大義名分で「大量虐殺の実行者」になるのを避けたかったのではないかと思われます。
これが何を意味するかと言うと、高野衆とそれを支援する雑賀衆の一部グループなどがそれだけ崖っぷちに追い込まれていたと言う事でも有り、「反信長ネットワークを形成して襲撃グループに直接間接で関与してた」と言う可能性がゼロでは無いと考えられるのです。
そして比叡山焼き討ちで当初は反対していたといわれる説が有る明智光秀ならば、「もう同じ様な事はしたくない」と思っていたと想定するのが普通なのではないでしょうか。
通説では明智光秀が愛妻家であったとする説が有力なようですが、それが事実ならば出来る事なら「光秀が高野山の僧らを大量虐殺する実行者」となるのを出来る範囲で回避すべくあらゆる対策案を考えてその一部を信長に進言し、それが「明智勢を含む織田本隊による毛利攻め」だったのではないかと(個人的な見方に過ぎないのですが)考えています。
織田勢本隊参加による毛利攻めで得をするのは秀吉ではなく明智光秀だったのではないでしょうか。