快気分析

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仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 本格的な戦闘開始の状況における不可解な矛盾点

2019-07-02 08:51:58 | 明智光秀
 山崎の戦いでは開始前から多少の小競り合いは有ったものの、本格的な戦闘開始は天王山の山麓に先に陣取っていた中川清秀の部隊に明智方の伊勢貞興らの部隊が攻撃を仕掛けた事だったと言うのが通説のようです。
 個人的に考えた事に過ぎませんが、これについては不可解な矛盾点が有るように思えます。
 前回の記事にある通り、明智勢が無用心に(無防備なままで)山崎町の東門(東黒門)の外側に集結し東門の戸を叩いた、と言うその直前に秀吉方である中川清秀の部隊に明智方の伊勢貞興ら、或いは松田政近・並河易家ら丹波衆の部隊が攻撃を加えて戦闘開始になったのだとしたなら、中川清秀の近縁で同じ摂津衆である高山右近も秀吉側についたと言う事であり、その高山右近が占拠している山崎町の東門を大勢が集まり無防備な態勢で戸を叩く事などしないのではないか? 叩くとしたらまず数名の兵だけを東門に行かせて戸を叩かせ、様子を見てから順次東門に近寄る、と言うの通常の手段だと思うのです。
 これが何を意味するのかと言うと、中川清秀が前夜に陣取った天王山の山麓から高山右近のいるあたりに隣接する場所に移動していた時に、明智勢は(中川清秀らが秀吉方へ加勢したとは知らずに)合流しようとして、中川清秀の部隊から突然攻撃をされた、と言う事なのかと思えてしまいます。
 東門の外側にいた明智勢はこの衝突を中川清秀らの明智勢と秀吉方の黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らの部隊との衝突と勘違いした、何故なら戦闘が開始されたこの天王山山麓は森林が多く、平地である東門あたりにいた明智勢からはすぐには状況が良く見えなかったから、と言う事も少なからず有りえるわけです。
 所詮古文書に記されている事自体がそもそも戦闘の真実を書いているのかどうかさえわからないのでこのあたりの事は確定まで出来ませんが、ただ仮に明智光秀が高山右近と中川清秀が秀吉方へ加勢したのがわかっていたのなら山崎町の東門外側に多数の指揮官や兵を集結させるような事や無用心な態勢で戸を叩いて開けさせるような事もさせなかっただけでなく、明智方の軍勢をあのような分散配置をしなかったと思ってしまうし、更に松田政近・並河易家と言う丹波衆らのように山崎町や天王山の地理を殆んど知らない指揮官の部隊を天王山山麓、山中に配置しなかったと考えてしまいます。
 明智光秀はこのあたりの地理に詳しくない斉藤利三、松田政近、並河易家、伊勢貞興らの部隊を、山崎町周辺や天王山の地理により詳しい高山右近や中川清秀に合流させようとして突如攻撃されたのではないでしょうか。
 


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