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自然災害 仕組みとアプローチ -  大阪の陣 やはり真田幸村は大坂城に行くべきではなかった

2016-10-14 13:11:38 | 地震 津波
 大阪の陣に対し、豊臣方では軍議にて様々な対策が練られたようです。


引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された[注釈 9]。

同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。

引用終了

 豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させる方法はある程度有効だったのかも知れず、それがために徳川軍から猛烈な妨害を受けたようです。
 確かに大坂城周辺を水没させて浅瀬を広く確保してしまえば徳川軍は兵は進められず、軍船も大型のものは航行不可能だったも知れません。
 しかしそれでおそらく遅かれ早かれ徳川軍の砲撃を受けた可能性は高いと考えられます。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E7%A0%B2
セーカー砲(セーカーほう、英語: Saker)は近世に用いられた弾丸重量5ポンドクラスの小口径前装式大砲。
小型船にも搭載できる様に小型化された砲でカルバリン砲よりも弾丸重量が小さいが、その代わり装薬量を増やし砲身長を長くする事で長射程を可能とした。
日本での導入実績
日本の記録に登場するのは、大坂の役直前に徳川家康がイギリスより輸入したものが最初である。大坂の役で使用されたか否かは記録が存在しない。

引用終了

 セーカー砲ならば喫水の浅い小型の船で大坂城への射程圏内に近付く事ができたはずなのです。
 どうも当時この大砲は1門しかなかったようですが、必要であれば買い増しはしたでしょう。
 そして徳川軍は射程距離の長いカルバリン砲も用意して実際に使ったようです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%B3%E7%A0%B2
カルバリン砲
16世紀から17世紀に用いられ、騎乗兵や歩兵に危害を加えた。また一方で艦載砲としても搭載され、カノン砲よりも威力は低いが長射程を有すためアルマダの海戦で活躍した。

日本においては江戸時代初期、大坂の陣に備え徳川家康がイギリスから4門購入した。
関連項目

引用終了

 篭城戦を採るにせよ、周辺の水没を企てるにせよ、こうした案が軍議に出ると言う事自体、豊臣方はカルバリン砲やセーカー砲の存在を知らなかった、と言う事ではないでしょうか。
 そして仮に旧式の大砲同士の戦いになったとしても、徳川軍は強風の時に風上側となる所に自由に陣取ってそこから砲撃した場合、豊臣方が同じ射程距離の大砲で応戦したとそても、それは風下側からとなるので実際の射程距離は徳川軍の方が長くなり、結果として徳川軍が勝利する事になったと考えられます。
 徳川軍は既に「猛烈な風」と言う自然災害を有利に利用できる状況なのでした。


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