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拒絶の歴史(61)

2010年05月16日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(61)

「女の子から、なんだか変な手紙が来たよ」
 ぼくが大学から戻ると、帰省していた雪代が思い出したかのようにそう言った。
「どんな内容だった?」自分は胸の鼓動のおかしな動きに驚いている。
「もう捨てちゃったので分からない。東京の事務所宛てにわざわざ出すぐらいだから、なんか思ってのことなんでしょう。ひろし君は本気じゃないんだよね?」
 ぼくは内容を推察するしかなかった。ただ、その間も二人の関係がギクシャクすることはなかった。

「誰かの復讐とか書いてあったけど、あの子ひろし君のことが好きなのね。わたしもあのような純粋な気持ちのころに戻ってみたい」と雪代はそう言った。

 彼女は洗濯物をたたんでいる。彼女の手が魔法のような動きで、すべてのものが、とくにぼくの散らかしたものが丁寧に片付けられていく。

「ちょっと散歩しましょう」と動きを止め、彼女は口にする。「都会の空気の汚れをはやく捨てたい」と言って、立ち上がった。ぼくもそれに従うことに依存はなかった。ぼくは、いつものスニーカーを履き、彼女も低目のかかとの靴を履いた。外ですれ違う何人かの男性は彼女のことを意識しないようにして見ていた。それには気づかれていないことだと無関心の様子を見せていたが、それぞれの態度やこころの動きを自分は感じた。

 ぼくらは土手の芝生の上を歩き、時間という観念を忘れたかのような川の流れを眺めている。彼女の髪は、そう強くもない風に吹かれ、揺れていた。それを払うこともなく無心に彼女は下の川を見つめていた。

「また、毎日ずっといっしょに暮らしたいな」と、どこから声がでたのか分からないような音声で、彼女はつぶやく。ぼくも、「そうだね」と言って、彼女の肩に手を置いた。その手の甲に彼女の髪が優しげに触れた。

 ぼくらは再び歩き、彼女が戻ってくると必ず立ち寄る喫茶店に入った。静かな店内にはちょうど良い音量でピアノ曲が流れている。レッド・ガーランドの日もあれば、知らないクラシックのピアノ・ソロの曲もあった。その日は、グレン・グールドの気分なのかマスターは熱心に聴き入っていた。店の奥にその背中が見えた。邪魔されて迷惑だとも思わない顔で、彼はこちらを振り向く。そして、直ぐに商業的な顔になった。彼の息子は野球をしており、ぼくのバイト先にもよく来てくれ、ぼくの対応も知っていた。

 彼女はコーヒーを頼み、ぼくはミルク味の紅茶を飲んだ。そして、二人の前には二つのケーキがあった。横には繊細なフォークがあり、彼女は細い指で、それを丁寧に扱った。
「ひろし君の前のガールフレンドのこと、みんな好きなのね」彼女は、前の手紙を思い出してなのか、そう言った。「だけど、分かって欲しいんだけど、その子以上に、わたしも好きで、ひろし君を奪われたくないと思っている」

「分かってるよ。ぼくも同じ気持ちだし」ぼくの気持ちはある意味で誠実な気持ちから出た言葉であり、またある面では不誠実な固まりとなって自分自身を貫いた。彼女は気弱さをあまり出さなかったが、この日は珍しく感傷的になっていたので、それが鮮明な形で自分の記憶に残っている。だが、あまり感情移入をできなかった過去の自分がそこにいた。東京でひとりで暮らしているところに、復讐のためだという手紙が、それがあまりにも幼稚な体裁を取っていたとしても、女性の感情としては受け取りたくない形のものだろう。

 ぼくは、たくさんの感情が体内を行き交ったが、外面は静かに音楽を聴いているという風に見られた。彼女は、それをいささか不服に感じた。それが、表情にでていた。だが、失いたくないとしたら、その当時のぼくぐらい彼女に執着していたものはなかっただろう。

 彼女のこころの動きを気に留めないまま、静かにグレン・グールドを聴いている。飲み物を干したぼくらは夕暮れのなかをスーパーに寄り食材を買った。その頃には、彼女は快活ないつもの様子を見せ始め、おいしいものを食べさせてあげるね、と言って笑った。ぼくは袋を2つ持ち、彼女は小さな袋を一個もった。家に着き、彼女は空いた手で、ドアの鍵を開けた。ぼくは靴箱の上に荷物を置き、彼女をきつく抱きしめた。それは、後悔や会えない時間を埋めるためのすべての感情が含まれた抱擁だった。彼女は驚いた様子をしたが、それでも、そのままぼくに身体を預けるような感じでもたれかかってきた。その重みの確かさを、ぼくはまた記憶することになる。