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拒絶の歴史(62)

2010年05月22日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(62)

 哀しげな音色のトランペットを、適度な音量で家のステレオから流していた。ぼくは文庫を手のひらに載せ、ゆっくりとしたスピードで読んでいる。外の世界ではなにが行われているのか意識もせず、部屋の中だけでぼくは充足していた。夜も10時を過ぎており、眠る前のひと時として、これ以上落ち着いた時間もなかった。その時に意外なことに家の玄関のチャイムが鳴った。一体、こんな時間にぼくを訪ねてくるのは誰だろう? と何人かの顔が浮かんだが、結局のところひとりには決められなかった。

 大して広くもない部屋なのですぐに玄関に着き、ドアを半分だけ開けると見覚えのある顔がうつむき加減だったが、部屋からの明かりに照らされ映し出された。

「どうしたの? バイトの帰り?」そこにはゆり江という子が立っていたので、ぼくはそう声をかけた。
「ひとりですか?」
「そうだけど・・・」
「わたし、謝らなければならないと思って」
「なにを?」
「わたし、あんなことをするべきじゃなかったんです。馬鹿みたいに河口さんの仕事場の住所まで調べて、つまらない手紙なんかを送りつけて」そこで、彼女は自分の声が出ているかを心配するように言葉を止めた。その代わりのように彼女の両方の瞳から涙がこぼれ、それはうっすらと彼女の頬を濡らした。

「泣くことなんかないよ。誰も傷ついていないし」ぼくは、その場を繕うために嘘のような真実のような言葉を吐いた。しかし、彼女の登場でちょっとだけぼくと雪代の関係が変化したのも事実だったかもしれない。そこに立ち尽くしている彼女の涙の量は次第に増え、そのままの姿で立たせているのはあまりにも憐れに感じたので、ぼくは彼女を玄関の中に入れた。そうだ、暖かいものでも飲んでもらえば気が休まるだろうと思い、ぼくはそのまま奥のソファまで彼女を案内しそこに座らせ、流しで水を注ぎそのままケトルをコンロにかけた。しばらくすると静寂とは遠い音が鳴り、中味が沸騰したことを報せた。

 ぼくは、カップを両手に持ち、彼女の前のテーブルに置き、その前の床にじかに座った。そうすると彼女の顔はぼくの視線よりいくらか上になり、まつげの濡れた部分がまだ乾いていないのがよく見えた。

「なにも話さないでいいよ。なにも悪いことをしていないから」と、思いつくままぼくは言った。彼女はいま気付いたとでもいうようにカップを手に取り、唇のそばにそっとくっ付けた。

「でも、あんなことをするべきじゃなかったんです」
「でも、しちゃったんだよね?」とぼくは笑顔でからかうように言った。そうすると彼女もやっと笑顔を取り戻した。その笑顔のせいで、いままでよりずっと幼く見えた。ぼくも経験が少ないが、彼女もやっと歩み始めたばかりなのだと思えば、なにも彼女に責めを負わせることはできなかった。

「裕紀さんのためとか思っていたんですけど、それも本気であったのは最初のうちだけだったかもしれません」彼女にハンカチを手渡すと、それで目のふちを拭いた。「わたしの方がお兄さんのこと、好きになり始めていました」
「何度も言うけど、ぼくには決まった人がいるんだよ」
「知っているから、あんな手紙を・・・それと、デートにも付き合ってもらっちゃったし」
「それは、ぼくも悪かったよ、反省するよ」
「そうですよね」

 音楽はいつの間にか軽やか過ぎるサックスに変わっていた。あまりにも淀みない音の流れは、練習のあとなど微塵も感じられなかった。

 ぼくは目の前から横に場所を移動する。「ごめんね。ゆり江ちゃんはまだまだ若いことを忘れていたよ」彼女をそっと抱き、ぼくは続けてあやまった。彼女はそれに抵抗もせず、ぬいぐるみのような形体で抱かれていた。ぼくは雪代をなんどかこのような形で安心させて来たので、彼女にも通用するかと思い、そのような手をつかってしまった。しかし、それは不用意な行動だったかもしれない。彼女の若さの好奇心への無頓着さだったかもしれないし、また自分の欲望への無防備さだったかもしれない。

 ぼくらは、もっと強めに抱き合い、唇のありかを求めた。いくらか彼女の涙の味がしたような気がした。そして、結論としてぼくは彼女の最初の肉体的な男性になってしまった。それは、やはり裕紀の初々しさを追体験する作業であり、ぼくは2度とそういうものに足を踏み入れたくないと思っていたはずだ。しかし、卵の殻はいつかは割れるようにできており、結果として彼女の肉体や記憶に痕跡をのこしてしまうのだろう。
「ごめんなさい、裕紀さんや河口さんにも謝ることが増えてしまった」またこうして、ぼくは彼女のちいさなこころに責任感を植えつけてしまった自分を恐れた。やはり、誰かの最初の男性などになるべきではないのだ。ぼくは、自分への約束として、そのことをこの日に脳裏に刻み込んだ。

 彼女は、ぼくの部屋から外に出る。ぼくは途中まで見送る。自分のそうした欲望に負けたいくつかの記憶をどこかに払拭できるならば、どれほどの対価が必要なのだろう、とあきらめの気持ちをもって考える。

「わたしが会いたくなって連絡しても、もう会わないと言ってください」となにかを決意したかのような表情で帰り間際に彼女は言った。