償いの書(89)
そのころぼくは残業がつづき、裕紀はひとりで夕飯を食べることが多くなった。ある大きな仕事がずっと念頭にあり、それを頭から払い除けるのは不可能なようだった。実際にいろいろなところに出向き、たくさんのひとの意見をきき、なにかを説得し、ある面では押されるかたちでのんだ。
そういうことを自慢しているわけではない。ただ、後から振り返ると、もっと裕紀との時間を割ければよかったなという後悔がまじった自責の念があるばかりだ。彼女にも悩みや相談したいことがたくさんあったはずだ。それなりの生活を手にするためにぼくはあらゆる場所を飛び回り、家に帰ってスーツを脱ぎ、直ぐに寝た。酒を飲み、その匂いを嗅いでか、となりで裕紀が、「また?」という厭なアクセントで言った。そこには、ぼくらがはじめて知り合った当時の爽やかさは、まったくもって消えていた。しかし、それも仕方がないことだ、とまどろむ脳の中で反省のない意見を肯定していた。
「今日も遅くなるの?」
「多分」翌朝、トーストをかじったままで新聞に目を通し、彼女を見返すこともなく返事をした。
「ちゃんと見て言って。やな、おじさんになってるよ」
「ごめん、これが終わるまではちょっと迷惑をかけてしまう」
「じゃあ、おばさんと出かけて遅くなってもいい?」
「いいよ。ぼくからもよろしくと言っておいて。でも、最近、会えてないな」
「もう、顔も忘れてるよ」
ぼくは彼女を見る。寂しさがつのったせいか、彼女はぼくに辛くあたった。そうされる理由は当然あったのだが、ぼくもそれでいやな気持ちをもった。ぼくらが望んだ生活とは別のところに進みはじめてしまったようだった。
彼女は玄関までぼくを見送り、戸を閉めた。きっと、彼女はこの後、テーブルを片付け、午前中に自分の翻訳の仕事をして、午後辺りからおばさんと会い、出かけるのだろう。昼をいっしょに食べ、買い物をして、何かを見たり、会話をしたりするのだろう。そのとき、裕紀はどのような服装をしているのだろう。そして、冷たくなっている夫の悪口を彼女に言い、その意見を求めるのだろうか。裕紀の兄たちはぼくを無視した。その反面、温かく接してくれる彼女のおばさんやおじさんと疎遠になっているこのごろをぼくは通勤途中の道を歩きながら反省した。だが、待ち合わせの場所に着く前にぼくの携帯は鳴り、待ちきれない同僚から意見や発注するものの最終確認を急かされた。そのせいで、ぼくの頭のなかから裕紀や彼女の親類は消えた。見事というほど簡単に消えた。
だが、昼前の一段落したときにそのおばから電話がかかってきた。主旨は、
「裕紀ちゃんは、まじめな人間だから息抜きが必要なときがあるのよ。子どももいないし、なにかを飼っているわけでもない。ひろし君のことを見つめて生活しているんだから、もっと構ってあげなきゃ可愛そうでしょう?」
「すいません」
「謝らなくてもいいのよ。私の夫もそうだったから。これからは、もっと気をつけてね。わたしより、ずっとデリケートにできている女性だから」と言った後、豪快にガハハと笑った。説教くさい自分の口調に釘を刺して制するようで、この問題の転換のきっかけにもなった。
「ごめんなさい、ずっとそっちにも伺えなくて」
「まあ、わたしたちはあなたたちの味方だから、裕紀ちゃんのお兄ちゃんたちと違って。だから、大切にするものよ」と言って、その電話は終わった。確かにその通りだった。そして、その真実の言葉はぼくに響いた。味方がいる強みと、愛され認められることがないある関係がぼくの前に横たわっている痛みとが。
だが、ぼくは会うという約束をいつしようか考えながらも、それは先延ばしになることを知っており、また、午後の忙しい時間に入ってしまった。ビルは途中まで建ち、ぼくはヘルメットを被り、進捗具合を訊ねている。大声で話す業者の声に負けないように、ぼくも大声を上げる。
夕方が近付くにつれ、ぼくは自分のこころが先程の電話の内容に傾き、引っ張られているのを感じる。それで、今日ぐらいは早目に帰ろうと思い始める。それは、少年時代の好きなテレビ番組を見たくて家に引き寄せられるのに似ていることを思い出している。そこにいるのは、両親や、祖父母や妹ではなく、ぼくには裕紀しかいないという現実を再認識させる結果ともなった。
途中で、ぼくは何度か見たケーキの箱に書かれている店名を探し、そこで見覚えのあるケーキを買った。店員は丁寧に包装してくれている。そして、微笑みとともに手渡してくれた。
「どうしたの? 早いね」それでも8時ぐらいだった。「何これ? 買ってきたの?」
「ずっと、相手もできず悪かったなと思って」
「お詫び?」
「そういうことでもないけど、ぼくと裕紀はふたりだけだから、もっと大切にしないといけないと思っただけだよ」
「おばさんに言われたから?」
「なんだ、知ってんのか。もちろん、それだけじゃないよ。きっかけは与えてくれたかもしれないけど。ずっと、ぼくは裕紀を大切にするというはじめの気持ちを忘れていないけど、なんとなく仕事のほうに重点が置かれてしまってたから」
「分かってるから、大丈夫だよ」と言って、彼女はぼくの手を握った。それは以前より華奢になっているようにも感じられた。「じゃあ、これ、食べよう」
ぼくは皿にのせられたケーキを無心に食べた。汗ばんだ身体にはビールのほうが良かったが、これも償いの一形態なのだ。ぼくは、彼女を過去に傷つけ、そのお詫びはいつになっても消えないのだろう。甘いものを頬張りながら、常にそう感じているわけでもなかったが、その罪の胞子をぼくはその甘みのなかに感じている。
そのころぼくは残業がつづき、裕紀はひとりで夕飯を食べることが多くなった。ある大きな仕事がずっと念頭にあり、それを頭から払い除けるのは不可能なようだった。実際にいろいろなところに出向き、たくさんのひとの意見をきき、なにかを説得し、ある面では押されるかたちでのんだ。
そういうことを自慢しているわけではない。ただ、後から振り返ると、もっと裕紀との時間を割ければよかったなという後悔がまじった自責の念があるばかりだ。彼女にも悩みや相談したいことがたくさんあったはずだ。それなりの生活を手にするためにぼくはあらゆる場所を飛び回り、家に帰ってスーツを脱ぎ、直ぐに寝た。酒を飲み、その匂いを嗅いでか、となりで裕紀が、「また?」という厭なアクセントで言った。そこには、ぼくらがはじめて知り合った当時の爽やかさは、まったくもって消えていた。しかし、それも仕方がないことだ、とまどろむ脳の中で反省のない意見を肯定していた。
「今日も遅くなるの?」
「多分」翌朝、トーストをかじったままで新聞に目を通し、彼女を見返すこともなく返事をした。
「ちゃんと見て言って。やな、おじさんになってるよ」
「ごめん、これが終わるまではちょっと迷惑をかけてしまう」
「じゃあ、おばさんと出かけて遅くなってもいい?」
「いいよ。ぼくからもよろしくと言っておいて。でも、最近、会えてないな」
「もう、顔も忘れてるよ」
ぼくは彼女を見る。寂しさがつのったせいか、彼女はぼくに辛くあたった。そうされる理由は当然あったのだが、ぼくもそれでいやな気持ちをもった。ぼくらが望んだ生活とは別のところに進みはじめてしまったようだった。
彼女は玄関までぼくを見送り、戸を閉めた。きっと、彼女はこの後、テーブルを片付け、午前中に自分の翻訳の仕事をして、午後辺りからおばさんと会い、出かけるのだろう。昼をいっしょに食べ、買い物をして、何かを見たり、会話をしたりするのだろう。そのとき、裕紀はどのような服装をしているのだろう。そして、冷たくなっている夫の悪口を彼女に言い、その意見を求めるのだろうか。裕紀の兄たちはぼくを無視した。その反面、温かく接してくれる彼女のおばさんやおじさんと疎遠になっているこのごろをぼくは通勤途中の道を歩きながら反省した。だが、待ち合わせの場所に着く前にぼくの携帯は鳴り、待ちきれない同僚から意見や発注するものの最終確認を急かされた。そのせいで、ぼくの頭のなかから裕紀や彼女の親類は消えた。見事というほど簡単に消えた。
だが、昼前の一段落したときにそのおばから電話がかかってきた。主旨は、
「裕紀ちゃんは、まじめな人間だから息抜きが必要なときがあるのよ。子どももいないし、なにかを飼っているわけでもない。ひろし君のことを見つめて生活しているんだから、もっと構ってあげなきゃ可愛そうでしょう?」
「すいません」
「謝らなくてもいいのよ。私の夫もそうだったから。これからは、もっと気をつけてね。わたしより、ずっとデリケートにできている女性だから」と言った後、豪快にガハハと笑った。説教くさい自分の口調に釘を刺して制するようで、この問題の転換のきっかけにもなった。
「ごめんなさい、ずっとそっちにも伺えなくて」
「まあ、わたしたちはあなたたちの味方だから、裕紀ちゃんのお兄ちゃんたちと違って。だから、大切にするものよ」と言って、その電話は終わった。確かにその通りだった。そして、その真実の言葉はぼくに響いた。味方がいる強みと、愛され認められることがないある関係がぼくの前に横たわっている痛みとが。
だが、ぼくは会うという約束をいつしようか考えながらも、それは先延ばしになることを知っており、また、午後の忙しい時間に入ってしまった。ビルは途中まで建ち、ぼくはヘルメットを被り、進捗具合を訊ねている。大声で話す業者の声に負けないように、ぼくも大声を上げる。
夕方が近付くにつれ、ぼくは自分のこころが先程の電話の内容に傾き、引っ張られているのを感じる。それで、今日ぐらいは早目に帰ろうと思い始める。それは、少年時代の好きなテレビ番組を見たくて家に引き寄せられるのに似ていることを思い出している。そこにいるのは、両親や、祖父母や妹ではなく、ぼくには裕紀しかいないという現実を再認識させる結果ともなった。
途中で、ぼくは何度か見たケーキの箱に書かれている店名を探し、そこで見覚えのあるケーキを買った。店員は丁寧に包装してくれている。そして、微笑みとともに手渡してくれた。
「どうしたの? 早いね」それでも8時ぐらいだった。「何これ? 買ってきたの?」
「ずっと、相手もできず悪かったなと思って」
「お詫び?」
「そういうことでもないけど、ぼくと裕紀はふたりだけだから、もっと大切にしないといけないと思っただけだよ」
「おばさんに言われたから?」
「なんだ、知ってんのか。もちろん、それだけじゃないよ。きっかけは与えてくれたかもしれないけど。ずっと、ぼくは裕紀を大切にするというはじめの気持ちを忘れていないけど、なんとなく仕事のほうに重点が置かれてしまってたから」
「分かってるから、大丈夫だよ」と言って、彼女はぼくの手を握った。それは以前より華奢になっているようにも感じられた。「じゃあ、これ、食べよう」
ぼくは皿にのせられたケーキを無心に食べた。汗ばんだ身体にはビールのほうが良かったが、これも償いの一形態なのだ。ぼくは、彼女を過去に傷つけ、そのお詫びはいつになっても消えないのだろう。甘いものを頬張りながら、常にそう感じているわけでもなかったが、その罪の胞子をぼくはその甘みのなかに感じている。