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償いの書(92)

2011年08月14日 | 償いの書
償いの書(92)

「あなたは、会うべきじゃないと思っているのね。彼女にも、わたしにも」
 案の定、あるひとの人生を垣間見られる能力を、その不思議な能力を活用して、そのひとはそう言った。
「まあ、その通りかもしれないですね」
「でも、人間なんて会うべきタイミングで会うようにもできているんじゃない。気軽にそう考えてみれば。わたしが、あなたの気持ちに対してお説教でもすると思った? それとも、してほしかった?」
「いや、そんなことはごめんですけど」
「わたしも能力を与えられてしまっただけで、まじめな生き方をしてこなかった。誰かにアドバイスをしたいとは思うけど、自分の過去のことを考えれば、それは自重をしなければならない。自嘲ともいえる。あざける方のね」

 ぼくは、自分の気持ちがぐらついているのを誤魔化すように、そこにいる犬の頭を撫でる。ぼくの気持ちの小さな変化は、結果として大きなものに変わるのだ。ぼくは一度、裕紀を捨て、彼女は留学先に遊びにきた両親を失った。そもそもの原因でもないのだが、ぼくと別れて結婚した雪代は夫を事故で失った。そのことを考えている。ぼくと関係をもつと、不幸が訪れるのだろうか?

 結果としては、そうなっていた。だが、そこまで自分を責めるほどぼくは悲観的には作られていなかった。もっと、明るい軽やかな希望をぼくは持ち続けたいと思っている。

「そろそろ、現場に行かないと」と言って、会社の前から立ち去ろうとする。
「犬もあなたになつくのね。警戒心が強い方だと思うんだけど」彼女は犬の方を見て、そう言った。犬も飼い主に振り返り、そして、またぼくの方に歩をすすめた。それで、もう一度頭を撫でた。
 ぼくは、車に乗り、カバンの中の資料を点検した。こうした気持ちのときは、なにかが抜け落ちてしまって、忘れがちになるものなのだ。だが、カバンのなかはしっかりと整理されていた。ぼくは安心して車を駐車場から出した。

 走りながら裕紀のことを考えていた。ぼくのもっとも大切なもの。2つとして代わりになれるものがないもの。ぼくは、そうした人間に出会い、結婚できた幸運のことを考えている。だが、若く未熟だったぼくは、彼女を一度、忘れようとした。忘れようとしたが、こころのなかにはいつも残っていた。それは、残骸にはならなかった。いつまでもみずみずしい形でそこにあった。だが、その美しいものからぼくは嫌われているのだと考えると無性に不安になった。その原因を芽生えさせた自分でもあったが、できれば会ってきちんと謝り償いたかった。だが、その一方でぼくは雪代を手放すこともできなかった。ぼくをある段階まで引っ張ってくれたひと。いや、彼女に対しての愛情も、ぼくのこころには残っているのだ。それは炭のようになっていて、少しの風を送られれば再び燃えるような予感があるような気がした。だが、もっと理性的に考えるならば、ぼくの愛は大分前に地元にきちんと置き、葬ったともいえた。それで、ぼくと裕紀との関係は揺るがないのだという結論に達した。

 だが、ぼくのこのこころの小さな変化は、きちんと代償を求めるのだろうという不安感もつきまとった。過去にそうであったならば、未来もそうなりえるのだ。ぼくは、現場に着くまで、その不安が生み出す怪物をいくつか頭のなかで作ってみる。誰かがいなくなること。でも、一体、誰が?

 そのような気持ちでありながらも仕事はうまくいった。思った以上の成果があった。こうして幸福というものは行動を軽率にさせるものであり、また思案を忘れさせる動機にもなった。
「わたしも、もう少し大きな家に引っ越す必要ができた」夕方のぼんやりとしたひととき、喫茶店で資料を整理していると、笠原さんから電話があった。
「そうなんだ。すると」
「手頃なもの、探してもらえます?」
「もちろん、いま大きな仕事を抱えているから、ピックアップは後輩に任すけど、ぼくからもしっかりと頼んでおくよ。そこから、ぼくが選んでいっしょに連れてくよ」

 それは、ぼくとある少女に起った出来事も思い出させた。裕紀のことが好きだった少女。ぼくの人生で三番目の存在に置いた女性。それは人間の気持ちに対して卑劣なことだった。だが、ぼくの前に表れたタイミングが悪かっただけなのだ。裕紀も雪代もいない世界ならば(そんなことがあって良いはずもない)彼女はぼくと一緒に大人になったのだろう。

 ぼくは、自分のいくつかのずるさを考えている。そして、出かけに会った女性のタイミングの話も思い出した。彼女ら3人がぼくの前に表れなかったら、どうなっていただろうと考えている。それは、漂白された人生で、またぼくは掴む場所もきっかけもない漂流者のような気持ちをもった。だが、思いは笠原さんの家に移した。彼女はぼくの地元で同じようにラグビーをしていた男性と会った。会うように機会を作ったのは自分だったが、それはぼくの思いを越えた出来事になっている。島本さんの後輩。笠原さんには雪代のようになってほしくなかった。誰かを失うこと。しかし、本来は雪代にも起きるべきじゃなかったのだ。ぼくは、仲が良いままの雪代と島本さんを憎んでいたほうが、自分の気持ちとしてはしっくりとして、そのバランスの悪い幸福にしがみつき頼ろうとした。