償いの書(97)
そして、笠原さんも結婚した。ぼくは2次会のパーティーに呼ばれ、着飾った裕紀と出掛けた。そこには笠原さんの職場の先輩であり、ぼくのラグビー部時代の先輩の上田さんも妻の智美といた。
「久し振り、裕紀、痩せたね。逆にひろし、太ったね」と、智美は率直な感想を言った。ぼくはお腹の部分を触り、裕紀は首を垂れ、自分の全身を見ようとした。それから、ぼくの方を向き、ぼくの腕を両手で一周させた。
「ぼくが苦労をかけるから、痩せたんだよ」
「そんなの、嘘だよ」と、裕紀はいつものように否定する。
「笠原がお前に感謝していたよ」
ぼくは、その存在を探そうとした。部屋の奥のほうで、若い女性たちの華やかな歓声がきこえ、その真ん中にいることを目でみつけた。
ちょっと離れたところには、花嫁を射止めた高井君がいた。彼の学生時代の友人たちなのだろうか、図体の大きな男性が数人いた。ぼくは、智美と話している裕紀と離れ、そちらに向かった。
「良かったね、今日は」
「あ、近藤さん。ほんとに、ありがとうございます。みんな、近藤さん」
彼らの何人かは、ぼくのことを知っていた。同県でラグビーをしていた人間のなかでは、ぼくの評判は高かった。
「河口さんと付き合ってた」
「そう、その通り。でも、もっとラグビーで君らを苦しめた存在で呼ばれたいね」
そこへ、裕紀もこちらに近寄ってきた。
「高井さん、良かったね」
「近藤さんが会わせてくれたお陰です」
「ラグビーのスタンドにいましたね、以前。思い出しました」別の男性がいった。若い男性は、どこでもきれいな存在を見つけようとする。そこに裕紀がいて、ぼくらの感情に当てはまったわけなのだ。
「もう、ずっとむかし。半分のころ」裕紀は、なにかを思い出したかのように言った。ぼくらは、あれから倍も生きたのか。ラグビーで身体をぶつけ合った少年たちもきちんと家庭を作るようになる。
「こんなきれいな奥さんがいるから、余裕で笠原さんみたいな子を紹介できるのか」と、別の男性も感想を言う。「ぼくにも誰か、紹介してくれません?」
「うん、いいよ」ぼくは安請け合いをするが、そんな機会が来ないことは、両者が知っていた。裕紀だけが、そこを離れるときに、
「ほんとに?」と心配げに訊いた。
「いや、社交辞令だよ。ぼくには何のリストもない」と、両手を振って潔白であることを証明するような仕草をした。
「笠原さん、良かったね。きれいだよ」ぼくは小走りに寄ってきた彼女にそう伝えた。本当に彼女は輝いていた。その輝きは永遠のものだと思いたかった。だが、今日が輝けるピークであるかもしれないとも思っていた。子どもの誕生がいつかあるかもしれず、その子が成長するのを妨げることができない以上、ぼくらはいずれ下降する。体力や気持ちの衰えがあり。
「あのとき、失恋の悩みをきいてもらった近藤さんに感謝しています」
「そんなことあったの?」と、裕紀は記憶のなかを模索するような表情をした。
「そういえば、あったね。でも、こんな未来がきた」
「悩みをきいてあげた?」裕紀は、それに拘った。
「あとで、説明するよ。誰かに打ち明けないと、次のステップに行けないことが多い」
「わたしも、誰かにひろし君との思い出を聞いて貰いたかった。もっと、たくさんのひとに」
笠原さんは困ったような表情をして、隣のひとと話し出した。彼女の親戚らしかった。そして、ぼくらとの距離が段々と開いた。
「ごめん、するべきことはしなくて、しなくてもいいことをたくさんした」
「別にいいんだよ。わたしたちのときも思い出すね」
「輝ける日」
「わたしと結婚してよかった?」
「良かったよ。もちろん。なにと比較してもいいのか分からないし。裕紀は?」
「わたしも高校生のときに大好きだったひとと結婚できた。彼のある日をしらないけれど、物語としては最高の部類でしょう。失ったものを探す旅」
その裕紀の口から漏れ出た言葉は、映画のストーリーのようだった。しかし、失うことをしたのは、世の中の悪のせいでもなく、ただのぼくの心変わりだった。彼女にまったく罪はなく、探さないという結論を下すこともできた。そうするとぼくのこの10年近くなった幸福はなかった。ぼくは、一体、誰を選べばよかったのだろう?
そこに少し酔ったラグビー部員だった青年が寄ってきた。
「近藤さんとゆうきさん」
「そうだよ」
「ラグビーでも一流だったけど、女性に手を出すのも一流だった」
「ちょっと、失礼だけどね」ぼくは、怒った方がいいのか、笑った方がいいのか、決めかねる表情で答えた。「そういうなら、一流の女性を選んだ、と言って欲しいね」
「すいません、憧れの裏返しです。評判の可愛い子が、近藤さんにスタンドで笑顔を見せていた。ぼくらにはしてくれなかったし、ラグビーでも敵わなかった。なんだか、ずいぶんと差があるような気がしてました」
「そこまで言うと納得するよ。これでも、懸命に練習したからね」
「でも、応援してくれるひとは、少しぐらいはいたんでしょう?」裕紀は酔った客をなだめる店員のような表情で優しくきいた。
「すこしはいましたけど、平凡さをパッケージしたような子でした」
「普通の子がいいのよ。そういう子と長くずっと」
ぼくらは、当然のように長く居続けることができなかった。その平凡な関係を根底から崩したのは自分であった。ひとが結びつく運命の場にいると、ぼくは思索することが多くなった。だが、ぼくと裕紀はふたたび会い、長く暮らしてきたのだ。それも、また運命であり、物語の成り立ちとしても理に適っているような気がした。
そして、笠原さんも結婚した。ぼくは2次会のパーティーに呼ばれ、着飾った裕紀と出掛けた。そこには笠原さんの職場の先輩であり、ぼくのラグビー部時代の先輩の上田さんも妻の智美といた。
「久し振り、裕紀、痩せたね。逆にひろし、太ったね」と、智美は率直な感想を言った。ぼくはお腹の部分を触り、裕紀は首を垂れ、自分の全身を見ようとした。それから、ぼくの方を向き、ぼくの腕を両手で一周させた。
「ぼくが苦労をかけるから、痩せたんだよ」
「そんなの、嘘だよ」と、裕紀はいつものように否定する。
「笠原がお前に感謝していたよ」
ぼくは、その存在を探そうとした。部屋の奥のほうで、若い女性たちの華やかな歓声がきこえ、その真ん中にいることを目でみつけた。
ちょっと離れたところには、花嫁を射止めた高井君がいた。彼の学生時代の友人たちなのだろうか、図体の大きな男性が数人いた。ぼくは、智美と話している裕紀と離れ、そちらに向かった。
「良かったね、今日は」
「あ、近藤さん。ほんとに、ありがとうございます。みんな、近藤さん」
彼らの何人かは、ぼくのことを知っていた。同県でラグビーをしていた人間のなかでは、ぼくの評判は高かった。
「河口さんと付き合ってた」
「そう、その通り。でも、もっとラグビーで君らを苦しめた存在で呼ばれたいね」
そこへ、裕紀もこちらに近寄ってきた。
「高井さん、良かったね」
「近藤さんが会わせてくれたお陰です」
「ラグビーのスタンドにいましたね、以前。思い出しました」別の男性がいった。若い男性は、どこでもきれいな存在を見つけようとする。そこに裕紀がいて、ぼくらの感情に当てはまったわけなのだ。
「もう、ずっとむかし。半分のころ」裕紀は、なにかを思い出したかのように言った。ぼくらは、あれから倍も生きたのか。ラグビーで身体をぶつけ合った少年たちもきちんと家庭を作るようになる。
「こんなきれいな奥さんがいるから、余裕で笠原さんみたいな子を紹介できるのか」と、別の男性も感想を言う。「ぼくにも誰か、紹介してくれません?」
「うん、いいよ」ぼくは安請け合いをするが、そんな機会が来ないことは、両者が知っていた。裕紀だけが、そこを離れるときに、
「ほんとに?」と心配げに訊いた。
「いや、社交辞令だよ。ぼくには何のリストもない」と、両手を振って潔白であることを証明するような仕草をした。
「笠原さん、良かったね。きれいだよ」ぼくは小走りに寄ってきた彼女にそう伝えた。本当に彼女は輝いていた。その輝きは永遠のものだと思いたかった。だが、今日が輝けるピークであるかもしれないとも思っていた。子どもの誕生がいつかあるかもしれず、その子が成長するのを妨げることができない以上、ぼくらはいずれ下降する。体力や気持ちの衰えがあり。
「あのとき、失恋の悩みをきいてもらった近藤さんに感謝しています」
「そんなことあったの?」と、裕紀は記憶のなかを模索するような表情をした。
「そういえば、あったね。でも、こんな未来がきた」
「悩みをきいてあげた?」裕紀は、それに拘った。
「あとで、説明するよ。誰かに打ち明けないと、次のステップに行けないことが多い」
「わたしも、誰かにひろし君との思い出を聞いて貰いたかった。もっと、たくさんのひとに」
笠原さんは困ったような表情をして、隣のひとと話し出した。彼女の親戚らしかった。そして、ぼくらとの距離が段々と開いた。
「ごめん、するべきことはしなくて、しなくてもいいことをたくさんした」
「別にいいんだよ。わたしたちのときも思い出すね」
「輝ける日」
「わたしと結婚してよかった?」
「良かったよ。もちろん。なにと比較してもいいのか分からないし。裕紀は?」
「わたしも高校生のときに大好きだったひとと結婚できた。彼のある日をしらないけれど、物語としては最高の部類でしょう。失ったものを探す旅」
その裕紀の口から漏れ出た言葉は、映画のストーリーのようだった。しかし、失うことをしたのは、世の中の悪のせいでもなく、ただのぼくの心変わりだった。彼女にまったく罪はなく、探さないという結論を下すこともできた。そうするとぼくのこの10年近くなった幸福はなかった。ぼくは、一体、誰を選べばよかったのだろう?
そこに少し酔ったラグビー部員だった青年が寄ってきた。
「近藤さんとゆうきさん」
「そうだよ」
「ラグビーでも一流だったけど、女性に手を出すのも一流だった」
「ちょっと、失礼だけどね」ぼくは、怒った方がいいのか、笑った方がいいのか、決めかねる表情で答えた。「そういうなら、一流の女性を選んだ、と言って欲しいね」
「すいません、憧れの裏返しです。評判の可愛い子が、近藤さんにスタンドで笑顔を見せていた。ぼくらにはしてくれなかったし、ラグビーでも敵わなかった。なんだか、ずいぶんと差があるような気がしてました」
「そこまで言うと納得するよ。これでも、懸命に練習したからね」
「でも、応援してくれるひとは、少しぐらいはいたんでしょう?」裕紀は酔った客をなだめる店員のような表情で優しくきいた。
「すこしはいましたけど、平凡さをパッケージしたような子でした」
「普通の子がいいのよ。そういう子と長くずっと」
ぼくらは、当然のように長く居続けることができなかった。その平凡な関係を根底から崩したのは自分であった。ひとが結びつく運命の場にいると、ぼくは思索することが多くなった。だが、ぼくと裕紀はふたたび会い、長く暮らしてきたのだ。それも、また運命であり、物語の成り立ちとしても理に適っているような気がした。