償いの書(95)
「ゆり江ちゃんが東京に遊びに来た」
「また、なんで?」ぼくは、その名前をきくと、かすかな動揺が体内に起った。
「旦那さんと喧嘩して飛び出してきちゃったんだって。無鉄砲」
「それで」
「説得して帰るように言った」
「一日ぐらい、泊まればいいのに」ぼくは、その子に会いたかったという自分の気持ちを押し殺しながらも、そう言ってしまった。「そうすれば、反省するでしょう、相手も」
「そうかな。わたしたちも喧嘩するのって、訊かれた」
「それで?」
「それでばっかりだよ。わたしの旦那さんはできたひとだから、喧嘩しないと言っておいた」彼女は、本気でそう思っているのかと勘繰った。ぼくは、できてもいないし、優しさに溢れているのは裕紀の方だし、そして、実際には、無論、ぼくらも喧嘩をした。「いいひとと、結婚できて良かったですね。わたしも、ひろし君みたいなひとと結婚すればよかったと言われた。それで、でしょう?」
「うん」
「わたしが先にいなくなるか、ひろし君がわたしを嫌いになったら、そうしなと言った。じゃあ、そうすると返された。憎らしい口調で」しかし、笑って言った彼女には、憎しみなどは微塵もなかった。「会いたかった?」
「まあ、少しはね」
「きれいになったよ」
「そうだろうね」
「好きだった?」
「なんで?」
「なんとなく」
「だって、妹の友だちだよ。幼すぎる」
「それは、昔でしょう。いまの2歳の差なんて、関係ないでしょう」
「だから、昔は幼いと言ったんだよ」
「いまだったら、分かんない?」
「なんか、しつこいよ」
「わたしたち、喧嘩しないと言ったのに」
「ごめん、ただ、ぼくたちの結婚が何年つづいたと思ってるんだよ」
「そうだね。でも、会いたかった?」と言って、彼女は笑った。「ほんとは、いるんだよ。ゆりちゃん」と言うと、隣の部屋のドアが開いた。「びっくりした。わたしたちも喧嘩するんだよ。証人になって」
「こんばんは」と言って、その子はでてきた。それは驚きだった。「帰ろうと思っていたんですけど、裕紀さんが一日ぐらい居れば、としつこく迫ったので、なんとなく、こうして。迷惑でした?」
「全然。いてもいいよ」
「きれい、きれいと言われたら出にくいのに」
「でも、きれいだもん。ひろし君も好きになるでしょう」
「前からきれいだよ」ぼくは、無防備さの方が、逆にたくさんの感情を隠せるような気がした。
「わたしの旦那は、前より冷たくなった」
「多かれ少なかれ、誰でもなるよ」ぼくらは立ったまま話していたが、椅子のあることに気付き、ゆり江を座らせた。
「ひろしさんもなった?」
「なったような、なっていないような」
「冷たくなってないよ」と裕紀は即座に否定した。
ぼくの感情は多くのことを望み、また多くのことを消化しようとしていた。もし、仮に裕紀も雪代もいない世界があるならば、ぼくはこの子を選んでいたのだ。その選択は、しかし、絶対に起ることもないのだ。なぜなら、ぼくの前には裕紀と雪代がいたからだ。
「喧嘩は大丈夫なの?」
「大したことないんです。戻れば、また、いままで通りになります」
「小津映画みたいだな。我慢して、戻ってらっしゃい」
「わたし、ずるいんです」
「ゆり江ちゃんがご飯、作ってくれた。ねえ、食べましょう。ひろし君も違った味付けも食べたいでしょう?」
「そうだね」ぼくは冷蔵庫の前にすすみ、ビールを取り出し、グラスを3つ食器棚からテーブルに並べ、液で満たした。「喧嘩は、本来、愛情であるべきなんだよ」と、どうでもいいことを言って注ぎ終わった。「では、淋しい旦那さんのひとりの夕食に。ぼくの前には美女がふたり」ぼくは、なんとなくおどけないとやっていけなかった。彼女らもグラスを持ち上げ、口をつけた。そのふたりは、期間の差こそあれ、ぼくと関係のあったひとたちだった。高校生の裕紀が先ずいて、ぼくらは別れ、ぼくは愛する交際相手がいながらもゆり江と恋をしていた。彼女もいなくなり、裕紀と東京の真ん中で再会した。ぼくは、その自分に起った時間の流れをビールの酔いに手伝わせながら、反芻していた。悪くない人生じゃないか。
「おいしいね」
「わたしの旦那は、なにも言わない」
「ぼくだって普段は言わないよ。期待を持ちすぎなんじゃない?」
「期待しない人生って、あります?」ゆり江ちゃんは勝気な一面を見せる。「誰かと生活するってことは、期待の連続じゃないですか」
ぼくらは、そのような諍いを何度かした。ゆり江の以前のアパートは小さく、大声を発することを警戒しながら生活していたが、ぼくの煮え切らないことに嫌気がさすのか、彼女はなんどか詰め寄った。そうされても、ぼくは雪代と離れられなかった。
「きちんと、気持ちを伝えるといいよ」と、裕紀はぼくらふたりを制した。まるで、彼女が第三者のようだった。ぼくは、このように自分の感情が高ぶることを喜んでいた。優しい裕紀と接するのとは別の感情が、その小さな衝突によって芽生えた。ぼくが、長年会社員をやる前の、スポーツ選手だったときは、エネルギーの発露と称して、このような感情を歓迎していたはずだった。
ご飯を終え、ゆり江ちゃんはお風呂に入り、裕紀のパジャマを着た。ぼくはその姿を見て、仮にあった生活がどういうものであったか模索した。だが、どうしても、ぼくは裕紀を失うことはできないのだ。過去にそうして、ぼくは酷く悲しんだ。あの感情をもう一度、もつぐらいなら未来はぼくにはいらなかった。
「ゆり江ちゃんが東京に遊びに来た」
「また、なんで?」ぼくは、その名前をきくと、かすかな動揺が体内に起った。
「旦那さんと喧嘩して飛び出してきちゃったんだって。無鉄砲」
「それで」
「説得して帰るように言った」
「一日ぐらい、泊まればいいのに」ぼくは、その子に会いたかったという自分の気持ちを押し殺しながらも、そう言ってしまった。「そうすれば、反省するでしょう、相手も」
「そうかな。わたしたちも喧嘩するのって、訊かれた」
「それで?」
「それでばっかりだよ。わたしの旦那さんはできたひとだから、喧嘩しないと言っておいた」彼女は、本気でそう思っているのかと勘繰った。ぼくは、できてもいないし、優しさに溢れているのは裕紀の方だし、そして、実際には、無論、ぼくらも喧嘩をした。「いいひとと、結婚できて良かったですね。わたしも、ひろし君みたいなひとと結婚すればよかったと言われた。それで、でしょう?」
「うん」
「わたしが先にいなくなるか、ひろし君がわたしを嫌いになったら、そうしなと言った。じゃあ、そうすると返された。憎らしい口調で」しかし、笑って言った彼女には、憎しみなどは微塵もなかった。「会いたかった?」
「まあ、少しはね」
「きれいになったよ」
「そうだろうね」
「好きだった?」
「なんで?」
「なんとなく」
「だって、妹の友だちだよ。幼すぎる」
「それは、昔でしょう。いまの2歳の差なんて、関係ないでしょう」
「だから、昔は幼いと言ったんだよ」
「いまだったら、分かんない?」
「なんか、しつこいよ」
「わたしたち、喧嘩しないと言ったのに」
「ごめん、ただ、ぼくたちの結婚が何年つづいたと思ってるんだよ」
「そうだね。でも、会いたかった?」と言って、彼女は笑った。「ほんとは、いるんだよ。ゆりちゃん」と言うと、隣の部屋のドアが開いた。「びっくりした。わたしたちも喧嘩するんだよ。証人になって」
「こんばんは」と言って、その子はでてきた。それは驚きだった。「帰ろうと思っていたんですけど、裕紀さんが一日ぐらい居れば、としつこく迫ったので、なんとなく、こうして。迷惑でした?」
「全然。いてもいいよ」
「きれい、きれいと言われたら出にくいのに」
「でも、きれいだもん。ひろし君も好きになるでしょう」
「前からきれいだよ」ぼくは、無防備さの方が、逆にたくさんの感情を隠せるような気がした。
「わたしの旦那は、前より冷たくなった」
「多かれ少なかれ、誰でもなるよ」ぼくらは立ったまま話していたが、椅子のあることに気付き、ゆり江を座らせた。
「ひろしさんもなった?」
「なったような、なっていないような」
「冷たくなってないよ」と裕紀は即座に否定した。
ぼくの感情は多くのことを望み、また多くのことを消化しようとしていた。もし、仮に裕紀も雪代もいない世界があるならば、ぼくはこの子を選んでいたのだ。その選択は、しかし、絶対に起ることもないのだ。なぜなら、ぼくの前には裕紀と雪代がいたからだ。
「喧嘩は大丈夫なの?」
「大したことないんです。戻れば、また、いままで通りになります」
「小津映画みたいだな。我慢して、戻ってらっしゃい」
「わたし、ずるいんです」
「ゆり江ちゃんがご飯、作ってくれた。ねえ、食べましょう。ひろし君も違った味付けも食べたいでしょう?」
「そうだね」ぼくは冷蔵庫の前にすすみ、ビールを取り出し、グラスを3つ食器棚からテーブルに並べ、液で満たした。「喧嘩は、本来、愛情であるべきなんだよ」と、どうでもいいことを言って注ぎ終わった。「では、淋しい旦那さんのひとりの夕食に。ぼくの前には美女がふたり」ぼくは、なんとなくおどけないとやっていけなかった。彼女らもグラスを持ち上げ、口をつけた。そのふたりは、期間の差こそあれ、ぼくと関係のあったひとたちだった。高校生の裕紀が先ずいて、ぼくらは別れ、ぼくは愛する交際相手がいながらもゆり江と恋をしていた。彼女もいなくなり、裕紀と東京の真ん中で再会した。ぼくは、その自分に起った時間の流れをビールの酔いに手伝わせながら、反芻していた。悪くない人生じゃないか。
「おいしいね」
「わたしの旦那は、なにも言わない」
「ぼくだって普段は言わないよ。期待を持ちすぎなんじゃない?」
「期待しない人生って、あります?」ゆり江ちゃんは勝気な一面を見せる。「誰かと生活するってことは、期待の連続じゃないですか」
ぼくらは、そのような諍いを何度かした。ゆり江の以前のアパートは小さく、大声を発することを警戒しながら生活していたが、ぼくの煮え切らないことに嫌気がさすのか、彼女はなんどか詰め寄った。そうされても、ぼくは雪代と離れられなかった。
「きちんと、気持ちを伝えるといいよ」と、裕紀はぼくらふたりを制した。まるで、彼女が第三者のようだった。ぼくは、このように自分の感情が高ぶることを喜んでいた。優しい裕紀と接するのとは別の感情が、その小さな衝突によって芽生えた。ぼくが、長年会社員をやる前の、スポーツ選手だったときは、エネルギーの発露と称して、このような感情を歓迎していたはずだった。
ご飯を終え、ゆり江ちゃんはお風呂に入り、裕紀のパジャマを着た。ぼくはその姿を見て、仮にあった生活がどういうものであったか模索した。だが、どうしても、ぼくは裕紀を失うことはできないのだ。過去にそうして、ぼくは酷く悲しんだ。あの感情をもう一度、もつぐらいなら未来はぼくにはいらなかった。