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償いの書(90)

2011年08月07日 | 償いの書
償いの書(90)

 それから、何日も経って仕事も終わった。前日には働いてきた仲間たちとの飲み会もあって、それぞれの苦労が報われた。翌日にはビルを明け渡すため、相手の担当者と打ち合わせをした。最後には社長もやって来て、そのビルの様子を見た。本社の力は段々と弱くなり、ぼくらがいる東京支社の方が力や発言や決定権も有するようになってきた。ぼくが来て8年ぐらいは過ぎたことになる。その頑張りがこのように成果に結びついた。それは、裕紀と過ごしてきた期間とも重なり、雪代と離れてしまってからの時間とも等しかった。

「支店長からも、お前の頑張りをきいたんで、特別に休暇を与えて欲しいって」
「本当ですか?」
「要らないか、もっと仕事がしたいか?」
「冗談なんでしょう?」
「どっちの意味での冗談かは知らないけど、休暇はあげるよ。裕紀さんとどっか行くんだな」
「ありがとうございます」ぼくは家に着き、そう言われたことを伝えた。
「わたしが行き先を決めてもいい?」
「もちろん、どこでも」

 裕紀は何日か経って旅行代理店に出向き、行き先をバリ島に決めた。ぼくは、そこがどのような場所かを知らなかった。知らないというのは正確ではない。ぼんやりとしか分からなかった。ただ、決めた理由としては、最近のぼくが働きすぎていたようで、もっとリラックスする必要があると裕紀は考えていたようだった。

「ひろし君は、いつもラグビーのときのようにがむしゃらになるクセがある」
「そうかな、でも、それで社長にもかわれているんだしな」
「もう、そんなにがむしゃらにならなくても必要とされているのは分かっていると思うよ」
 飛行機を乗り継ぎ、ぼくらはいまホテルの中にいる。甘い匂いがして、ぼくは日常の雑事を忘れている。裕紀も元気を取り戻し、ぼくらは初日は疲れぐっすりと眠った。次の日は、ビーチにいる。ぼくが、こんなにのんびりとできたのは何年ぶりだろうかと考えている。
「一緒に海に行ったこと、覚えている?」
「行った。可愛い水着を着ていた。それがすべて、ぼくのものだと10代のぼくは考えて嬉しかった」
「ほんと?」
「言う機会がなかったけど、本当だよ。10代の男の子はそういうことを口にするのを恥ずかしく思ってる」
「いまは言えるんだ」
「図々しくなったから」
「たくさん、そういう言葉を使ってきたから」
「そうかもね」

 裕紀は立ち上がり、海の方に向かって歩いて行った。その背中が以前より細くなっているような気がした。だが、その言葉の届かない距離にもう裕紀は歩いて行ってしまっていた。だから、ぼくはその思いを飲むことになる。それから、髪を濡らした裕紀が戻ってきた。ぼくは目をつぶったまま眠りの入り口にいたが、そこから連れ戻されてきた。その行ってしまえた場所にいくらか後悔を残しながら。

「気持ちいいよ。入ってくれば」
「いま、眠れそうだった」
「楽しまなきゃ駄目だよ」
「矛盾してる気がするけどね。疲れを取るためにここにいる」
「気持ちいいから、疲れも取れるよ。ほら」と言って、裕紀はぼくを引っ張った。ぼくは、その後ろ姿を再び、見た。
「裕紀、ちょっと痩せたんじゃない?」
「そうかな、そうかもね」

 ぼくらは、水の中で10代のように振舞った。あの時のように、ぼくらは何の力も経験ももっていないわけではなかった。場所も地元の近くの海岸から、日本を飛び出してきれいなビーチに入れるだけの余裕もできた。だが、このときだけは不思議と無心になれた。その開放感に酔い、ぼくらはお互いを無防備の少年や少女のように感じていた。

 ぼくらは食事を終え、ベッドに横たわっている。長い一日のようだが振り返るとあっという間に過ぎるという理屈をまた思い出している。ぼくは裕紀を両腕に抱き、引き寄せた。お互いの身体は日焼けで熱があるようだった。ぼくは、この何年かの失われつつある自分の情熱を忘れ、裕紀の存在を認識していた。彼女は、どれほどぼくにとって必要な人間であったのかという思いを再燃させた。また、このように毎年のように裕紀と旅行ができたらとその更けた夜に考えている。

 ぼくは、少し日焼けした身体にまたスーツを着た。その衣装が思い出を直ぐに後ろに運んでしまう。また、新たな追い求める仕事があり、片付けなければいけない問題がテーブルの上や引き出しや、メールの受信箱にあった。それをひとつ開いては、またひとつ片付けた。ときには、裕紀の背中を思い出すときもあったが、大体は仕事に没頭した。

「楽しんで来れたか」という社長のメールもあり、ぼくはそれにも返信する。直ぐにまた返信が戻ってきて、また本社に戻る用件が説明され、お詫びのように、近藤君から仕事を減らすことはできないが、また休暇のことは考えます、という内容が付け足されていた。ぼくは、裕紀が次はどこに行きたがるのかを考えている。それはいまの忙しい生活を補ってくれるのかは不透明のままだった。そして、彼女の不機嫌を減らす口実になるのかも天秤のように計っていた。
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