爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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償いの書(93)

2011年08月15日 | 償いの書
償いの書(93)

 裕紀が手の指の爪を切り終わったあと、足の爪を切ることに取り掛かろうとしている。その姿をぼくは何度も眺めてきた。彼女は片足を抱え込むようにして膝にアゴを乗せ、足の裏を椅子の端に乗せた。
「切ってあげようか?」
「どうしたの、急に?」
「なんか、バランスが悪く感じられたもので」
「じゃあ、やって。私はもう、自分では動けなくなったお婆さんだと思って」
「かしこまりました。ぼくは、新しく雇われた執事です」

「わたしも夫を亡くして、もう長いんです。彼の顔さえ忘れてしまいました。でも、あなたに似ていたような気もしてます」と言って、裕紀は足を延ばした。ぼくは、彼女の前に椅子を持ってきて座り、ぼくの太腿に彼女のふくらはぎを乗せた。
「伸びてる?」
「それほどでも」
「髪とかも切れるような腕前があれば、全部、ひろし君に任せるけどな」
「明日から外を歩けなくなるよ。でも、できることは、全部、してあげる」

 それでも、彼女は自分の爪がきれいに切れているのか不安なようで何度も点検した。肉眼でも、手触りでも。最終チェックを終えた後、
「うまいね」と感想をもらした。
「爪を切るのに、うまいも下手もないよ。あるべき形状に戻すだけ。時間を少しだけ後ろに回転させるだけ」
「靴下履いて、靴を履いて外に行こうか?」

 それは、子育ての番組の歌のお姉さんが使うような口調だった。リズミカルで、コミカルで。ぼくは手を洗い、自分も服を着替えて表にでた。何気ないこのような瞬間を不思議と覚えている。他者に対して損得の入り込まない自然な行動。ぼくらは手をつなぐ。その組まれた手を裕紀は上にあげた。
「何か、色を塗った方がいい?」
「どうだろう。どっちでもいいけど、いまは水色なんか似合いそうだなと思った」

「ほう」と裕紀は不思議な声をもらした。彼女の全体の一部。爪であったり、吐息であったり。それを、ぼくは覚えて貯め込んでおこうと思った。ぼくは、ある日別の世界にひとりきりで連れ去られ、「お前が覚えている人間だけを再生させてやる」と恐い存在に言われるのだ。取り調べをするひとはモンタージュのようなものを作り、「それで、爪の形は?」と問う。ぼくが、答えられなければ、それは永久に失われるのだ。ぼくは、懸命にパーツを思い出す。爪は、こうだった。髪の色はこんな色だった。目の形はこの小石のような形でした、と具体的に答える。そのモンタージュは人形のようなものになり、そこに命を吹き込まれる。そして、ぼくは動く裕紀と再会するのだ。と、あるレストランで眠る前に物語を望む子どもを相手にするように、ぼくは裕紀に語りかける。

「それで?」
「それでって、もう終わりだよ」
「なんだ、わたしもひろし君をよみがえらせることが出来るかな?」
「じゃあ、目をつぶってぼくのことを伝えてみて。早く、目をつぶって」彼女は急かされたことに緊張した様子でありながらも、両目を閉じた。

「ぼくの全体像は?」
「身長176センチ」
「数字はダメだよ」
「肩幅がフランスパンと同じぐらい」
「フランスパンを知らなかったら?」
「なんか、ルールが多過ぎない?」
「胸の幅は?」
「パン一斤の横ぐらい」
「パンばっかりだな」
「わたしの胸は?」
「グレープフルーツ2個ぐらい」

「それは願望です。別人が作られています。記憶が間違っています」裕紀は、笑った。ぼくも笑いそのゲームを終えた。しかし、それから、ぼくらは小さな諍いのあとに、そのゲームをするようになった。「わたしの足の指は? ひざ小僧は?」とかと言って。ぼくは、その対象をなにか具体的なものに置き換えて覚えることを訓練した。別世界でも、裕紀を作り上げることができるのだろうか? ということに挑むように。しかし、なぜぼくはこのようなことをしなければならなかったのだろう。ぼくらは平穏でありすぎるぐらい、幸福だったのに。

 ご飯を食べ終え、ぼくらはレストランを出た。日曜が終えるまでに遊びきってしまおうという子どもの歓声があり、まだ、これからの時間を大切にしたい若い恋人たちの後ろ姿が夕焼けと一体化しようとしていた。
 ぼくらは大きなスーパーに入り、裕紀はドラッグ・ストアのなかのマニュキアを眺めている。その瓶を爪の横に置き並べ、似合うか、または映えるかどうか計ろうとしていた。しかし、彼女は無言であった。ぼくの感想も求めなかった。それで気に入ったのか、もしくは不服だったのかは判断ができなかった。ただ、ぼくは違うものを探すふりをしてその様子を見つめた。
「なんか、冷蔵庫に足りないものあった?」

 裕紀は我に戻ったようにぼくを探して声をかけた。
「シャンプーがないよ」
「そうか、買っておこう」と言って、マニュキアの瓶の横を、その存在自体を忘れたかのように裕紀は無心に歩いて行った。その背中は隠れ、レジの前に並んでいる頭部だけが見えた。ぼくは、先ほどのゲームを思い出し、彼女を何に例えて復活させればよいのか考えている。だが、そう混んでもいない店内ではレジは素早くすすみ、すると裕紀の姿は間もなく表われて自然とゲームは終わった。
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