償いの書(94)
「ここなんかどうでしょう? シニョーラ、マドモワゼル」ぼくは肩越しに笠原さんの顔をのぞき込み、そう言った。まだ新しい部類に入るマンションの一室のカギをぼくは開け、笠原さんにスリッパをすすめた。彼女は新しく生活をスタートさせる。自分だけが住んできた家とは別の、誰かが存在する場所へと。愛があり、喧嘩も、多少の喧嘩も生まれる場所。
「仕事をしている近藤さんも素敵ですね。見直した」
「そう言っても、安くしないよ。ギリギリまでしてあげるけどね」
「やっぱりだめ? でも、そんなに権限がある?」
「それは、笠原さん次第。冗談だよ。だけど、権限がそこそこはある。これぐらいまでなら」
「いや、ほんとに素敵ですよ。このひとは騙さないという安心感みたいな雰囲気があるもん。貴重なものを紹介してくれそうなね」
「ぼくは、その雰囲気を使って、彼氏を紹介してあげた」
「でも、たまにはその雰囲気で騙す?」
「たまにはね」
「今回は?」
「自分と裕紀が住むなら、どこがいいかな? と考えている。もうちょっと若くて、ふたりともフレッシュさに満ち溢れていたら」
「充分に若いじゃないですか?」
「でも、何かをスタートさせる時期じゃない。継続はさせる力はあるけど」
彼女はいくつかの扉を開け、部屋に消え、窓の外を眺めたり、軽くドアを叩いたりした。さらに、クローゼットの寸法を測り、そこにきちんと並んだ自分の洋服を思い浮かべているようだった。
「素敵ですね」
「素敵だよ。だけど、ぼくは、もっと大きな仕事に関わるようになってしまって、単純なひとの新しい家に住む喜びみたいなものに触れる機会が減ってしまった」
「好きだった?」
「好きなんだろうね。これでも昔はきちんと建築を学び、誰かがぼくの設計した家に住んでもらいたかった」
「今でも遅くはないんじゃない?」
「向き不向きがある。上田さんと同じように、ラグビーが好きだったとしても、どこでも守れるものじゃない」
「ふうん」彼女は自分の生活を追い求める方が楽しいようだった。
「ここに、彼も住むんだろう?」
「ひとりじゃ広すぎるでしょう? 突然だけど、誰かひとりを永遠に愛し続けることは可能かしら?」
「できると思うよ」
「近藤さんはそう思ってる?」
「頭では」
「でも?」
「そうしたいと思っている。それが真っ当なことだと思っている」
「まじめなんですね」
「頭では。家具は彼の店のものを?」
「そうする予定です」彼女と住む男性は仕事で家具を扱っている。ぼくらの業務とも関係があり、たまに話すことがあった。ぼくらは同じ地域に住み、年代もほぼ一緒で、同じようにラグビーに打ち込んだ。それだけで、ぼくは彼への採点が甘くなるが、それを差し引いても魅力の多い人間だった。そこには、島本さんの面影があった。ぼくはライバルゆえに彼を尊敬し、そして、恋の敵として憎悪した。島本さんより数歳、年下の彼は、その女性関係の噂をききつけ、尊敬することもなく、ただの軽い先輩として認識していたようだった。そのひととの接し方で、このようにある問題の見方が変わった。ぼくと島本さんとの隔絶はある場合は尊敬になり、ある女性を介在させると憎しみに化けた。
「笠原さんは、彼をずっと愛し続けられると思うよ」
「そして、ずっと家賃を払う」
「それで、ぼくのボーナスが上がる」
「上田さんが、近藤さんはお金より愛情で動くひとだと言ってましたよ。それが魅力でもあり、ある意味、防御を知らないボクサーのようだとも」
「それで、何人かを傷つけてきた。同時に自分も悲しんだ」
「そうでしょうね。それが、惹きつける魅力でもあるんでしょうね」と言い、ぼくの後方を見るような仕草をした。「ここもいいですね、決めようかな。あと、何軒かあるんですか?」
「あるよ」と言って、ぼくはカバンから何本かのカギを取り出し、わざと音を出すように揺すった。「そう、せっかちにならずにぼくと付き合うといいよ。もう、金銭なんか度外視して紹介するよ」
それから、何軒か見て、結局はぼくも一番目に見せた部屋が気に入り、彼女もまったく同じ意見のようだった。
「彼の意見を訊きたいと思うので、それからでも回答は遅くないですか?」
「彼もまた見るといいよ。責任をひとりで負うより、分け合った方がね。今日、これからは?」
「買い付けに走っているみたいで、無理です。近藤さんは?」
「時間は充分にある。どっか、行こうか?」
「行きましょうか」
ぼくは車を置き、待ち合わせの場所に向かった。ぼくは数少ない異性の友人をもった。それは、ぼくの年齢が上がったこととも関係があり、また、彼女が上田さんの会社の女性ということも随分と影響した。ぼくの人間関係のもくろみの甘さが友人たちに迷惑をかけた過去があった。それを繰り返すことはぼくには許されておらず、彼らももうぼくを許容することはないだろう。
それで、友人として笠原さんとビールで乾杯した。
「わたしたちの新居に」
「ラグビーの後輩と、可愛い女性に」と、ぼくも同意した。夜ははじまったばかりで、彼女らの未来もスタートしたばかりだった。ぼくと裕紀の過去と同じように。
「ここなんかどうでしょう? シニョーラ、マドモワゼル」ぼくは肩越しに笠原さんの顔をのぞき込み、そう言った。まだ新しい部類に入るマンションの一室のカギをぼくは開け、笠原さんにスリッパをすすめた。彼女は新しく生活をスタートさせる。自分だけが住んできた家とは別の、誰かが存在する場所へと。愛があり、喧嘩も、多少の喧嘩も生まれる場所。
「仕事をしている近藤さんも素敵ですね。見直した」
「そう言っても、安くしないよ。ギリギリまでしてあげるけどね」
「やっぱりだめ? でも、そんなに権限がある?」
「それは、笠原さん次第。冗談だよ。だけど、権限がそこそこはある。これぐらいまでなら」
「いや、ほんとに素敵ですよ。このひとは騙さないという安心感みたいな雰囲気があるもん。貴重なものを紹介してくれそうなね」
「ぼくは、その雰囲気を使って、彼氏を紹介してあげた」
「でも、たまにはその雰囲気で騙す?」
「たまにはね」
「今回は?」
「自分と裕紀が住むなら、どこがいいかな? と考えている。もうちょっと若くて、ふたりともフレッシュさに満ち溢れていたら」
「充分に若いじゃないですか?」
「でも、何かをスタートさせる時期じゃない。継続はさせる力はあるけど」
彼女はいくつかの扉を開け、部屋に消え、窓の外を眺めたり、軽くドアを叩いたりした。さらに、クローゼットの寸法を測り、そこにきちんと並んだ自分の洋服を思い浮かべているようだった。
「素敵ですね」
「素敵だよ。だけど、ぼくは、もっと大きな仕事に関わるようになってしまって、単純なひとの新しい家に住む喜びみたいなものに触れる機会が減ってしまった」
「好きだった?」
「好きなんだろうね。これでも昔はきちんと建築を学び、誰かがぼくの設計した家に住んでもらいたかった」
「今でも遅くはないんじゃない?」
「向き不向きがある。上田さんと同じように、ラグビーが好きだったとしても、どこでも守れるものじゃない」
「ふうん」彼女は自分の生活を追い求める方が楽しいようだった。
「ここに、彼も住むんだろう?」
「ひとりじゃ広すぎるでしょう? 突然だけど、誰かひとりを永遠に愛し続けることは可能かしら?」
「できると思うよ」
「近藤さんはそう思ってる?」
「頭では」
「でも?」
「そうしたいと思っている。それが真っ当なことだと思っている」
「まじめなんですね」
「頭では。家具は彼の店のものを?」
「そうする予定です」彼女と住む男性は仕事で家具を扱っている。ぼくらの業務とも関係があり、たまに話すことがあった。ぼくらは同じ地域に住み、年代もほぼ一緒で、同じようにラグビーに打ち込んだ。それだけで、ぼくは彼への採点が甘くなるが、それを差し引いても魅力の多い人間だった。そこには、島本さんの面影があった。ぼくはライバルゆえに彼を尊敬し、そして、恋の敵として憎悪した。島本さんより数歳、年下の彼は、その女性関係の噂をききつけ、尊敬することもなく、ただの軽い先輩として認識していたようだった。そのひととの接し方で、このようにある問題の見方が変わった。ぼくと島本さんとの隔絶はある場合は尊敬になり、ある女性を介在させると憎しみに化けた。
「笠原さんは、彼をずっと愛し続けられると思うよ」
「そして、ずっと家賃を払う」
「それで、ぼくのボーナスが上がる」
「上田さんが、近藤さんはお金より愛情で動くひとだと言ってましたよ。それが魅力でもあり、ある意味、防御を知らないボクサーのようだとも」
「それで、何人かを傷つけてきた。同時に自分も悲しんだ」
「そうでしょうね。それが、惹きつける魅力でもあるんでしょうね」と言い、ぼくの後方を見るような仕草をした。「ここもいいですね、決めようかな。あと、何軒かあるんですか?」
「あるよ」と言って、ぼくはカバンから何本かのカギを取り出し、わざと音を出すように揺すった。「そう、せっかちにならずにぼくと付き合うといいよ。もう、金銭なんか度外視して紹介するよ」
それから、何軒か見て、結局はぼくも一番目に見せた部屋が気に入り、彼女もまったく同じ意見のようだった。
「彼の意見を訊きたいと思うので、それからでも回答は遅くないですか?」
「彼もまた見るといいよ。責任をひとりで負うより、分け合った方がね。今日、これからは?」
「買い付けに走っているみたいで、無理です。近藤さんは?」
「時間は充分にある。どっか、行こうか?」
「行きましょうか」
ぼくは車を置き、待ち合わせの場所に向かった。ぼくは数少ない異性の友人をもった。それは、ぼくの年齢が上がったこととも関係があり、また、彼女が上田さんの会社の女性ということも随分と影響した。ぼくの人間関係のもくろみの甘さが友人たちに迷惑をかけた過去があった。それを繰り返すことはぼくには許されておらず、彼らももうぼくを許容することはないだろう。
それで、友人として笠原さんとビールで乾杯した。
「わたしたちの新居に」
「ラグビーの後輩と、可愛い女性に」と、ぼくも同意した。夜ははじまったばかりで、彼女らの未来もスタートしたばかりだった。ぼくと裕紀の過去と同じように。