爪の先まで神経細やか

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償いの書(91)

2011年08月13日 | 償いの書
償いの書(91)

 会社のなかにいる。そこに電話がかかってくる。誰かと意思を通わせたいという気持ちがあって、その解決策としての電話があった。そこは掛けてくるほうの意思が重要なのか、相手をする自分が重要なのかは分からなかった。
「雪代です」電話を代わると、そう言った。
「どうしたの、急に」
「電話って大体が、急なもんだよ」
「まあ、そうだけど。何か用があったのかと思って」
「わたし、東京にいる」
「また、どうして?」
「わたしだって、東京にいたときの友人がいるし、仕事の用もしなければならない」
「娘は?」ぼくは、彼女がどれほど大きくなったのかを想像する。それは、雪代を小さくしたような印象しかもてなかった。
「連れて来ていない。会えそう? それとも、奥さんに悪い」
「友人として会うんだから、問題ないよ」ぼくは、別れて過ごした期間を考えた。もう8、9年は経っているはずだ。過去のぼくを知る友人として、ぼくは彼女を認識しようとしたが、その考え方は強引なような感じもした。
「前に行った表参道あたり覚えてる?」
「うん、分かる」
「あの近くか、もし店があったら、あそこで今日の夕飯でもどう?」

 ぼくは、予定を考える振りをする。ぼくが、それを断ることはないだろう。それを、雪代は知っているのだろうか。
「遅れそうになるかもしれないけど、必ず行くよ」と伝えて受話器を置いた。ぼくは、すこし呆然としている。この電話がかかってくる前と今では外の世界も大げさにいえば、違うようだった。

「近藤さん、どうかしました?」ぼくは、同僚の方を振り向く。「会議の時間ですよ。会議室、行きましょうよ」
 ぼくは、机の横の資料を抱え、椅子から立ち上がった。何もなかったという風に自分に言い聞かせる形で。
 夕方になり、夜が本格的になる前の深いブルーの空を眺めている。近くに住む未来と邂逅できる能力を持つ女性とすれ違った。彼女はぼくに微笑みかけ、自分がしようとしていることを読み取られてしまうことを恐れた。だが、ぼくは素早くそこを通り過ぎ、ひきつったような笑いが自分の顔に浮かんでいることを想像した。

 歩道橋のよこに雪代はいた。ぼくがもっているきれいな印象の彼女は、さらに大人の魅力を放って立っていた。
「ごめんね、急に呼び出して」
「いや、ひとりで食べる食事は味気ないよ」と言いながら、裕紀にその立場を与えていることをぼくは忘れようとした。もしかしたら、雪代の頭のなかにもその映像が浮かび上がっているのかもしれない。ぼくらは、変なところでお互いの気持ちが通じることが過去に何度もあった。それで、ぼくは、いまのタイミングでもそれが起るような気もしていた。
「あの店、まだあるんだね、入る?」

「そうしようっか、あの店長、まだ、いるのかな」と、ぼくはひとりごとのように言った。実際に入ってみると、ぼくらが若いときにいた給仕をしてくれた店員が店の奥でしきっているようだった。

「島本さんのことは、もう大丈夫?」ぼくらを永遠に切り離すことになった存在は、もうこの世にはいなかった。ぼくは、もっと彼のことを憎んでもよかったが、もういないとなると、それはフェアじゃないような気がして、今更、憎しみの感情をもつことすらできなかった。

「大丈夫だよ。気持ちは癒えた」そして、彼女は笑った。ぼくが知らなかった場所に笑うとしわができ、ぼくはその途中の経過を知る権利のなかった自分を、どこかで悲しんでいた。

 食事を終えそうになると、奥から店員がでてきて、ぼくらに挨拶をした。
「むかし、来てくれましたね。いまは、ぼくがこの店を譲り受けています」
「覚えてくれてるんだ」雪代は嬉しそうな声をだした。
「もちろん」ぼくは、誰しも会ったひとは雪代を覚えていることを知っていた。あの、きれいな女性と付き合う幸運をもっている男性は、誰なんだ? という表情も何人かには浮かんだ。「結婚されて?」
「違う。わたしたちは、それぞれ別のひとと結婚した。彼は幸せになって、わたしは、まあまあ幸せになった」
「すいません。あのときから似合っていたものだから。コーヒーお代わりします?」と、気まずさを消すように彼は自分の用件を見つけたことに安堵して、また奥に消えた。
「夫婦だって」
「その可能性もあったよ。再婚しないの?」
「ひろし君、してくれる?」彼女はぼくを直視する。その直視の仕方は、ぼくが16歳ではじめて会ったときから寸分も変わっていなかった。「冗談だよ。可愛い奥さんをもっと大切にしてね」

 ぼくは、自分に訪れなかった自分の可能性が生んだ進むべき道のいくつかのコースを想像する。東京に行かなかったこと。ラグビーで全国大会に出場すること。ぼくらが、結婚したことや、広美という娘がぼくらの間に産まれたことを。ぼくと裕紀との間にも同じような可愛い女の子が産まれたことまで想像した。
「気の利いた返事ができなくてごめん」ぼくは、しばらくして温かいコーヒーのカップをもって、思い出したようにその言葉を継げた。

「でも、またここに来られて良かった。過去の楽しかったころのことや、ひろし君が浮気をしながらもわたしを懸命に愛してくれてたことも思い出した。そうだよね?」
「愛していたし、浮気はしてない」
「また、そんなうまくもない嘘をついて」
「浮気はそんなにしていない」
 彼女は笑みを浮かべる。やはり、ぼくの知らないところにしわが寄った。それが訪れたときに、ぼくは彼女の顔を見詰めているべきだったのだ、と思い始めている。
「楽しかった。ひろし君もまともに成長していた。そのままでね」と言って、店の前で彼女は手を振る。彼女は近くのホテルまでタクシーを拾い、ぼくは地下鉄の駅に向かい階段をくだった。そして、今日一日は本当に起ったことなのか確かめるように改札を抜けた。
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