償いの書(96)
体調が優れないという裕紀を置いて、ぼくは、大きな駅までゆり江を見送りにいった。彼女の大き目のバックを代理でぼくは持っている。その重みは、ぼくらの過去の重みなのだと考えようとした。
「最近、多いんですか?」ゆり江は裕紀の体調を気遣った。
「いや、昨日、はしゃぎすぎたんじゃないの」
「ごめんなさい」
「謝ることないよ。あんなに楽しそうに振舞っていたんだから、生活に彩りがあって」
「ひろし君は、いつも平気なんだね。わたしと会うとき」
「平気じゃないよ、もちろん」
「顔にも出さない、変化を」
「ラグビー部のキャプテンで訓練されたんだよ。焦らないこと、動揺を見破られないこと。これでも、弱小チームを強く引っ張っていった自負がある。ぼく自身も勝てないと思っていることを探られたくなかった」その微細な動きでぼくらの特色は全滅する恐怖があった。チャレンジ精神を崩壊させるもの。その恐れ。
「そうか」
「そうだよ」
「そして、わたしはいつも二番手」ぼくは、彼女の顔を見る。彼女の瞳はあのときのままだった。ぼくはそれに見詰められると、自分の平常心が崩れる恐さがあった。あの少女をぼくは無下に苦しめていたのだ。未来が必要な時期に、安定した未来を求めている女性に、ぼくはその場しのぎの嘘の楽しさしか与えられなかった。
「ごめん、ほんとにごめん」
「責めてないよ。わたしはあのときのことを思い出すのが大好き。裕紀さんを苦しめられたひとと共に過ごす時間にも快楽を覚えていた。それも、嘘。ひろし君が、あのときのひろし君が好きだった」
「ぼくも、そう言えたら良かったのにね」
「でも、言わなかった」
「でも、言わなかった」
「ひろし君も自分自身を許していいよ。勝手に好かれて、勝手に捨てたとでも思えば。できないだろうけど」
「戻ったら、仲良くやれる? 旦那さんと」
「喧嘩と言ったって、東京に遊びにいったぐらいに思っているよ。それに、わたしもあそこしか帰るところはないからね。10年も前に戻って、ある男性を無理にでも奪える機会もないし、その実力もないし。元気でね、ひろし君」
「ゆり江ちゃんも。また、来るといいよ」
「今度は爆弾発言をするかも」
「しないよ」
「いや、するね」と言って、笑って彼女は改札を抜けた。バックは思ったより重そうに映っている。ぼくは支えることもできず、昔も支えてこなかった自分を恥じている。裕紀とゆり江が親しい関係を続ける以上、ぼくらの関係は内緒のままであり、また仮面のようなもので自分のこころを隠して接するしか方法はないのだろう。
休日だったので、ケーキを買って家に戻った。裕紀はベッドで寝ていた。だが、直ぐに目を開け、こちらに歩いてきた。
「大丈夫? 身体」
「ごめんね。わたしも送りたかった」
「駄目だよ。ぼくらふたりで大事な話もあるから」
「奥さんが病気で寝込んでいる間、逃亡するとか?」
「そう。メキシコへの国境を越えて。ふたりは質素ながらも新しい生活を作る」
「絶対に、追いかけるよ」
「ぼくらは、コロンビアやアルゼンチンまで逃げる」彼女は不安そうな顔をする。
「嘘でしょう?」
「嘘だよ。誘ったけど、断られた。向こうで、大切な旦那さんが首を長くして待っている。それで、ぼくは泣きながらケーキを買って、嫁のもとに戻ってきた。そんなことがなかったように。パスポートはあった場所にこっそり入れとくよ」彼女に笑みが戻る。自然な赤みが頬に浮かび、健康そうな表情になった。
「子どもでもいれば、ひろし君はベッドで物語を永遠と紡ぎ出せるパパになれたよ」
「コロンビアに逃げる話を、子どもに?」
「それとは、別の話」彼女はパジャマ姿で裸足の足の裏を見せていた。アクセサリーも何もなく、髪は乱れたままだったが、ぼくはその姿も愛していたのだ。永遠という時間の感覚がそこにはあった。そう思いながらも、この瞬間にしかないものも確かにあった。
窓から風が入り、カーテンが揺れた。遠くで電車がレールの上をすべるような音が聞こえた気がした。それとは違う電車に乗っているひとりきりのゆり江を思い浮かべた。なぜ、彼女はここに来る気になったのだろう。もちろん、裕紀とは友人だし、東京にそう知り合いが多いわけでもないが、ぼくはその問題を探ろうとした。それから、トイレに行くと、脱衣所にはゆり江が着たであろうパジャマがあった。ぼくは横目でそれを見て素通りした。トイレから出ると無意識にか、こらえ切れず触ってしまった。
「雪代さんのところに帰らないで」と、一度だけ若い彼女は言った。ぼくはその自分勝手な聞き分けのない言い草に腹が立った。だが、もちろん、自分勝手なのはぼくだった。どうにか、慰めたりして家に戻った。雪代は素敵なままでぼくの数時間前のことを知らない。それ以降、ゆり江は、そうした言葉を出さなくなった。犬が飼い主に叱られることをしなくなったように、口を閉じた。
ぼくは、そのときより鮮明に彼女のこころの動きが分かるような気がした。そして、過去の自分もゆり江の態度も許そうとした。
「何時ぐらいに着くのかな?」
「あと一時間ぐらいじゃないの」その時間だけ、ぼくらは遠くなり、また過去も一時間遠くなる。遠くなっても、ぼくは思い出し、反省し、消せない過去があることを猛省する。
体調が優れないという裕紀を置いて、ぼくは、大きな駅までゆり江を見送りにいった。彼女の大き目のバックを代理でぼくは持っている。その重みは、ぼくらの過去の重みなのだと考えようとした。
「最近、多いんですか?」ゆり江は裕紀の体調を気遣った。
「いや、昨日、はしゃぎすぎたんじゃないの」
「ごめんなさい」
「謝ることないよ。あんなに楽しそうに振舞っていたんだから、生活に彩りがあって」
「ひろし君は、いつも平気なんだね。わたしと会うとき」
「平気じゃないよ、もちろん」
「顔にも出さない、変化を」
「ラグビー部のキャプテンで訓練されたんだよ。焦らないこと、動揺を見破られないこと。これでも、弱小チームを強く引っ張っていった自負がある。ぼく自身も勝てないと思っていることを探られたくなかった」その微細な動きでぼくらの特色は全滅する恐怖があった。チャレンジ精神を崩壊させるもの。その恐れ。
「そうか」
「そうだよ」
「そして、わたしはいつも二番手」ぼくは、彼女の顔を見る。彼女の瞳はあのときのままだった。ぼくはそれに見詰められると、自分の平常心が崩れる恐さがあった。あの少女をぼくは無下に苦しめていたのだ。未来が必要な時期に、安定した未来を求めている女性に、ぼくはその場しのぎの嘘の楽しさしか与えられなかった。
「ごめん、ほんとにごめん」
「責めてないよ。わたしはあのときのことを思い出すのが大好き。裕紀さんを苦しめられたひとと共に過ごす時間にも快楽を覚えていた。それも、嘘。ひろし君が、あのときのひろし君が好きだった」
「ぼくも、そう言えたら良かったのにね」
「でも、言わなかった」
「でも、言わなかった」
「ひろし君も自分自身を許していいよ。勝手に好かれて、勝手に捨てたとでも思えば。できないだろうけど」
「戻ったら、仲良くやれる? 旦那さんと」
「喧嘩と言ったって、東京に遊びにいったぐらいに思っているよ。それに、わたしもあそこしか帰るところはないからね。10年も前に戻って、ある男性を無理にでも奪える機会もないし、その実力もないし。元気でね、ひろし君」
「ゆり江ちゃんも。また、来るといいよ」
「今度は爆弾発言をするかも」
「しないよ」
「いや、するね」と言って、笑って彼女は改札を抜けた。バックは思ったより重そうに映っている。ぼくは支えることもできず、昔も支えてこなかった自分を恥じている。裕紀とゆり江が親しい関係を続ける以上、ぼくらの関係は内緒のままであり、また仮面のようなもので自分のこころを隠して接するしか方法はないのだろう。
休日だったので、ケーキを買って家に戻った。裕紀はベッドで寝ていた。だが、直ぐに目を開け、こちらに歩いてきた。
「大丈夫? 身体」
「ごめんね。わたしも送りたかった」
「駄目だよ。ぼくらふたりで大事な話もあるから」
「奥さんが病気で寝込んでいる間、逃亡するとか?」
「そう。メキシコへの国境を越えて。ふたりは質素ながらも新しい生活を作る」
「絶対に、追いかけるよ」
「ぼくらは、コロンビアやアルゼンチンまで逃げる」彼女は不安そうな顔をする。
「嘘でしょう?」
「嘘だよ。誘ったけど、断られた。向こうで、大切な旦那さんが首を長くして待っている。それで、ぼくは泣きながらケーキを買って、嫁のもとに戻ってきた。そんなことがなかったように。パスポートはあった場所にこっそり入れとくよ」彼女に笑みが戻る。自然な赤みが頬に浮かび、健康そうな表情になった。
「子どもでもいれば、ひろし君はベッドで物語を永遠と紡ぎ出せるパパになれたよ」
「コロンビアに逃げる話を、子どもに?」
「それとは、別の話」彼女はパジャマ姿で裸足の足の裏を見せていた。アクセサリーも何もなく、髪は乱れたままだったが、ぼくはその姿も愛していたのだ。永遠という時間の感覚がそこにはあった。そう思いながらも、この瞬間にしかないものも確かにあった。
窓から風が入り、カーテンが揺れた。遠くで電車がレールの上をすべるような音が聞こえた気がした。それとは違う電車に乗っているひとりきりのゆり江を思い浮かべた。なぜ、彼女はここに来る気になったのだろう。もちろん、裕紀とは友人だし、東京にそう知り合いが多いわけでもないが、ぼくはその問題を探ろうとした。それから、トイレに行くと、脱衣所にはゆり江が着たであろうパジャマがあった。ぼくは横目でそれを見て素通りした。トイレから出ると無意識にか、こらえ切れず触ってしまった。
「雪代さんのところに帰らないで」と、一度だけ若い彼女は言った。ぼくはその自分勝手な聞き分けのない言い草に腹が立った。だが、もちろん、自分勝手なのはぼくだった。どうにか、慰めたりして家に戻った。雪代は素敵なままでぼくの数時間前のことを知らない。それ以降、ゆり江は、そうした言葉を出さなくなった。犬が飼い主に叱られることをしなくなったように、口を閉じた。
ぼくは、そのときより鮮明に彼女のこころの動きが分かるような気がした。そして、過去の自分もゆり江の態度も許そうとした。
「何時ぐらいに着くのかな?」
「あと一時間ぐらいじゃないの」その時間だけ、ぼくらは遠くなり、また過去も一時間遠くなる。遠くなっても、ぼくは思い出し、反省し、消せない過去があることを猛省する。