壊れゆくブレイン(69)
ぼくらは悲劇とともに暮らす。
ぼくは車で外回りをしながらラジオを聞いている。一日を締めくくる予感とその日が無事に過ぎ行こうとしている軽い疲労が証拠としてあった。全国の大きな話題のニュースと天気予報が終わり、ぼくはその社会と無関係でいるような気持ちを残しつつ聞き流していると、次に地元のローカルなニュースに移った。そのタイミングで流れている女性の声もかわった。いささか粘質的な声だった。
特産品の話題があり、今年の収穫の見込みが話された。ぼくはそれを雪代が食卓に出すときのことを考えていた。また、地元のお祭りのことについても話された。それを遠くから見るために、とある国の観光客が来ることが話題として提供された。そして、事故の話がある。川遊びをしていた子ども。親が目を離した隙に横たわる姿で見つかる。蘇生が試されたが、それは戻ることはなかった。子どもの名前がちゃん付けで呼ばれる。その苗字はゆり江がある日から付けた名前だった。そして、その子どもの名前もぼくは聞き覚えがあった。
それは新鮮なニュースだった。事故が起きたのは昼過ぎで車内の時間は夕方になり、いまごろは搬送された病院で親がそばにいるはずだった。ぼくはその横たわる身体が裕紀のものであると錯覚する。不意にめまいのようなものを覚え、急いで車を路肩に停めた。ハンドルに置いた両腕に頭をもたせかけ、ぼくはうなだれた。
ぼくは携帯電話に入っているゆり江の番号を探す。それはむかしの苗字として表示された。だが、かけることをためらう。ぼくは必要とされているのかも分からない。ただ、それが近いうちに鳴ってほしかった。いや、それも違う。永遠に鳴らずに、彼女の子どもではなかったと思いたかった。
しかし、自宅に戻ると、テレビのニュースでも取り上げられていた。広美は一度、その子に会ったことがあった。学校での課外授業かボランティアで子どもを遠足に連れて行く行事があった。ゆり江もそこにいた。子どもももちろんいた。大勢のなかのひとりとして。広美は彼らを覚えていた。
「ひろし君、こんな事故があった」彼女は動揺していた。
「うん。車で聞いた」
「なに?」遅れて帰ってきた雪代は話題についていけなかった。概要を広美が話す。
「わたし、いっしょに遠足に行って、遊んだ。お母さんも可愛げのある優しいひとだった」
「ひろし君も彼女を知っているのよ」雪代は失くしたものが見つかったような表情をしていた。
「おばさんの友だちでしょう?」広美はぼくの妹と彼女を結びつける。その通りといえば、その通りだった。だが、ぼくとゆり江の古い関係を雪代は口にださなかったが覚えているようだった。
ぼくの携帯電話は何日かして案の定だが鳴る。ぼくは安堵とともに慰めの言葉を探す。しかし、こころの平和はどこにもなかった。裕紀が亡くなったとき、ゆり江がなにを語ったかがまったく思い出せずにいたが、それでも、彼女がそばにいることがありがたかったことを記憶にとどめている。
「会ってくれる? 渡すものができた」
「もちろん。ぼくが今度はなぐさめる番だから」
ぼくはゆり江を抱きしめる。その様子を予想している。その場の言葉は荷物でしかなく、ぼくらを遠去ける役目しか与えないであろうことを理解していた。だが、会うと彼女は大きな袋を渡した。
「なに?」
「子どもの部屋になるべきところに飾っておいたけど必要なくなった」ぼくは上からちらりとなかを覗く。ある絵。それはどこかの少女の肖像だが、不思議と裕紀に似ているものだった。「裕紀さんとあの子の死を結び付けて、彼があるのを嫌がった。正直な話」不幸を舞い込ませる絵画。そんなことは絶対にないはずだったが、でも、実際にはそれは起こりつつあった。違う。本当に起きてしまった。「裕紀さんは、意地でもひろし君のそばに居たいのかも、ね。こうして」
「母親もなくて淋しがってた。また、実家に飾るよ」
負け惜しみのようなことを言ったぼくは疲れ、数歳年取ったような感じを抱いていた。だが、ぼくらはその絵画のことを忘れ(だが、なにかを片時でも、大切であったなにかをきれいに忘れることができるのだろうか?)ある場所で抱き合っていた。ぼくらは死と向き合い、儀式としてそれを済ませなければならないような感情になっていた。脅迫にでもあったように。
「また、誰かが死んで、ひろし君といっしょになってる」ゆり江はぼくの胸の上で泣いた。「大切ななにかをまた失った」
「ぼくは、君と抱き合うためになにかを犠牲にするのかな」もし、そうならば、次回が、このような機会が来るとすれば、それはもっと大きな供物をぼくに求めることだろう。その恐ろしさと見えざる巨大な力を感じ、ぼくはゆり江を抱いている暖かさを忘れ、身震いする。ただ、恐かった。こうして、ゆり江の変わらぬ若い身体を抱いていながらも恐かったのだ。なにかを押し退け、生きつづけることも恐かった。
ぼくらは悲劇とともに暮らす。
ぼくは車で外回りをしながらラジオを聞いている。一日を締めくくる予感とその日が無事に過ぎ行こうとしている軽い疲労が証拠としてあった。全国の大きな話題のニュースと天気予報が終わり、ぼくはその社会と無関係でいるような気持ちを残しつつ聞き流していると、次に地元のローカルなニュースに移った。そのタイミングで流れている女性の声もかわった。いささか粘質的な声だった。
特産品の話題があり、今年の収穫の見込みが話された。ぼくはそれを雪代が食卓に出すときのことを考えていた。また、地元のお祭りのことについても話された。それを遠くから見るために、とある国の観光客が来ることが話題として提供された。そして、事故の話がある。川遊びをしていた子ども。親が目を離した隙に横たわる姿で見つかる。蘇生が試されたが、それは戻ることはなかった。子どもの名前がちゃん付けで呼ばれる。その苗字はゆり江がある日から付けた名前だった。そして、その子どもの名前もぼくは聞き覚えがあった。
それは新鮮なニュースだった。事故が起きたのは昼過ぎで車内の時間は夕方になり、いまごろは搬送された病院で親がそばにいるはずだった。ぼくはその横たわる身体が裕紀のものであると錯覚する。不意にめまいのようなものを覚え、急いで車を路肩に停めた。ハンドルに置いた両腕に頭をもたせかけ、ぼくはうなだれた。
ぼくは携帯電話に入っているゆり江の番号を探す。それはむかしの苗字として表示された。だが、かけることをためらう。ぼくは必要とされているのかも分からない。ただ、それが近いうちに鳴ってほしかった。いや、それも違う。永遠に鳴らずに、彼女の子どもではなかったと思いたかった。
しかし、自宅に戻ると、テレビのニュースでも取り上げられていた。広美は一度、その子に会ったことがあった。学校での課外授業かボランティアで子どもを遠足に連れて行く行事があった。ゆり江もそこにいた。子どもももちろんいた。大勢のなかのひとりとして。広美は彼らを覚えていた。
「ひろし君、こんな事故があった」彼女は動揺していた。
「うん。車で聞いた」
「なに?」遅れて帰ってきた雪代は話題についていけなかった。概要を広美が話す。
「わたし、いっしょに遠足に行って、遊んだ。お母さんも可愛げのある優しいひとだった」
「ひろし君も彼女を知っているのよ」雪代は失くしたものが見つかったような表情をしていた。
「おばさんの友だちでしょう?」広美はぼくの妹と彼女を結びつける。その通りといえば、その通りだった。だが、ぼくとゆり江の古い関係を雪代は口にださなかったが覚えているようだった。
ぼくの携帯電話は何日かして案の定だが鳴る。ぼくは安堵とともに慰めの言葉を探す。しかし、こころの平和はどこにもなかった。裕紀が亡くなったとき、ゆり江がなにを語ったかがまったく思い出せずにいたが、それでも、彼女がそばにいることがありがたかったことを記憶にとどめている。
「会ってくれる? 渡すものができた」
「もちろん。ぼくが今度はなぐさめる番だから」
ぼくはゆり江を抱きしめる。その様子を予想している。その場の言葉は荷物でしかなく、ぼくらを遠去ける役目しか与えないであろうことを理解していた。だが、会うと彼女は大きな袋を渡した。
「なに?」
「子どもの部屋になるべきところに飾っておいたけど必要なくなった」ぼくは上からちらりとなかを覗く。ある絵。それはどこかの少女の肖像だが、不思議と裕紀に似ているものだった。「裕紀さんとあの子の死を結び付けて、彼があるのを嫌がった。正直な話」不幸を舞い込ませる絵画。そんなことは絶対にないはずだったが、でも、実際にはそれは起こりつつあった。違う。本当に起きてしまった。「裕紀さんは、意地でもひろし君のそばに居たいのかも、ね。こうして」
「母親もなくて淋しがってた。また、実家に飾るよ」
負け惜しみのようなことを言ったぼくは疲れ、数歳年取ったような感じを抱いていた。だが、ぼくらはその絵画のことを忘れ(だが、なにかを片時でも、大切であったなにかをきれいに忘れることができるのだろうか?)ある場所で抱き合っていた。ぼくらは死と向き合い、儀式としてそれを済ませなければならないような感情になっていた。脅迫にでもあったように。
「また、誰かが死んで、ひろし君といっしょになってる」ゆり江はぼくの胸の上で泣いた。「大切ななにかをまた失った」
「ぼくは、君と抱き合うためになにかを犠牲にするのかな」もし、そうならば、次回が、このような機会が来るとすれば、それはもっと大きな供物をぼくに求めることだろう。その恐ろしさと見えざる巨大な力を感じ、ぼくはゆり江を抱いている暖かさを忘れ、身震いする。ただ、恐かった。こうして、ゆり江の変わらぬ若い身体を抱いていながらも恐かったのだ。なにかを押し退け、生きつづけることも恐かった。