爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(69)

2012年06月04日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(69)

 ぼくらは悲劇とともに暮らす。

 ぼくは車で外回りをしながらラジオを聞いている。一日を締めくくる予感とその日が無事に過ぎ行こうとしている軽い疲労が証拠としてあった。全国の大きな話題のニュースと天気予報が終わり、ぼくはその社会と無関係でいるような気持ちを残しつつ聞き流していると、次に地元のローカルなニュースに移った。そのタイミングで流れている女性の声もかわった。いささか粘質的な声だった。

 特産品の話題があり、今年の収穫の見込みが話された。ぼくはそれを雪代が食卓に出すときのことを考えていた。また、地元のお祭りのことについても話された。それを遠くから見るために、とある国の観光客が来ることが話題として提供された。そして、事故の話がある。川遊びをしていた子ども。親が目を離した隙に横たわる姿で見つかる。蘇生が試されたが、それは戻ることはなかった。子どもの名前がちゃん付けで呼ばれる。その苗字はゆり江がある日から付けた名前だった。そして、その子どもの名前もぼくは聞き覚えがあった。

 それは新鮮なニュースだった。事故が起きたのは昼過ぎで車内の時間は夕方になり、いまごろは搬送された病院で親がそばにいるはずだった。ぼくはその横たわる身体が裕紀のものであると錯覚する。不意にめまいのようなものを覚え、急いで車を路肩に停めた。ハンドルに置いた両腕に頭をもたせかけ、ぼくはうなだれた。

 ぼくは携帯電話に入っているゆり江の番号を探す。それはむかしの苗字として表示された。だが、かけることをためらう。ぼくは必要とされているのかも分からない。ただ、それが近いうちに鳴ってほしかった。いや、それも違う。永遠に鳴らずに、彼女の子どもではなかったと思いたかった。

 しかし、自宅に戻ると、テレビのニュースでも取り上げられていた。広美は一度、その子に会ったことがあった。学校での課外授業かボランティアで子どもを遠足に連れて行く行事があった。ゆり江もそこにいた。子どもももちろんいた。大勢のなかのひとりとして。広美は彼らを覚えていた。

「ひろし君、こんな事故があった」彼女は動揺していた。
「うん。車で聞いた」
「なに?」遅れて帰ってきた雪代は話題についていけなかった。概要を広美が話す。
「わたし、いっしょに遠足に行って、遊んだ。お母さんも可愛げのある優しいひとだった」
「ひろし君も彼女を知っているのよ」雪代は失くしたものが見つかったような表情をしていた。
「おばさんの友だちでしょう?」広美はぼくの妹と彼女を結びつける。その通りといえば、その通りだった。だが、ぼくとゆり江の古い関係を雪代は口にださなかったが覚えているようだった。

 ぼくの携帯電話は何日かして案の定だが鳴る。ぼくは安堵とともに慰めの言葉を探す。しかし、こころの平和はどこにもなかった。裕紀が亡くなったとき、ゆり江がなにを語ったかがまったく思い出せずにいたが、それでも、彼女がそばにいることがありがたかったことを記憶にとどめている。
「会ってくれる? 渡すものができた」
「もちろん。ぼくが今度はなぐさめる番だから」

 ぼくはゆり江を抱きしめる。その様子を予想している。その場の言葉は荷物でしかなく、ぼくらを遠去ける役目しか与えないであろうことを理解していた。だが、会うと彼女は大きな袋を渡した。
「なに?」
「子どもの部屋になるべきところに飾っておいたけど必要なくなった」ぼくは上からちらりとなかを覗く。ある絵。それはどこかの少女の肖像だが、不思議と裕紀に似ているものだった。「裕紀さんとあの子の死を結び付けて、彼があるのを嫌がった。正直な話」不幸を舞い込ませる絵画。そんなことは絶対にないはずだったが、でも、実際にはそれは起こりつつあった。違う。本当に起きてしまった。「裕紀さんは、意地でもひろし君のそばに居たいのかも、ね。こうして」
「母親もなくて淋しがってた。また、実家に飾るよ」

 負け惜しみのようなことを言ったぼくは疲れ、数歳年取ったような感じを抱いていた。だが、ぼくらはその絵画のことを忘れ(だが、なにかを片時でも、大切であったなにかをきれいに忘れることができるのだろうか?)ある場所で抱き合っていた。ぼくらは死と向き合い、儀式としてそれを済ませなければならないような感情になっていた。脅迫にでもあったように。

「また、誰かが死んで、ひろし君といっしょになってる」ゆり江はぼくの胸の上で泣いた。「大切ななにかをまた失った」
「ぼくは、君と抱き合うためになにかを犠牲にするのかな」もし、そうならば、次回が、このような機会が来るとすれば、それはもっと大きな供物をぼくに求めることだろう。その恐ろしさと見えざる巨大な力を感じ、ぼくはゆり江を抱いている暖かさを忘れ、身震いする。ただ、恐かった。こうして、ゆり江の変わらぬ若い身体を抱いていながらも恐かったのだ。なにかを押し退け、生きつづけることも恐かった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(6)

2012年06月04日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(6)

 妻は食事を済ませ、新聞とバッグをつかみ、ハイヒールを履いて家を出た。赤い唇。いつもの日常。由美も顔を洗い、用意された服に着替えている。

 時刻が9時半ぐらいになると、家のベルが鳴って、玄関が少しだけ開いた。ぼくはテーブルでコーヒーの残りを飲み、ぼんやりとしていた。頭のなかにただようマーガレットの残像を道連れにして。

「由美ちゃん、用意できた?」となりの家の久美子の声だ。
「いま、行く。待って」
 ぼくも同時に玄関に向かった。
「久美ちゃん、悪いね。せっかくの夏休みなのに」
「いいですよ。毎日、プールに行ってるし」

「あの久美ちゃんがね。家の前でビニールの簡易プールに浸かって遊んでいた久美ちゃんがね。おもちゃも入れて」ぼくと妻はその頃に結婚して、この家に移り住んだ。となりには女の子がいて、いまの由美と同じ年頃だった。
「やめてくださいよ。恥ずかしい」

「不潔な中年男性」靴を履きながら、由美がぼそっと言う。背中には小さなリュックがある。
「どうしたの? 由美ちゃん」
「昨日、ママがパパに言ってた。不潔な中年男性だって」
「そうなの」久美子は笑いをこらえながら言った。
「違うんだよ。小説に登場する女性主人公の名前をちらっともらしたら、それを誤解してね。妻が・・・」
「ぼっとん便所みたいな小説だけど」すると、靴を履き終えた由美が立ち上がりながら言う。
「え、なに、由美ちゃん?」
「ぼっとん便所みたいな小説」

「違うだろう、由美。ぼっとん便所がまだある時代を背景にした小説というんだよ、正確には。昭和のリアリズムただようね。苦悩する青年」
「由美ちゃん、ぼっとん便所なんて、知らないんでしょう? 本当は」
「知らない、何それ?」
「あとで説明してあげる」
 久美子は由美の背中のリュックを軽く押し、玄関を出た。
「今日は、自転車は?」
「危険だと思ったので、バスで」久美子は時計をちらりと見た。「いまから歩けば、まだ間に合うよ。さあ」彼女らは歩き出す。ぼくは前の通りまででて、彼女たち二人の背中を見送る。

「パパ、仕事頑張ってね!」と、由美が途中で振り返り、大声で言った。同時に手を振る。となりで久美子は小さく頷いた。ぼくもサンダル履きで手を振る。久美子の父の黒光りしているいつもの靴とは違う様相だった。

 マーガレットは時計を見る。そのアンティークの時計は時間が少し狂うことがあった。だが、いまのように誰もが慌ただしく生活している時代とは異なっていた。時計は3時半を指す。約1時間とちょっとだけこわばった姿勢を自分に強要していたことになる。
「どれぐらいの期間を目安に?」母のナンシーは紅茶を飲みながら画家のレナードに訊いた。
「大体、3週間ぐらいを目途に」
「それで2枚」
「2枚だと、もう少しかな」
「どちらかを譲っていただけるとおっしゃったのかしら?」
「気に入った方を」
 マーガレットはそのふたりの様子を静かに眺めていた。レナードは汚れた服装といい画家とは思えず肉体を駆使して労働している人間に見えた。土ぼこりのするような匂いが似合いそうだ。干草や夏の雲。突然、降り出す雷をつれてくる黒い雲。そう考えていると、マーガレットの耳にはふたりの声と会話が届かなくなっていた。

 そのまま、ぼくの指は動かなくなり、伸びた指先を見て、爪を切った。すると、昼になった。ぼくは馴染みのファミリー・レストランに向かった。
「先生、ひげぐらい剃ったら?」児玉さんがかいがいしく働きながら、動き回っている。そして、ぼくの注文を取りにきたときにそう言った。
「ビールでも飲もうかな」
「お仕事は?」
「朝にしてたけど、行き詰った」
「お嬢さんは?」
「となりの子がプールに連れて行ってくれたんだ。だから、今日は父親業から解放されている」
「あら、優しい。この期間にもっと、仕事、励まないといけませんね」でも、ぼくの仕事が一刻を争うものではないことを誰しもが知っているようだった。緊急病院に輸送される患者が待っているわけでもない。輸送というのは正しい表現か、言葉をひねくりまわした。正確には搬送だったのか? だが、どっちにしろ急ぎではない。それで、彼女はグラスに入ったビールを持ってきてくれた。夏の昼。セミの鳴き声。「明日、教室があるんでしょう?」

「そうだ、土曜日だ」
「課題を出していたとか?」ぼくは週に一度、近くのセンターで文章の授業を受け持っている。
「いや、3ヶ月も経ったから、自分の思いついたことを表現するようにと言っただけ」
「母は、メガネをかけて紙に向かっている。真剣にね」ぼくはその様子を思い浮かべる。文明を持つ人間どもの営み。共有の財産となる文字や絵画の集積。

 レナードは自宅に帰り、さきほどのキャンバスをまた取り出した。となりに同じものを置き、まっさらの片方にも同じ顔の輪郭をつくった。だが、仕事を急がせる気もなかった。レナードはあの部屋にいた心地良さを引き伸ばせる方法を考えていた。策略や長期的な展望など考えたこともないレナードだったが、それだけは思いついてしまった自分を許そうと考えていた。