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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(10)

2012年06月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(10)

 ケンはマーガレットの横顔を見る。教壇ではチャールズ・ディケンズのことが話されている。人物というものがいかに生み出され生命力が与えられ、それを謳歌したり悲嘆にくれたり、失意の生活を送ったり短い幸福の期間を楽しんだりすることが、ある人物の口を通して伝えられた。だが、ケンはマーガレットの横顔を見ていた。そのシルエットが彼に命を与え、求められていない切なさを覚えたりした。

 しかし、昼になり芝生に無造作に座りパンを齧っていると、横にマーガレットが来て同じようにすわった。
「良い天気ね」
 ケンは、マーガレットの顔を正面から見つめる。大人になりかける女性の最後の蕾が膨らむ様子がそこにあらわれているようだった。
 すると、電話がなる。家のエアコンが故障して修理を頼む電話を妻が昨夜かけていた。その返事で急に時間が空いたので電気屋さんがいまから見に来るということだった。取り敢えず、ケンの食事時間を上書き保存する。生命力が与えられようとしたばかりだった。

 作業着姿が似合う彼はエアコンのフタを開け、中を点検している。そして、背中越しに話しかける。
「ご主人さんは、お仕事お休みなんですか?」
 同じように点検する彼の背中を見ていた由美が返事をする。
「パパは、家で本を書いてるの。それが、仕事」
「へえ。うらやましいな。ひとにおべっかをつかったりしなくても良い境遇にいて」
「変わりに妻がおべっかをつかってるんで」
「昨日、電話してくれたひとですか。きれいな声だった」
「家では、普通だけど、電話だと声が高くなるの」と、由美が秘密をばらす。
「お嬢さんも大人になったら、そうなるんだよ」と、背中で彼は笑った。その鼻息のいきおいで、うっすらと溜まっていたほこりが散らばったようだった。

「ならないもん」
「そうか、ならないか。軽のなかに部品があるんで取ってきますね」
 彼は玄関を出る。直ぐに戻り、また脚立のうえに乗った。なにかを取り外し、ポケットに入れ、なにかを付け替え、またフタをしてリモコンを操作した。すると、いままでしていた嫌な摩擦音は消え、直に冷風がぼくらまで届き始めた。
「パパ、直った」
「こういう時には、なんて言うんだっけ?」
「ありがとう」
「そうだね。それで、請求は?」
「いいですよ、これっぽっちの作業には。それよりなにか新しい電化製品は必要じゃありません?」
 ぼくと妻の新婚生活の家財は、妻の両親がこの電気屋さんを通して与えてくれた。それから年月が経ち買い替えが必要なものもでてくるという算段なのだろう。
「パパ、暑くて寝れないから扇風機がほしい」と由美が言った。
「なに言ってんだよ。すぐ寝るじゃないか」

「じゃあ、カタログを置いていきますね。必要なものがあれば、直ぐに駆けつけますんで」
 と言って作業着姿の彼は去った。そのツケになった実際の支払いは妻に任せてしまおうと考えている。エアコンの恩恵を真っ先に受けたのはジョンで、床に腹ばいになりぐっすりと眠っている。娘もいっしょに寝転がり寝息をたてはじめた。そして、ぼくには自分の作業があった。それにはユニフォームもいらない。

「勉強で分からないことがあって、教えてもらえると助かるんだけど」と、マーガレットはケンに要望する。彼が断る理由はひとつもない。自分に自信があることで、それで好意をもっているひとと気持ちが通じるということは一石二鳥でもあった。ふたりは夜の図書館で会うことを約束して、また午後の講義に入った。

 ケンは夜の図書館で下調べをしている。その作業に夢中になり、没頭して待ち合わせのことを忘れかけた。そこにマーガレットはやってきた。昼間とは服装が変わっていて、いまはシックなイメージに映った。

 ふたりは小さな声で話し、勉強の知識を交換した。このひとりが学んだ知識の集合体は死とともに消え去るのだということをケンは考えている。紙かなにかに残さなければひとりの知識はその人体とともに灰になるのだということを実感としてではないが空想の産物として知る。だから、ケンはすすんでマーガレットに教えた。

 勉強も終わり、ふたりは外に出る。新鮮な空気がフィルターを通さなくてもあった時代。彼らはある店に入り、おしゃべりをした。はじめは勉強の続きを、そして、時間が経つうちにそれぞれの個人のことを話し合った。ケンはマーガレットの父の不在を埋めるほどの大人の力量は持ち合わせていなかった。そうした部分では、不思議とエドワードを思い浮かべることになったが、この会話のときはその話のおもしろさにより、現実以外のすべてを忘れた。目の前の現実以外のすべてを忘れることの喜びを体現している。

「あれ、エアコン直ったんだ!」
「あ、そうだ。直ぐにきて直してくれた」
「いくらだった?」妻は一日の疲労という荷物を椅子に置いた。
「そこはいったん引き上げ、代わりにカタログを置いていった」
「もう、やだな。ただっていちばん恐いんだよ」
「ママ、扇風機ほしい。暑くて寝れない」充分、寝たような顔の由美がお願いをする。
「パパに頼んで」
 目の前の現実はぼくにとっては、いささか窮屈なようでもあった。
コメント
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