壊れゆくブレイン(70)
ぼくは東京に出張に行き、仕事を片付けてビジネスホテルに一旦荷物を置いた。みな加齢という見えない足枷に縛られている。地球が回転するのをやめないように、ぼくらは目を覚まし、一日分の年輪を自分自身に加える。そこにだけは平等というものがあるらしかった。
ぼくは病院に向かう。裕紀がかつていた病院。そこに彼女の叔母が今度は入院していた。
「ごめんね、ひろしさん」彼女はすまなさそうに、それだけではない小さくなった身体でそこにいた。「ここに来るの、ほんとうはいやでしょう」
「はっきりいって、あまり好きではないですね」
「思い出すから?」
「思い出しますし、それにひとが病気になっていくことに対して無力でいることも、ほんとうにいやなんです」そして、死も。ぼくはゆり江の幼い子どものことも念頭に浮かべる。
「話は変わるけど、裕紀のお兄さんに会ったとか?」
「ああ、会いました。叔母さんがぼくらの味方になってくれたことも知りました」
「いまは、ぼくらじゃなくて、ひろしさんの味方」彼女は弱々しげにほほえむ。そこに若さというものが消えゆこうとしても、それは限りなく美しく尊いものだった。
「許さないとしても、ぼくらには誤解のようなものがほどけていく望みがあった」
「それで、あの子の写真を見た?」
「ああ、あれですね。確かに見ました」
「ゆうちゃんにそっくりだった」
「ええ、驚いています。ぼくは決して、裕紀の外見というか見かけだけを好きになったわけじゃないんですけど、あの子の写真を見たら、彼女のすべてが好きだったことを思い出しました」ぼくはそこで口をつぐむ。「また、それを取り戻せないことを知って悲しくもなります」
「わたしの心残りがひとつ減った。いや、違うのよ。ひろしさんがゆうちゃんを失ったことじゃなくて、無駄に恨まれることがなくなりつつある」
でも、本当にそうなのだろうかとぼくは考えている。ぼくは裕紀の兄に恨まれることによって、過去のある日、ぼくと裕紀はかけがえのない日々を過ごした証拠にもなり、それがもし解消されるとするならば、ぼくと裕紀の生活も逆に消滅してしまうような危険があった。それぐらい、ぼくにとってそれらの日々は大切なものだったのだろう。
「また、元気になって、外で会いましょう」
「あなたは関係なくなったわたしのことも見舞いに来てくれる優しいひと。ゆうちゃんの兄はきれいごとを並べるけど、滅多にこない」
「忙しいひとだから、足を運びにくいのでしょう」
「せっかく、東京で楽しい時間が持てるのに、こんなところに来させてしまって。次回は、償いをするから」
ぼくは、驚く。償いという言葉はぼくが裕紀を捨て去った時間を取り戻すために使うべき言葉だったのだ。それ以外には、そのような言葉に相応しい状況はないとも思っていた。
「償いなんて・・・」ぼくは病院を出る。あの日々。ぼくは裕紀を見舞い、そのままひとりで味気ない外食をして、ひとりの部屋で、ひとりのベッドで寝た。いまは違う。雪代がいた。広美は誰かと電話で長話をしている。その子と休日にスポーツ・バーで時間を過ごす。その無為な時間がぼくにとってはとてつもなく貴重なものに思えた。
ぼくは待ち合わせていた智美と会った。ぼくと彼女は幼馴染みであり、その関係も30年以上になる。
「今日は、なにしてたの?」
「もちろん仕事を終えて、裕紀の叔母を見舞いに病院へ行ってた」
「病気なの? というか、まだ、付き合いあるんだ」
「なぜだかね。ぼくと裕紀はなかなか裕紀の家族から認めてもらえなかったけど、彼女とおじさんは別だったから」
「ひろしはわざとそういう道を歩いてきたのかと思った」
「どうして?」
「学生のときに裕紀と別れ、雪代さんと付き合い、それで仲間から疎んじられ、今度は裕紀と結婚して、彼女の家族から冷たくされる」
「そうだね、そうされても仕方がなかったけど。どちらも、ぼくには必要なわけだったから、いまではね」今、振り返ってみればということだった。それぞれの状況をいまのぼくが知っており、それを過去に伝える方法があるならば、ぼくはどういう選択をするだろうかと思案してみた。だが、その無意味な考えは直ぐに頭から消えた。それは彼女のおしゃべりの力によるものだった。ぼくは彼女の声も何十年と聞いてきたのだ。それは若さという張りがいくらか減った声だった。それでも、馴染みがあることには変わりがなかった。
ぼくらは数杯のお酒を飲み、来られなかった夫の上田さんの噂話をした。ぼくは彼の職場の同僚の笠原さんの話もきく。その名前を最近は思い出すこともなかった。ぼくは裕紀を亡くしたときに、彼女と寝た。それは代用にするにはあまりにも甘美過ぎる体験だった。だが、彼女はもうぼくとの時間のことなど覚えていないだろう。ぼくが裕紀を思い出すような仕方では誰も痕跡に残す方法を知らないのだ。
それから、ぼくは自分のホテルに戻った。見なれた狭い部屋。そこで歯を磨き、鏡を見た。裕紀の叔母は償いをすると言った。それは未来のある日にふたたび会うという前提が条件となった約束であり、ぼくは自分の未来に対してそのような守るべき約束がどれほどあるのだろうかと思い浮かべてみた。しかし、酔った頭ではそれがいくつにもならないように思えてきた。そう考えていると横たわった身体は眠りを単純に欲しており、それに抗う気持ちなどぼくには到底なかった。
ぼくは東京に出張に行き、仕事を片付けてビジネスホテルに一旦荷物を置いた。みな加齢という見えない足枷に縛られている。地球が回転するのをやめないように、ぼくらは目を覚まし、一日分の年輪を自分自身に加える。そこにだけは平等というものがあるらしかった。
ぼくは病院に向かう。裕紀がかつていた病院。そこに彼女の叔母が今度は入院していた。
「ごめんね、ひろしさん」彼女はすまなさそうに、それだけではない小さくなった身体でそこにいた。「ここに来るの、ほんとうはいやでしょう」
「はっきりいって、あまり好きではないですね」
「思い出すから?」
「思い出しますし、それにひとが病気になっていくことに対して無力でいることも、ほんとうにいやなんです」そして、死も。ぼくはゆり江の幼い子どものことも念頭に浮かべる。
「話は変わるけど、裕紀のお兄さんに会ったとか?」
「ああ、会いました。叔母さんがぼくらの味方になってくれたことも知りました」
「いまは、ぼくらじゃなくて、ひろしさんの味方」彼女は弱々しげにほほえむ。そこに若さというものが消えゆこうとしても、それは限りなく美しく尊いものだった。
「許さないとしても、ぼくらには誤解のようなものがほどけていく望みがあった」
「それで、あの子の写真を見た?」
「ああ、あれですね。確かに見ました」
「ゆうちゃんにそっくりだった」
「ええ、驚いています。ぼくは決して、裕紀の外見というか見かけだけを好きになったわけじゃないんですけど、あの子の写真を見たら、彼女のすべてが好きだったことを思い出しました」ぼくはそこで口をつぐむ。「また、それを取り戻せないことを知って悲しくもなります」
「わたしの心残りがひとつ減った。いや、違うのよ。ひろしさんがゆうちゃんを失ったことじゃなくて、無駄に恨まれることがなくなりつつある」
でも、本当にそうなのだろうかとぼくは考えている。ぼくは裕紀の兄に恨まれることによって、過去のある日、ぼくと裕紀はかけがえのない日々を過ごした証拠にもなり、それがもし解消されるとするならば、ぼくと裕紀の生活も逆に消滅してしまうような危険があった。それぐらい、ぼくにとってそれらの日々は大切なものだったのだろう。
「また、元気になって、外で会いましょう」
「あなたは関係なくなったわたしのことも見舞いに来てくれる優しいひと。ゆうちゃんの兄はきれいごとを並べるけど、滅多にこない」
「忙しいひとだから、足を運びにくいのでしょう」
「せっかく、東京で楽しい時間が持てるのに、こんなところに来させてしまって。次回は、償いをするから」
ぼくは、驚く。償いという言葉はぼくが裕紀を捨て去った時間を取り戻すために使うべき言葉だったのだ。それ以外には、そのような言葉に相応しい状況はないとも思っていた。
「償いなんて・・・」ぼくは病院を出る。あの日々。ぼくは裕紀を見舞い、そのままひとりで味気ない外食をして、ひとりの部屋で、ひとりのベッドで寝た。いまは違う。雪代がいた。広美は誰かと電話で長話をしている。その子と休日にスポーツ・バーで時間を過ごす。その無為な時間がぼくにとってはとてつもなく貴重なものに思えた。
ぼくは待ち合わせていた智美と会った。ぼくと彼女は幼馴染みであり、その関係も30年以上になる。
「今日は、なにしてたの?」
「もちろん仕事を終えて、裕紀の叔母を見舞いに病院へ行ってた」
「病気なの? というか、まだ、付き合いあるんだ」
「なぜだかね。ぼくと裕紀はなかなか裕紀の家族から認めてもらえなかったけど、彼女とおじさんは別だったから」
「ひろしはわざとそういう道を歩いてきたのかと思った」
「どうして?」
「学生のときに裕紀と別れ、雪代さんと付き合い、それで仲間から疎んじられ、今度は裕紀と結婚して、彼女の家族から冷たくされる」
「そうだね、そうされても仕方がなかったけど。どちらも、ぼくには必要なわけだったから、いまではね」今、振り返ってみればということだった。それぞれの状況をいまのぼくが知っており、それを過去に伝える方法があるならば、ぼくはどういう選択をするだろうかと思案してみた。だが、その無意味な考えは直ぐに頭から消えた。それは彼女のおしゃべりの力によるものだった。ぼくは彼女の声も何十年と聞いてきたのだ。それは若さという張りがいくらか減った声だった。それでも、馴染みがあることには変わりがなかった。
ぼくらは数杯のお酒を飲み、来られなかった夫の上田さんの噂話をした。ぼくは彼の職場の同僚の笠原さんの話もきく。その名前を最近は思い出すこともなかった。ぼくは裕紀を亡くしたときに、彼女と寝た。それは代用にするにはあまりにも甘美過ぎる体験だった。だが、彼女はもうぼくとの時間のことなど覚えていないだろう。ぼくが裕紀を思い出すような仕方では誰も痕跡に残す方法を知らないのだ。
それから、ぼくは自分のホテルに戻った。見なれた狭い部屋。そこで歯を磨き、鏡を見た。裕紀の叔母は償いをすると言った。それは未来のある日にふたたび会うという前提が条件となった約束であり、ぼくは自分の未来に対してそのような守るべき約束がどれほどあるのだろうかと思い浮かべてみた。しかし、酔った頭ではそれがいくつにもならないように思えてきた。そう考えていると横たわった身体は眠りを単純に欲しており、それに抗う気持ちなどぼくには到底なかった。