爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(70)

2012年06月07日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(70)

 ぼくは東京に出張に行き、仕事を片付けてビジネスホテルに一旦荷物を置いた。みな加齢という見えない足枷に縛られている。地球が回転するのをやめないように、ぼくらは目を覚まし、一日分の年輪を自分自身に加える。そこにだけは平等というものがあるらしかった。

 ぼくは病院に向かう。裕紀がかつていた病院。そこに彼女の叔母が今度は入院していた。
「ごめんね、ひろしさん」彼女はすまなさそうに、それだけではない小さくなった身体でそこにいた。「ここに来るの、ほんとうはいやでしょう」
「はっきりいって、あまり好きではないですね」
「思い出すから?」
「思い出しますし、それにひとが病気になっていくことに対して無力でいることも、ほんとうにいやなんです」そして、死も。ぼくはゆり江の幼い子どものことも念頭に浮かべる。
「話は変わるけど、裕紀のお兄さんに会ったとか?」

「ああ、会いました。叔母さんがぼくらの味方になってくれたことも知りました」
「いまは、ぼくらじゃなくて、ひろしさんの味方」彼女は弱々しげにほほえむ。そこに若さというものが消えゆこうとしても、それは限りなく美しく尊いものだった。
「許さないとしても、ぼくらには誤解のようなものがほどけていく望みがあった」
「それで、あの子の写真を見た?」
「ああ、あれですね。確かに見ました」
「ゆうちゃんにそっくりだった」

「ええ、驚いています。ぼくは決して、裕紀の外見というか見かけだけを好きになったわけじゃないんですけど、あの子の写真を見たら、彼女のすべてが好きだったことを思い出しました」ぼくはそこで口をつぐむ。「また、それを取り戻せないことを知って悲しくもなります」

「わたしの心残りがひとつ減った。いや、違うのよ。ひろしさんがゆうちゃんを失ったことじゃなくて、無駄に恨まれることがなくなりつつある」
 でも、本当にそうなのだろうかとぼくは考えている。ぼくは裕紀の兄に恨まれることによって、過去のある日、ぼくと裕紀はかけがえのない日々を過ごした証拠にもなり、それがもし解消されるとするならば、ぼくと裕紀の生活も逆に消滅してしまうような危険があった。それぐらい、ぼくにとってそれらの日々は大切なものだったのだろう。
「また、元気になって、外で会いましょう」
「あなたは関係なくなったわたしのことも見舞いに来てくれる優しいひと。ゆうちゃんの兄はきれいごとを並べるけど、滅多にこない」

「忙しいひとだから、足を運びにくいのでしょう」
「せっかく、東京で楽しい時間が持てるのに、こんなところに来させてしまって。次回は、償いをするから」

 ぼくは、驚く。償いという言葉はぼくが裕紀を捨て去った時間を取り戻すために使うべき言葉だったのだ。それ以外には、そのような言葉に相応しい状況はないとも思っていた。

「償いなんて・・・」ぼくは病院を出る。あの日々。ぼくは裕紀を見舞い、そのままひとりで味気ない外食をして、ひとりの部屋で、ひとりのベッドで寝た。いまは違う。雪代がいた。広美は誰かと電話で長話をしている。その子と休日にスポーツ・バーで時間を過ごす。その無為な時間がぼくにとってはとてつもなく貴重なものに思えた。
 ぼくは待ち合わせていた智美と会った。ぼくと彼女は幼馴染みであり、その関係も30年以上になる。
「今日は、なにしてたの?」

「もちろん仕事を終えて、裕紀の叔母を見舞いに病院へ行ってた」
「病気なの? というか、まだ、付き合いあるんだ」
「なぜだかね。ぼくと裕紀はなかなか裕紀の家族から認めてもらえなかったけど、彼女とおじさんは別だったから」
「ひろしはわざとそういう道を歩いてきたのかと思った」
「どうして?」
「学生のときに裕紀と別れ、雪代さんと付き合い、それで仲間から疎んじられ、今度は裕紀と結婚して、彼女の家族から冷たくされる」

「そうだね、そうされても仕方がなかったけど。どちらも、ぼくには必要なわけだったから、いまではね」今、振り返ってみればということだった。それぞれの状況をいまのぼくが知っており、それを過去に伝える方法があるならば、ぼくはどういう選択をするだろうかと思案してみた。だが、その無意味な考えは直ぐに頭から消えた。それは彼女のおしゃべりの力によるものだった。ぼくは彼女の声も何十年と聞いてきたのだ。それは若さという張りがいくらか減った声だった。それでも、馴染みがあることには変わりがなかった。

 ぼくらは数杯のお酒を飲み、来られなかった夫の上田さんの噂話をした。ぼくは彼の職場の同僚の笠原さんの話もきく。その名前を最近は思い出すこともなかった。ぼくは裕紀を亡くしたときに、彼女と寝た。それは代用にするにはあまりにも甘美過ぎる体験だった。だが、彼女はもうぼくとの時間のことなど覚えていないだろう。ぼくが裕紀を思い出すような仕方では誰も痕跡に残す方法を知らないのだ。

 それから、ぼくは自分のホテルに戻った。見なれた狭い部屋。そこで歯を磨き、鏡を見た。裕紀の叔母は償いをすると言った。それは未来のある日にふたたび会うという前提が条件となった約束であり、ぼくは自分の未来に対してそのような守るべき約束がどれほどあるのだろうかと思い浮かべてみた。しかし、酔った頭ではそれがいくつにもならないように思えてきた。そう考えていると横たわった身体は眠りを単純に欲しており、それに抗う気持ちなどぼくには到底なかった。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(7)

2012年06月07日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(7)

 土曜日の朝。ぼくは娘と食事を摂っている。妻の昨夜は、自分の職場のチームの仲間と酒を飲み、ふらふらとした足取りで帰ってきた。玄関のカギを開けるのにもたつき、結局、ぼくが玄関まで行き、ドアを開けた。それで、今朝はまだ寝ていた。一週間の頑張りが背景にあり、誰もとがめられない。

 ぼくはひげを剃り、少し小ざっぱりとした服装をして、外出しようとしていた。起きてきた妻は、乱れた髪で玄関まできて送った。
「旦那がそとで働き、妻は家事」とだけ言った。

 ぼくは歩きながら、自分の仕事に手を加える。レナードは、豪快にアルコールを飲みながら、自分のいつもの仕事にかかろうとしているが、気持ちはマーガレットの肖像に傾きかけている。レナードは知らなかったが、マーガレットの母は、そのうちの一枚をエドワードに贈ろうと思っていた。亡くした夫の部下であり、有能な銀行員のエドワード。そのことはマーガレットも知らない。仕事で気が合ったため、エドワードは家にも遊びに来るようになっていた。まだ幼いうちはどちらも異性としては見なかったが、30歳と20歳になり、そういうことを前提として意識するようになった。なにより、マーガレットの母はそのことを望んでいた。銀行員の妻であった自分の喜びと安定をマーガレットにも体験してほしいと。

 避暑の前に、マーガレットは男性のふたりに交際を求められていた。ひとりはエドワードであり、もうひとりは大学がいっしょのケン。前者は結婚を望んでのことであり、後者は学生時代を彩るための交際相手として。まだ、どちらにも返事をしていなかった。その答えとしては夏が終わり、秋になる前に返事をすることになっていた。

「はい、きょうはここまで。発表してくれたひとたちお疲れ様です。また、来週もアーウィン・ショーの小説のなかに見られる都会性と隠れた泥臭い表現ということで議論しますので、本をお忘れなく」

 ぼくは、週に一度の地区のセンターでの先生役を終える。皆は椅子をずらす大きな音をさせながら帰っていった。でも、ひとり、児玉さんが残って近付いてきた。
「アーウィン・ショーとバーナード・ショーは兄弟ですか、という質問をしたひとがいましたね?」と児玉さんはささやく。
「まあ、ひとそれぞれですから」ぼくは苦笑する。
「これ、途中まで書いたんです。わたしの半生」
 ぼくはその束になったものを受け取り、パラパラとめくる。すると、文章が目に飛び込んできた。
「私は、その暑い日に、銀行員であった男性の妻になった。見合いの最中も式の間でさえもきちんと目を見ることはできなかった。そして、その最初の夜。夫はわたしの乳房の先端の敏感な部分を舌で触れた。これがわたしの望んでいたものだったのかと・・・」

「まるで、エロ小説じゃないですか?」
「わ、ひどい、川島先生」
「言い過ぎました」
「先生は自分に忠実であるべきだとおっしゃいました。感想よりも事実を書けと、最初に」
「その通りです」
「自信のない自分にかわって、箔をつけるためにわざわざロシアの文豪の言葉まで引用した。雨が降ったら、ただ雨が降ったと書くようにと」

「そうです。チェホフ」ぼくは都会のビルの上からアジサイのように咲いた下界の傘の群れを眺めている。雨は雲という吸収力のよいオムツさえも乗り越え、したたり落ちてきた。「無駄な美文がひとを遠ざける」
「だから、わたしもそうしました。天からの助けの言葉と思って」
「だけど、誰かが読むかもしれないじゃないですか?」
「誰が読みます? 先生の本だってあまり読まれていないのに」
「わ、ひどい、児玉さん」

 しかし、事実だった。事実はひとを無用に傷つける。ぼくは本屋に生徒のために本を注文した。アーウィン・ショーの短編集。それを30冊ほど頼み、代わりにほこりをかぶりつづける自分の2冊の本の行末を案じていた。
「3、400人?」
「もういいですよ、児玉さん、それぐらいで。帰って読ませてもらいます。コピーはきちんとありますか?」
「創作に悩んだ作家に盗作されないように日付も入れて」
「随分と、いやなことを言いますね」しかし、彼女は悪意もないようなケロッとした表情で帰っていった。

 まだ学生気分が抜け切らないエドワードはマーガレットとともに遊んでくれた。しかし、もう彼は無邪気な遊び相手ではない。仕事も責任ある地位へと進みだし、家庭というものを安らぎの場所として求めていくのだろう。

「お疲れ様、先生。どうだった?」
「無事に済んだけど、最後に嫌味を言われてね。これを書いたひとから」ぼくは無造作に紙の束を放り投げる。妻はそれを読み始める。
「このひと、何歳?」
「60の手前じゃない。か、ちょっと過ぎか」
「かなりきわどい内容ね」
「エロ小説」

「そこまで言わなくても。わたしも書いてみようかしら。女性のなかにはいつでも、聖なる部分と妖艶な女性が棲んでいる。その妖艶な部分を持て余して、わたしは夫に抱きついた。夫とのナイト・ゲームにて、彼は完投することができず、中継ぎやリリーフが必要なようだった。それで、寝てしまった夫の横でわたしはオウン・ゴールを決めた」
「やめてくれよ。最低だよ。下品」

「下品で、ガサツで不潔。あなたの三大嫌いなもの。わたしもそれに近付くのかしら。あなたはそれを避け、マーガレットという偶像を作り上げ、そこに逃げ込む」
「主人公だよ、生活の糧のための小説の」
「それだけで、わたしも娘もご飯を食べてるわけじゃないので、お忘れなく」彼女は笑う。
「いつか、なるよ」夏の午後の忘れ去られる決意。「由美は?」
「友だちのお誕生日とかでお招ばれした。その間にデー・ゲームでもする?」
「なんだか、下品だな」ぼくらは生きているために、さまざまな会話をして、それを実行し書き残す。雨が降ったら・・・
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