爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(11)

2012年06月21日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(11)

 マーガレットはトランクに入れて持ってきたものとは様相の違う服を避暑先で買った。いま、鏡に向かってそれに着替えている。派手な色合いがこちらで少し日焼けした肌に似合っていた。

 そして、その姿で部屋にあらわれ、レナードの前に立った。母の意向を知ってから気乗りのしない何日かを過ごしたが、この絵に描かれている自分というものが日常の一部になりつつあり、直ぐに憂鬱な気持ちを忘れてしまった。今年の夏の自分の姿はレナードの力によって刻印されるのだ、という甘い気持ちがあった。それはときめきにも似ていた。

「似合うじゃない!」と妻が叫びに近い声をあげた。「あなたも見てよ。こっちに来て」
 ぼくは移動する。リビングには娘と妻がいた。娘は小さな浴衣を小さな身体に着けていた。
「お、でかけるの?」
「夜店が出てて、久美子ちゃんが連れて行ってくれるって」と妻が状況を教えてくれた。「あ、来た」
「ちょっと、待ってて。カメラ持ってくるよ」
「早くして」と娘は父に対して命令口調で言った。妻のまさしく小型版だ。
「分かったよ」ぼくは急いで引き出しの中をまさぐりカメラを見つけた。それから玄関に向かい、家の門の前で由美の写真と由美と久美子のふたりの写真を撮った。彼女は照れた様子を見せるが、満更でもない様子でもあった。
「あとでプリントするからね」とぼくは自分のやるべき仕事を頭のなかにメモする。ほんとうにやるべきことはいま、中断されているのだが。「じゃあ、楽しんできてね」

 彼女たちは曲がり角で見えなくなった。その前に手を振った。浴衣の袖はなまめかしい様子を見せた。
「さてと、お茶でも飲む?」
「久美子ちゃんはいい子になったね」
「いやらしい目で見ないでよね。それより、そのカタログでも見ておいてよ」ぼくの前には電化製品のカタログがまだあった。彼女は職場のそばの旅行代理店でもらったカタログを見ている。懇意にしているお陰か裏の情報を仕入れたらしく、この夏休みの旅行の計画を練っている。ぼくは両親の家を思い出し、幼少時代には何にも感慨を与えてくれなかった果樹園の景色をいまは懐かしいものとして思い出していた。妻の両親はここからそう遠くないところに住んでいた。義理の父は孫を泊めることを要求として出し、妻はその代わりになにかを手に入れているようだった。だが、その関係にぼくは口を挟むことはできない。まともな仕事を放棄した時点で、彼らのぼくに対する扱いはぞんざいなものになった。

 レナードの半分の仕事は終わりに近づき、もう一枚に手をつけた。その合間に夏の夜の広場で開かれているコンサートにマーガレットを誘った。マーガレットは承諾し、いったん帰ったレナードが迎えに来るのを待っている。夏の夜の風は、昼のものとは入れ替わり、すがすがしいものになっていた。レナードの服装もいつもよりまとまっており、髭もきれいに剃られていた。マーガレットも髪に飾りをつけ、何回もその角度をあらゆる位置から点検した。

 夜の広場にバイオリンやチェロの音色が響き渡る。官能というものがあるならば、こうした夏の夜のしじまを埋め尽くす音楽のもつ恍惚感なのだろうとマーガレットは思っていた。ここにもし来年も再来年も来るとするならば、自分はいったい誰と来たいのだろうかと、無心に考えてみた。だが、それは誰だか分からなかった。ただ、この今年の快感をいつまでも覚えておこうと決意したのであった。

「わたしの夏休みに、3日間ぐらい旅行するのは大丈夫でしょう?」
「いいよ、気分転換にもなるし、由美の思い出も作ってあげないといけないから」
「白紙の絵日記じゃあ、さまにならないしね」妻はなにかをメモして計算機を叩いた。「ああ、爪も塗らないと。男っていいね、準備に時間がいらなくて」と言って、計算したものだろう数字をまたメモした。

 すると、玄関が開いた。「じゃあね、久美ちゃん。ありがとう」という由美の声が聞こえた。「楽しかったよ、パパ」
 部屋に入って来た彼女の手には小さな袋があった。そこには赤い金魚が窮屈そうに泳いでいた。
「あれ、どうしたの?」妻が尋ねる。いままさに同じような色のものを爪に塗っていたところだった。
「金魚もらった。パパ、なにか入れ物みつけてよ。ジョンがじっと見てるから」愛犬は不可思議な生き物を目の当たりにして、興味深そうな視線を向けていた。これが原因となり、自分の安泰なる地位を失う危うげな予感を抱いていたのだろうか。

 ぼくは倉庫を開けて手頃な入れ物を探した。何年か前に亀を飼っていた水槽がそこにあって、空の中身に水を入れた。金魚はいくらか広々とした世界を手に入れ安堵したようだった。だが、本当のところは誰にも分からない。金魚の気持ち?
「由美がとったの?」
「違う。久美ちゃんが男の子と話し出して、その子がとつぜん金魚すくいをして、久美ちゃんにあげた。だけど、それも必要ないってことで、由美にくれた」
「男の子?」ぼくはそれがどの年代を指しているのか関心をもった。
「高校がいっしょだと思うよ。部活の話もしていたから」
「それで?」
「公園のベンチに座って楽しそうに話していた」
「由美は?」
「たっくんがいたから、たっくんと話していた」
「青春ね」と妻が無くしたピアスでも見つけたように懐かしいような、また酸っぱいものでも口に含んだような表情でそう言った。
「青春だよ」と由美も真似してそう言った。

壊れゆくブレイン(73)

2012年06月21日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(73)

「高井君の友だちは、2回目の結婚をするんだね」
「そうみたい。明日、わたしも行く」彼女はそれに着ていく服装の話をした。ぼくはなんとなくその姿を想像して、あらかじめ見たような気になっていた。黒いドレスの彼女。「2回目ってどんな感じ?」
「まじめな話をすれば、離婚してまだどこかにそのひとがいるのと、ぼくはちょっと違うような気がしている」
「そうなんだ。どういう風に?」
「例えば、あるひとのどこかが、多分、自分の価値観とかか微妙にずれてきて、耐えられないほど嫌気がさしてきて別れるんだろう、普通は」ぼくは溜息にも似たようなものを出す。「いっしょに暮らすのに疲れて」
「まあ、そうでしょうね」
「ぼくはそういうことがまったくなかった。ただ、取り上げられた」
「それも、突然」

「それゆえに引き摺る可能性が大きく、実際に引き摺っている」
「未練がましく」
「そう、未練がましく」
「でも、いまのひとも素敵なひとだって、みんな言ってる」
「それは、もちろんその通り」ぼくはそのふたりを自分の人生で手に入れたかったものだといまでは理解していた。そして、部分的には勝利し、その相手を受け入れている時間は、もちろんのこと片方とは他人であった。
「そのひとの娘と、休みにはここに来ている。似てる? ふたりは」

「似てる部分もあるし、やっぱり別な人間だよ。本当のお父さんも魅力的なひとだったし、運動することに秀でたひとだった。高井君の先輩でもあるから。彼のその才能も確かに広美は受け継いでいるよ」
「じゃあ、スポーツできるんだ」
「バスケットをしている」
「背も高い?」
「高いよ」
「でも、いっしょにいれば周りは本当の親子だと普通は思うわけでしょう?」
「考えてもみないけど、普通はそうだろうね」
「嬉しい?」

 ぼくはその質問の意味が分からなかった。しかし、分からないままでそれを放置し、適当に相槌をうった。ぼくらの前のグラスは何度かかわり、それに揚げ物や軽いつまみも食べた。ぼくは自分の人生に何の責任もなかった時代のようにこの瞬間を楽しんでいた。帰るべき時間も決めず、連絡を待っているひとがいることなども考えたことがなかったように。でも、それも大分前のむかしのことだった。

「こっちはどう?」
「自然が満載。でも、駅の周辺の町並みもきれい。あそこに奥さんのお店もあるんでしょう?」
「あるよ」
「時間ができたら寄ってみようかな」
「売り上げに貢献して」
「わたしに似合うようなものもある?」
「あるよ。幅が広いから。40代から10代の後半の子たちもそこに買いに来る」
「じゃあ、お店のひとも若くいられるんだ」
「働いている子たちも徐々に入れ替わるからね」
「最初からその店を持ってたの?」
「違うよ。若いときに働いて、貯金して、こういう店を作ろうという計画をして、それを果たして、という計画を実行した結果」
「頑張ったんだ」

「頑張った」ぼくはそのプロセスを知っていた。そこに加わることはなかったが、ぼくはとなりでその雪代の頑張りを見てきた。その過去は意外と長いものになり、ぼくの年齢もあがってきたことの証拠となった。
 夕方も遅くなりはじめると、近くの席でもにぎやかな声が聞こえるようになった。店主の知り合いはサッカー仲間も多く、そのひとたちはぼくのことも知っていた。彼らは一様に大人になり、ひげが生え声も低くなった。嬌声をあげ、サッカーボールを追い掛け回していた少年たちもそれぞれの役割を担っているようだ。彼らは運動部の出身らしくぼくのそばまで挨拶にきた。その帰りに必ず、笠原さんの顔を見て帰った。「あれは、誰だろう?」という表情がそれらの顔に浮かんだ。

「あの子たちにもサッカーを?」
「何人かはね。ほんとうに小さな町だよ」
「礼儀正しい」
「笠原さんのことも見たいんだろう」
「わたし?」そして驚いたように彼女は振り返ると、何人かの若い子の視線を浴びた。「ほんと、そうみたいね。ひろしさんといっしょのひとは誰だろう、という顔してた」

 ぼくは背中にその視線を感じる。どう説明するのが妥当なのだろう、この関係性を。上田さんの会社のひと。若き彼女とよくお酒を飲んだ。ぼくは失恋直後の彼女にボーイフレンドを紹介してくれと頼まれ、高井君を見つける。ふたりは意気投合して結婚をする。ぼくはそれを喜んだ裕紀のことを覚えている。彼女は夏のデパートの屋上にいる。青い服。あの日々が永遠につづくと思っていたこと。だが、彼女はいなくなり、破れかぶれの自分は笠原さんの両腕のなかで暖まる。生きた人間の息遣いがどうしてもぼくには必要であり、それがぼくをこの世界に引きとどめる役目を負った。ぼくは利用したのかも知れず、そういう難しい関係を作ることは正しくなかったのかもしれない。すでにその前にひとりの死という問題に自分自身がからまっていた。でも、それ以上大きな難題もなかったわけだから、多少のトラブルの増加など自分にとって意味もなかったのだろう。100が101になるようなものだった。それだからといって笠原さんの腕の中の価値が無になるわけでもない。あれは、あれで甘美な状態でもあったのだ。裕紀の死とは、これは別問題なのであろうか。ぼくはそのふたつのことをいつもくっ付けて考えていたが、これからは分離させる手立ても必要だと考え始めていた。

「あのひと、誰って、うるさいんですよ、あいつら」と、お代わりをもってきた店長が言う。ぼくはその疑問への正しい答えをさっきから探そうとしている。