壊れゆくブレイン(72)
高井という男性がいた。彼はぼくがライバル視していた高校のラグビーチームに所属していた。雪代の前の夫の高校だ。ぼくは彼と笠原さんという女性を結びつける役目を担った。ぼくが介在していなくても彼らは出会う運命だったのだろうか? それも、もう分からない。
彼はむかしの友だちの結婚があるということで、帰省していた。そこに笠原さん(ぼくは、ずっとなぜだか前の苗字で呼んでいる)も同行することになっていた。
彼はぼくの職場にやってきた。彼は家具を扱う仕事をしていて、ぼくも東京にいるころはお世話になった。その東京での関係はいまでも続いており、この会社とは無縁ではないので来て当然だった。ぼくは何人かに紹介して、彼と奥でお茶を飲む。もちろん、ぼくと彼の今との結びつきは貧弱なもので、仕事の話も直ぐに底をついた。それで、もっと自分たちに深く印象を残したラグビーの話をした。
「そのひとりが結婚することになりまして」
「遅くない?」
「2回目です。で、2回目の祝儀」
「そんなに親しいんだ」
「あるヤツの娘がもう結婚しているのに、新婚もなにもないんですけど」彼は自分のことのように照れ臭そうに言った。
「そんな年だね」
「近藤さんはどうですか? 順調ですか」ぼくはその質問がなにを指しているのか直ぐに理解できなかった。それがぼくと雪代との関係を示していることを2回目という繋がりで思い出した。
「そうだ、君たちに正式に伝えてこなかったかもしれないね。あんなに親しかった笠原さんにも・・・」
「あいつも来てるんですよ。会ってもらえます?」ぼくらは当人がいないところで、勝手に予定を決めた。その日に高井君は別の用事で親とどこかに行く予定があって、暇にしても悪いと思い、以前に親しかったぼくと彼女を会わせることを考えたらしい。彼女が会うことに同意しているならばぼくが断る理由などなかった。あれから、数年が経っていたとしても。
「ひろしさん、今日は広美ちゃんとじゃないんですね。これまた、きれいなひとと・・・」待ち合わせの場所であるスポーツ・バーに入るといつもの店長がそう言った。
「広美ちゃんって?」と、笠原さんが訊く。
「娘だよ。義理の」
「いっしょに来るんだ。もうお酒が飲めるぐらい大きいの?」
「まだ、高校生。17才かな」
「付き合ってくれるんだ?」
「妻は仕事の関係で日曜も働いているから、暇だったり、大きなスポーツのイベントがあったりするとここで時間を潰す。彼女はお小遣いを減らす必要もないし、友人みたいな関係だよ」
「むかし、わたしの話も同じように聞いてくれたね」
「失恋して自信をなくした笠原さん。なつかしいな」
「はい、注文の品」店長はぼくらの前にグラスを置いた。「どういったご関係なんですか? ふたりは」
「東京時代の知り合い。上田さんの会社のひとだよ」
「社長の息子さんの?」
「そう。夫がこっちのひとだから」とぼくは説明する。すると納得したように彼は離れる。その情報はどこかにインプットされ彼の頭のなかで分類されていくのだろう。
「よく来てるんだ? とても、親しそう」
「子ども時代の彼にサッカーを教えていたから」
「そういうこともしてたんだ」
「ものになった子もいれば、ほかの才能を有している子もいる。淘汰されるって残酷なことだけど、自分の違う魅力を発見できたと思えば、なんでもないね」
「奥さんも魅力的なひとなんでしょう? 上田さんからもたまに聞く」
「ぼくらは離れられない運命だったんだろうね、大げさに言えば。いま、仕事のとき、子どもはどうしてるの?」
「預けてる、その間。もう大きくなったし、そう心配もいらない」
「君がお母さんだもんね」
「誰でもなるよ、時間が来れば」
「誰でもね」ぼくは言葉を発し、受け止めるたびに誰かを思い出す。彼女は決して母という存在にならなかった。それゆえに彼女は気高い印象をぼくに残し続け、手の平から零れ落ちた偶像として刻みつけられていた。
「ならないひともいたって、考えたでしょう」
「いたね。おかわりでも飲む?」笠原さんはうなずく。ぼくらは何年も会っていなかった。裕紀がなくなったあとに会って以来だったと思う。でも、その期間は直ぐに消え去り、ぼくらは以前の友人関係に戻っていた。
「娘さんは進学するの?」
「東京の大学に行きたいと思ってるようだけど・・・」
「じゃあ、そうなったら可愛がってあげる」
「そうしてもらえたら、嬉しいよ」
「悪い人につかまらないように監視してあげる」彼女は笑う。その笑顔はむかしのままだった。
「たまには悪いこともするでしょう、若いんだから」
「悪いことが、ずっと思い出として生き残ったりするからね」
「哲学的」ぼくは自分に起こったそのような状態を思い出している。悪いか悪くないかと決めつけたくもないが、どれも印象に残っているということは正しいようだった。雪代と付き合うために裕紀を手放し、ゆり江との黄昏的な関係のため雪代には黙っていた。そして、自分が死と向き合うことを放棄し、立ち直りたいという気持ちもあきらめるために複数の女性と関係をもった。そのなかに笠原さんとの一日も含まれていた。彼女は、それを意識した上での発言だったのだろうか。
「ひろしさんが、でも、新しい生活を見つけられて嬉しいな」
「自分も死にそうだったからね」
「生き残って、サッカーを教えていた子の店でお酒を飲んでいる」
「きれいな子と」
「客商売としてのお世辞」彼女は店長の働く後ろ姿を見た。
高井という男性がいた。彼はぼくがライバル視していた高校のラグビーチームに所属していた。雪代の前の夫の高校だ。ぼくは彼と笠原さんという女性を結びつける役目を担った。ぼくが介在していなくても彼らは出会う運命だったのだろうか? それも、もう分からない。
彼はむかしの友だちの結婚があるということで、帰省していた。そこに笠原さん(ぼくは、ずっとなぜだか前の苗字で呼んでいる)も同行することになっていた。
彼はぼくの職場にやってきた。彼は家具を扱う仕事をしていて、ぼくも東京にいるころはお世話になった。その東京での関係はいまでも続いており、この会社とは無縁ではないので来て当然だった。ぼくは何人かに紹介して、彼と奥でお茶を飲む。もちろん、ぼくと彼の今との結びつきは貧弱なもので、仕事の話も直ぐに底をついた。それで、もっと自分たちに深く印象を残したラグビーの話をした。
「そのひとりが結婚することになりまして」
「遅くない?」
「2回目です。で、2回目の祝儀」
「そんなに親しいんだ」
「あるヤツの娘がもう結婚しているのに、新婚もなにもないんですけど」彼は自分のことのように照れ臭そうに言った。
「そんな年だね」
「近藤さんはどうですか? 順調ですか」ぼくはその質問がなにを指しているのか直ぐに理解できなかった。それがぼくと雪代との関係を示していることを2回目という繋がりで思い出した。
「そうだ、君たちに正式に伝えてこなかったかもしれないね。あんなに親しかった笠原さんにも・・・」
「あいつも来てるんですよ。会ってもらえます?」ぼくらは当人がいないところで、勝手に予定を決めた。その日に高井君は別の用事で親とどこかに行く予定があって、暇にしても悪いと思い、以前に親しかったぼくと彼女を会わせることを考えたらしい。彼女が会うことに同意しているならばぼくが断る理由などなかった。あれから、数年が経っていたとしても。
「ひろしさん、今日は広美ちゃんとじゃないんですね。これまた、きれいなひとと・・・」待ち合わせの場所であるスポーツ・バーに入るといつもの店長がそう言った。
「広美ちゃんって?」と、笠原さんが訊く。
「娘だよ。義理の」
「いっしょに来るんだ。もうお酒が飲めるぐらい大きいの?」
「まだ、高校生。17才かな」
「付き合ってくれるんだ?」
「妻は仕事の関係で日曜も働いているから、暇だったり、大きなスポーツのイベントがあったりするとここで時間を潰す。彼女はお小遣いを減らす必要もないし、友人みたいな関係だよ」
「むかし、わたしの話も同じように聞いてくれたね」
「失恋して自信をなくした笠原さん。なつかしいな」
「はい、注文の品」店長はぼくらの前にグラスを置いた。「どういったご関係なんですか? ふたりは」
「東京時代の知り合い。上田さんの会社のひとだよ」
「社長の息子さんの?」
「そう。夫がこっちのひとだから」とぼくは説明する。すると納得したように彼は離れる。その情報はどこかにインプットされ彼の頭のなかで分類されていくのだろう。
「よく来てるんだ? とても、親しそう」
「子ども時代の彼にサッカーを教えていたから」
「そういうこともしてたんだ」
「ものになった子もいれば、ほかの才能を有している子もいる。淘汰されるって残酷なことだけど、自分の違う魅力を発見できたと思えば、なんでもないね」
「奥さんも魅力的なひとなんでしょう? 上田さんからもたまに聞く」
「ぼくらは離れられない運命だったんだろうね、大げさに言えば。いま、仕事のとき、子どもはどうしてるの?」
「預けてる、その間。もう大きくなったし、そう心配もいらない」
「君がお母さんだもんね」
「誰でもなるよ、時間が来れば」
「誰でもね」ぼくは言葉を発し、受け止めるたびに誰かを思い出す。彼女は決して母という存在にならなかった。それゆえに彼女は気高い印象をぼくに残し続け、手の平から零れ落ちた偶像として刻みつけられていた。
「ならないひともいたって、考えたでしょう」
「いたね。おかわりでも飲む?」笠原さんはうなずく。ぼくらは何年も会っていなかった。裕紀がなくなったあとに会って以来だったと思う。でも、その期間は直ぐに消え去り、ぼくらは以前の友人関係に戻っていた。
「娘さんは進学するの?」
「東京の大学に行きたいと思ってるようだけど・・・」
「じゃあ、そうなったら可愛がってあげる」
「そうしてもらえたら、嬉しいよ」
「悪い人につかまらないように監視してあげる」彼女は笑う。その笑顔はむかしのままだった。
「たまには悪いこともするでしょう、若いんだから」
「悪いことが、ずっと思い出として生き残ったりするからね」
「哲学的」ぼくは自分に起こったそのような状態を思い出している。悪いか悪くないかと決めつけたくもないが、どれも印象に残っているということは正しいようだった。雪代と付き合うために裕紀を手放し、ゆり江との黄昏的な関係のため雪代には黙っていた。そして、自分が死と向き合うことを放棄し、立ち直りたいという気持ちもあきらめるために複数の女性と関係をもった。そのなかに笠原さんとの一日も含まれていた。彼女は、それを意識した上での発言だったのだろうか。
「ひろしさんが、でも、新しい生活を見つけられて嬉しいな」
「自分も死にそうだったからね」
「生き残って、サッカーを教えていた子の店でお酒を飲んでいる」
「きれいな子と」
「客商売としてのお世辞」彼女は店長の働く後ろ姿を見た。