壊れゆくブレイン(74)
ぼくらはうるさくなり過ぎた店を去り、別の店に入った。それまでは横にすわっていた笠原さんだったが、正面に座ることになった。そのちょっとした差でぼくのもっている印象は変わる。過去に向き合うというより現在の彼女と過ごしているという実感が湧いた。しかし、話していることは随分と過去のことも多かった。その過去の縁をたぐり寄せ、未来の手前の現在に導いた。
「その子は、親の結婚に反対しなかったんだ?」
「むかしからぼくのことを知っているように振舞った」ぼくは口にすることによって新たな認識を勝ち取る。だが、それは新しいというより、そこにある壁を塗り直すというような頭の作業だった。「ぼくらは若い頃からの知り合いだったので、地元に戻って産まれたばかりのその子を抱っこした。子どもなんか持ったことないから、ぼくはその抱っこすら恐々とした」
「想像できる」
「もうその広美も大人になって家族で話していると、まだ意識もなかったようなその経験を娘は覚えていると言ったんだ」
「不思議ね。ありえない話」
「それで、ぼくはこうなる運命もあったのかと思った」
「そういう神秘的な話って、もっとずっと多くあるの?」
「ないよ、ただそれだけ。そういう話をすると娘がいちばん恐がる」
「そのときを覚えて置くように、その瞬間だけ大人の意識をもったのかしら」
「さあ、まったく分からない」
「それで反対もされず、障害もなく再婚を果たす」
「裕紀がいながらも、いつもぼくのこころの一部には雪代がいたのも正直なところだけどね」
「そういうことは第三者に言わない方がいいと思うけど」
「でも、言っちゃった」ぼくは、そうとう酔ってきたのかもしれなかった。ぼくはむかし、彼女の失恋話を聞く役目だった。それが長い時間が経ったいまでは、ぼくの再婚にいたる経緯を説明することになっていた。「高井君とは喧嘩とかしないの?」
「あまり、しないね。子どもに振り回される時間も多いから。そういう経験もないんでしょう?」
「もう広美は足手まといになるような年齢じゃなかったからね。おもちゃ買ってとか言われたこともないし・・・」
「もっと大きなものをいずれ要求されるかも」
それは留学ということだったり、結婚ということだったりするのかもしれない。そういう役目をする島本さんをぼくはちょっと想像する。だが、いくら酔いがぼくの想像力を増し加えるにせよ、彼はぼくにとってグラウンドで活躍するスター以上にはなってくれなかった。華をもって生まれてきた人物。その華を抱えたまま歴史に葬られ、忘れ去られていく人物に思えた。そうした生きる上での事務的な活動は、もっと地味な人間がするべきなのだ。例えば、ぼくのように。
「彼女はほんとうの父のお母さんを慕っていた。いまは亡くなってしまったけど、そのときに随分と泣いた」
「そうなんだ。可哀想ね」
「あの泣いている彼女をぼくは抱擁してね、そうするしか慰める方法を見つけられなかった。そのときにぼくらは本当の親子になった実感というかつながりを覚えたんだ。それで、彼女にとって、大切なものが失われたことによって、新たな関係が芽生えたんだと思うよ」
「上田さんのお父さんも亡くなった」
「ぼくは、大人になってからいちばん時間を共有してきた大人だよ。むかし風の考えを捨てられなかったひとだけど、新しいことも直ぐに吸収する勇気をもっていた。そうしないと会社が傾くわけだから当然だけど。ぼくは影響をたくさん受けた。あのひとと会って、そのひとの会社の一員になった訳だから、その恩恵はかなり大きい。いや、ぼくのすべてと言ってもいいかもしれないね」
「ほんとうの子どもみたい」
「確かにね。上田さんより、知ってる部分も多い。だけど、そういう親子みたいな濃さがない分だけ、気楽に接することができたのかもしれないよ」それはぼくと広美にも通じるのかもしれない。ぼくは、彼女がどこに行こうが、誰と添い遂げようが、ただちょっと離れた場所で応援するしか自分にはできないのだとも思っていた。もっと本気でぶつかるような、拳骨を浴びせるような関係は本物の親子にしか味わえないのかもしれない。では、本物の関係性というものはどういうものだろうとぼくは酔った頭で定義を作ろうとした。ぼくと笠原さんの関係は? それは本物なのか。ぼくは死んだ裕紀の代替を探していた。あの一夜は本物なのか? それを受け入れた笠原さんの気持ちは偽者であり、偽りとでも呼べるのだろうか?
「彼も嫉妬をしていた。ひろしはオレの親父と仲が良すぎるって。その反面、安心していた。自分のラグビーの後輩が自分が継ぐべき位置にいてくれることによって。ラグビーって、そんなに魅力のあるものなのかしらね。突然だけど」
ぼくは上田さんから譲り受けた楕円のものを大切に抱え込み走っている姿をイメージした。そのことを良く思わないでタックルをしに来る相手。それは島本さんのはずだった。だが、いまでは逆に彼もぼくのことを応援しているように思えた。妻と娘の未来を託す相手として。それは夕方のひとときが作り上げた美しすぎる幻想であることに間違いはなかった。
ぼくらはうるさくなり過ぎた店を去り、別の店に入った。それまでは横にすわっていた笠原さんだったが、正面に座ることになった。そのちょっとした差でぼくのもっている印象は変わる。過去に向き合うというより現在の彼女と過ごしているという実感が湧いた。しかし、話していることは随分と過去のことも多かった。その過去の縁をたぐり寄せ、未来の手前の現在に導いた。
「その子は、親の結婚に反対しなかったんだ?」
「むかしからぼくのことを知っているように振舞った」ぼくは口にすることによって新たな認識を勝ち取る。だが、それは新しいというより、そこにある壁を塗り直すというような頭の作業だった。「ぼくらは若い頃からの知り合いだったので、地元に戻って産まれたばかりのその子を抱っこした。子どもなんか持ったことないから、ぼくはその抱っこすら恐々とした」
「想像できる」
「もうその広美も大人になって家族で話していると、まだ意識もなかったようなその経験を娘は覚えていると言ったんだ」
「不思議ね。ありえない話」
「それで、ぼくはこうなる運命もあったのかと思った」
「そういう神秘的な話って、もっとずっと多くあるの?」
「ないよ、ただそれだけ。そういう話をすると娘がいちばん恐がる」
「そのときを覚えて置くように、その瞬間だけ大人の意識をもったのかしら」
「さあ、まったく分からない」
「それで反対もされず、障害もなく再婚を果たす」
「裕紀がいながらも、いつもぼくのこころの一部には雪代がいたのも正直なところだけどね」
「そういうことは第三者に言わない方がいいと思うけど」
「でも、言っちゃった」ぼくは、そうとう酔ってきたのかもしれなかった。ぼくはむかし、彼女の失恋話を聞く役目だった。それが長い時間が経ったいまでは、ぼくの再婚にいたる経緯を説明することになっていた。「高井君とは喧嘩とかしないの?」
「あまり、しないね。子どもに振り回される時間も多いから。そういう経験もないんでしょう?」
「もう広美は足手まといになるような年齢じゃなかったからね。おもちゃ買ってとか言われたこともないし・・・」
「もっと大きなものをいずれ要求されるかも」
それは留学ということだったり、結婚ということだったりするのかもしれない。そういう役目をする島本さんをぼくはちょっと想像する。だが、いくら酔いがぼくの想像力を増し加えるにせよ、彼はぼくにとってグラウンドで活躍するスター以上にはなってくれなかった。華をもって生まれてきた人物。その華を抱えたまま歴史に葬られ、忘れ去られていく人物に思えた。そうした生きる上での事務的な活動は、もっと地味な人間がするべきなのだ。例えば、ぼくのように。
「彼女はほんとうの父のお母さんを慕っていた。いまは亡くなってしまったけど、そのときに随分と泣いた」
「そうなんだ。可哀想ね」
「あの泣いている彼女をぼくは抱擁してね、そうするしか慰める方法を見つけられなかった。そのときにぼくらは本当の親子になった実感というかつながりを覚えたんだ。それで、彼女にとって、大切なものが失われたことによって、新たな関係が芽生えたんだと思うよ」
「上田さんのお父さんも亡くなった」
「ぼくは、大人になってからいちばん時間を共有してきた大人だよ。むかし風の考えを捨てられなかったひとだけど、新しいことも直ぐに吸収する勇気をもっていた。そうしないと会社が傾くわけだから当然だけど。ぼくは影響をたくさん受けた。あのひとと会って、そのひとの会社の一員になった訳だから、その恩恵はかなり大きい。いや、ぼくのすべてと言ってもいいかもしれないね」
「ほんとうの子どもみたい」
「確かにね。上田さんより、知ってる部分も多い。だけど、そういう親子みたいな濃さがない分だけ、気楽に接することができたのかもしれないよ」それはぼくと広美にも通じるのかもしれない。ぼくは、彼女がどこに行こうが、誰と添い遂げようが、ただちょっと離れた場所で応援するしか自分にはできないのだとも思っていた。もっと本気でぶつかるような、拳骨を浴びせるような関係は本物の親子にしか味わえないのかもしれない。では、本物の関係性というものはどういうものだろうとぼくは酔った頭で定義を作ろうとした。ぼくと笠原さんの関係は? それは本物なのか。ぼくは死んだ裕紀の代替を探していた。あの一夜は本物なのか? それを受け入れた笠原さんの気持ちは偽者であり、偽りとでも呼べるのだろうか?
「彼も嫉妬をしていた。ひろしはオレの親父と仲が良すぎるって。その反面、安心していた。自分のラグビーの後輩が自分が継ぐべき位置にいてくれることによって。ラグビーって、そんなに魅力のあるものなのかしらね。突然だけど」
ぼくは上田さんから譲り受けた楕円のものを大切に抱え込み走っている姿をイメージした。そのことを良く思わないでタックルをしに来る相手。それは島本さんのはずだった。だが、いまでは逆に彼もぼくのことを応援しているように思えた。妻と娘の未来を託す相手として。それは夕方のひとときが作り上げた美しすぎる幻想であることに間違いはなかった。