爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(74)

2012年06月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(74)

 ぼくらはうるさくなり過ぎた店を去り、別の店に入った。それまでは横にすわっていた笠原さんだったが、正面に座ることになった。そのちょっとした差でぼくのもっている印象は変わる。過去に向き合うというより現在の彼女と過ごしているという実感が湧いた。しかし、話していることは随分と過去のことも多かった。その過去の縁をたぐり寄せ、未来の手前の現在に導いた。

「その子は、親の結婚に反対しなかったんだ?」
「むかしからぼくのことを知っているように振舞った」ぼくは口にすることによって新たな認識を勝ち取る。だが、それは新しいというより、そこにある壁を塗り直すというような頭の作業だった。「ぼくらは若い頃からの知り合いだったので、地元に戻って産まれたばかりのその子を抱っこした。子どもなんか持ったことないから、ぼくはその抱っこすら恐々とした」

「想像できる」
「もうその広美も大人になって家族で話していると、まだ意識もなかったようなその経験を娘は覚えていると言ったんだ」
「不思議ね。ありえない話」
「それで、ぼくはこうなる運命もあったのかと思った」
「そういう神秘的な話って、もっとずっと多くあるの?」
「ないよ、ただそれだけ。そういう話をすると娘がいちばん恐がる」
「そのときを覚えて置くように、その瞬間だけ大人の意識をもったのかしら」
「さあ、まったく分からない」
「それで反対もされず、障害もなく再婚を果たす」

「裕紀がいながらも、いつもぼくのこころの一部には雪代がいたのも正直なところだけどね」
「そういうことは第三者に言わない方がいいと思うけど」
「でも、言っちゃった」ぼくは、そうとう酔ってきたのかもしれなかった。ぼくはむかし、彼女の失恋話を聞く役目だった。それが長い時間が経ったいまでは、ぼくの再婚にいたる経緯を説明することになっていた。「高井君とは喧嘩とかしないの?」
「あまり、しないね。子どもに振り回される時間も多いから。そういう経験もないんでしょう?」
「もう広美は足手まといになるような年齢じゃなかったからね。おもちゃ買ってとか言われたこともないし・・・」
「もっと大きなものをいずれ要求されるかも」

 それは留学ということだったり、結婚ということだったりするのかもしれない。そういう役目をする島本さんをぼくはちょっと想像する。だが、いくら酔いがぼくの想像力を増し加えるにせよ、彼はぼくにとってグラウンドで活躍するスター以上にはなってくれなかった。華をもって生まれてきた人物。その華を抱えたまま歴史に葬られ、忘れ去られていく人物に思えた。そうした生きる上での事務的な活動は、もっと地味な人間がするべきなのだ。例えば、ぼくのように。

「彼女はほんとうの父のお母さんを慕っていた。いまは亡くなってしまったけど、そのときに随分と泣いた」
「そうなんだ。可哀想ね」
「あの泣いている彼女をぼくは抱擁してね、そうするしか慰める方法を見つけられなかった。そのときにぼくらは本当の親子になった実感というかつながりを覚えたんだ。それで、彼女にとって、大切なものが失われたことによって、新たな関係が芽生えたんだと思うよ」
「上田さんのお父さんも亡くなった」

「ぼくは、大人になってからいちばん時間を共有してきた大人だよ。むかし風の考えを捨てられなかったひとだけど、新しいことも直ぐに吸収する勇気をもっていた。そうしないと会社が傾くわけだから当然だけど。ぼくは影響をたくさん受けた。あのひとと会って、そのひとの会社の一員になった訳だから、その恩恵はかなり大きい。いや、ぼくのすべてと言ってもいいかもしれないね」
「ほんとうの子どもみたい」

「確かにね。上田さんより、知ってる部分も多い。だけど、そういう親子みたいな濃さがない分だけ、気楽に接することができたのかもしれないよ」それはぼくと広美にも通じるのかもしれない。ぼくは、彼女がどこに行こうが、誰と添い遂げようが、ただちょっと離れた場所で応援するしか自分にはできないのだとも思っていた。もっと本気でぶつかるような、拳骨を浴びせるような関係は本物の親子にしか味わえないのかもしれない。では、本物の関係性というものはどういうものだろうとぼくは酔った頭で定義を作ろうとした。ぼくと笠原さんの関係は? それは本物なのか。ぼくは死んだ裕紀の代替を探していた。あの一夜は本物なのか? それを受け入れた笠原さんの気持ちは偽者であり、偽りとでも呼べるのだろうか?

「彼も嫉妬をしていた。ひろしはオレの親父と仲が良すぎるって。その反面、安心していた。自分のラグビーの後輩が自分が継ぐべき位置にいてくれることによって。ラグビーって、そんなに魅力のあるものなのかしらね。突然だけど」

 ぼくは上田さんから譲り受けた楕円のものを大切に抱え込み走っている姿をイメージした。そのことを良く思わないでタックルをしに来る相手。それは島本さんのはずだった。だが、いまでは逆に彼もぼくのことを応援しているように思えた。妻と娘の未来を託す相手として。それは夕方のひとときが作り上げた美しすぎる幻想であることに間違いはなかった。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(12)

2012年06月25日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(12)

 エドワードは幼くして事故で両親を失った。彼は、それでも勉強に励み、自分を節制して悲しみにくれることなく、大学を卒業して、ある銀行で勤めるまでになった。しかし、幼いときに味わった悲しみと喪失感は彼のこころに小さくもない空虚さを残していった。それをどのようなもので埋めるのか彼は知らなかった。また、それを完全に埋めつくことさえ出来ないことだと思っていた。彼は成長してまじめに働き、その仕事ぶりを認められる。その眼差しを差し伸べてくれた先輩はエドワードの孤独感を按じ、休みには家に招くようになった。その妻の手料理を舌が喜び、それよりも家族として、その一員としていることにエドワードは安息感をおぼえるのだった。

「あなた、今日は先生になる日よ」妻が奥から叫ぶ。
「あ、そうだ、忘れてた。土曜日だった」ぼくは急いで仕度をして、その教室に向かう。家族といる安息感はエドワードにとって別の孤独な気持ちを作った。職場のそばに借りているアパートの一室でエドワードはいままでただ過ぎ去っていった孤独な時間を取り戻すことができないことを知ったのだった。そして、今後はその虚しさを、ひとりだけで過ごすことになる時間を早く手放したかった。

 授業の最後は話すこともなくなり、ディスカッションをする時間に自然となった。皆がもつ疑問を提出し合い、それぞれが自分の意見を述べる。意見がなければ黙っていればいい。当然、ぼくは黙っていることが許されないが。妥協点を探し、また次回にでも話し合おうという約束を取り決める。でも、人間は一週間も前のことは忘れるようにできていた。
 ある生徒が手を上げる。

「開高健というひとの小説に、いろいろな物のまわりにある匂いを書きたい。匂いのなかに本質がある、とあります。そのなかで相手の別の人は、使命を書くとも言ってます。匂いは消えても使命は消えない。でも、使命は時間が立つと解釈が変わるが、匂いは変わらない、とも言ってます。どちらが正しいのでしょうか?」

 ぼくは、その言葉に悩む。いや、うっとりしているのだろう。若き野心ある青年は、手を上げる。反論があるらしい。
「オレなら使命を書くな。生き急ぐ使命。革命を起こす勇気。そういうものの方が美しいよ」
「匂いは美しくないとでも?」ぼくは、彼の若さと未熟さに嫉妬しているのだろうか?
「匂いというのは、大抵、美しくないものについての想像を浮かべませんか?」

「世の中は美しいものだけで、成り立っているとでも?」軽いジャブという言葉のやり取りも美しい。
「だから、美しくないものは排除したいんだよ」
「それは、退廃芸術として、あるひとりの人間がしたことと似ているね」ぼくは自分の知識にも酔う。

「わたしは、冷蔵庫の奥で腐らせてしまった食材を捨てるときに、なぜか、一度鼻のそばに持ってきて、匂いを嗅ぎます」と、児玉さんが自分の習慣を告げた。その身なりの上品さと語られた俗っぽいことでその場が中和される。それで、一同が笑い、ぼくと狭山という青年の対決は消えた。しかし、男子のなかにこそ嫉妬はあるのだ。ぼくは彼をみんなの前で言い負かすことを誓った。

 それでも、ぼくは大衆のなかにいる一週間のこの時間が好きになっていた。職場もないとぼくの世間は段々と小さく狭いものになっていった。刺激もなく、ただ10本の指が作り出す物語との格闘になっていたが、ここで発想を得られ、思想の違った方法からスポットを与えられる喜びを感じていたのだった。

 エドワードは自分の部屋にいた。上着を脱ぎハンガーにかけると先程までいた家のもつ匂いがした。その匂いには温か味があるようだった。いっしょに食べた夕飯の匂いがして、食後のコーヒーの香りまでその服が運んでくれたようだった。彼はその上着の胸元に鼻をくっ付けた。そこにマーガレットの匂いがないか点検しようとした。匂いはまるでなかったが、目を瞑るとマーガレットの頬の自然な赤みが浮かぶような気がした。彼女は勉強の分からないところをエドワードに訊いた。彼はその数式を口に出し、ノートに書き込み、説明した。彼はそのノートを見つめながら以前にひとりで勉強をしていた叔父の家での孤独感をなつかしく思い出していた。ぼくは早くここから出て、自分の世界を作りたいと願っていた。そこには妻がいて、やんちゃな男の子か、お人形を抱えてねむる女の子のどちらかがいるべきなのだ。

「どうだった、今日の先生役?」妻がクッキーをつまみながらお茶を飲んでいる。
「ぼくの若い頃って、生意気だったかね?」
「どうかしたの? 生意気には見えなかったけど、世間からずれていて大丈夫なのかと思ってたけどね」
「そう。本を書くということを、偉い高度なことだと思っているような若者がいてね。彼はまだ一語も世間に公表していないのに」
「じゃあ、恥もかかなくていいわけだ」
「まあ、そうだろうけど」身も蓋もない。

 エドワードは翌週の誘いを期待している。ぼくも来週のために、自分のバリケードを増やすように、言葉で武装しようとしていた。
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