壊れゆくブレイン(75)
「まだ、帰らなくていいの?」
笠原さんはその問いかけに応じて自分の腕時計を見る。
「なんだか、あっという間に時間が過ぎてる。久し振りに会ったのに、以前とそんなに様子が変わっていなくてよかった」
「容姿は変わったけど」
「つまんない。さっき、トイレに行っている間にメールした。帰りにここに迎えに来てくれるって返事があった」
「なら、大丈夫だ。この店、分かるかな」
「うん、知ってた。また、何年も会わなくなるんでしょうね、これから」
「これでも、東京に出張にたまには行くんだ」
「知ってる。智美さんとか上田さんにたまに会ってるとか。それ以外に、いつも会うひととかいるの?」
ぼくは少し思案して「裕紀のおばさん」と言った。口に出すとそのひとを思い出す。思い出すというからにはそれまで忘れていたという証拠でもあった。だが、まったく消えていたという訳でもない。ぼくと彼女の不思議なつながりがあった。それぞれ自分の大切なものを失ったという事実を介在にして、より一層緊密な関係になっていく。
「会うんだ。それで、なにを話すの?」
「近況とかだよ。彼女はこの前入院した。それも、裕紀が入院してた病院に」
「じゃあ、辛かったでしょう」
「乗り越えなければいけない思い出」しかし、ぼくはそこに寄って見舞っただけなのだ。裕紀の叔母は自分の可愛がっていた人物と同じ病院で寝ていた。どちらの方が辛いかは分からないが、ぼくよりも彼女の方が身に応えただろう。
「生きるって、それでも素敵なことだと思う?」
「もちろん。自分の人生の最後になったら、やはり、オレは生きつづけたいとか叫ぶと思うよ」裕紀は、どうだったのだろう? 看病をしているぼくに申し訳なさそうな態度をしていた。ぼくはもちろん回復すると思って、それにあたっていた。もし、回復しなくてもあの状態ですら続いてほしいと思っている。彼女はまだこの世界にとどまっているという安心感と幸福をぼくに与えてほしかった。しかし、苦しかったのも事実なのだろう。どれほどの痛みが彼女を襲い、それに無抵抗で挑むしかなかった彼女の弱っていく肉体。ぼくに喜びをくれた肉体が痛みに奪われていく。それは虚しいことだった。
「そういう結末がくると知ってても、彼女を選んだ?」
「ぼくらは会ってしまったから。一回、ぼくは無頓着に考えもなしに彼女との縁を切った。しかし、東京でなぜだか再会した。運命がそれを罰したとして、彼女を奪ってしまっても、ぼくは甘んじて受け入れるしかない。でも、もっと簡単な結末にも憧れるよ。童話の終わりのような。それ以来、彼らは寄り添ってふたりで幸せに暮らしましたとさ、という感じにね。君も高井君を選ぶんだろう?」
「多分。でも、いまだに前の彼氏のことを思い出したりもする。なぜ、わたしのことをふったんだろうとか、どこがわたしのいけない部分だったんだろうかとか。そういうことを考える」
「どこも、いけなくないよ」彼女は笑う。
「それは他人だからだよ。裕紀さんのいやな部分だって、当時はあったかもしれないでしょう?」
「多分、あったんだろうけど、それすらも思い出すきっかけの一部分に変化してしまったから、もう何とも言えない」
ぼくらはやはり友人として性が合っているのか、話しつくすことはなかった。ぼくは、東京にいて、彼女と仕事が終わったあとに会った楽しい日々をなつかしく回想している。ぼくらは笑い、ときには意見が喰い違って多少の口論めいたことはした。ふたりとも、それぞれパートナーがいて幸せで、ぼくから何かが奪われていくという大きな経験もまだしていなかった。そのままの時間が継続していたら、自分はいったいどういう性格になっていたのかと考えている。もっと優しかったのだろうか? 幸運であるということは自分にとって当然で、他人の痛みになど無頓着な横暴さを身につけるようになっていたのだろうか。しかし、いまここにいる自分は違かった。さまざまなものが手の平からこぼれ、それから、もっと前に結んでいた関係を手の平ですくった。義理の娘もできた。痛みはあったにせよ、それなりの、いやそれ以上の幸せにも恵まれてきたのだ。楽しい会話とお酒が、ぼくを前向きな気持ちに変えてくれていた。
笠原さんはふと口をつぐむ。ずっと気にかかっているようなことを思案している様子だった。ぼくも、それを忘れてはいない。アスファルトを敷き詰めた道が、以前は小石があり、大雨が降れば水たまりができた場所だったということを覚えているように。ぼくの土砂降りの日々。我を忘れ、お酒ですべてを紛らわそうとしていた夕暮れから夜。何人かの女性の肉体を自分の都合の良いように使った。ぼくは不幸で、悲しみの絶頂にいたのだから当然なのだという思い上がった傲慢さがあった。それに優しく同調するように彼女たちはいた。その悲しみをぼくから引き剥がすには、暖かな身体を提供するしか方法がないのだと無意識に感じていたようだった。
彼女は口を開く。いつか、この言葉を聞くのを待っていたようにぼくの耳はその言葉に馴染む。そして、奥でその言葉を排除するかのように耳鳴りがした。
「あの日のこと覚えてる?」
「まだ、帰らなくていいの?」
笠原さんはその問いかけに応じて自分の腕時計を見る。
「なんだか、あっという間に時間が過ぎてる。久し振りに会ったのに、以前とそんなに様子が変わっていなくてよかった」
「容姿は変わったけど」
「つまんない。さっき、トイレに行っている間にメールした。帰りにここに迎えに来てくれるって返事があった」
「なら、大丈夫だ。この店、分かるかな」
「うん、知ってた。また、何年も会わなくなるんでしょうね、これから」
「これでも、東京に出張にたまには行くんだ」
「知ってる。智美さんとか上田さんにたまに会ってるとか。それ以外に、いつも会うひととかいるの?」
ぼくは少し思案して「裕紀のおばさん」と言った。口に出すとそのひとを思い出す。思い出すというからにはそれまで忘れていたという証拠でもあった。だが、まったく消えていたという訳でもない。ぼくと彼女の不思議なつながりがあった。それぞれ自分の大切なものを失ったという事実を介在にして、より一層緊密な関係になっていく。
「会うんだ。それで、なにを話すの?」
「近況とかだよ。彼女はこの前入院した。それも、裕紀が入院してた病院に」
「じゃあ、辛かったでしょう」
「乗り越えなければいけない思い出」しかし、ぼくはそこに寄って見舞っただけなのだ。裕紀の叔母は自分の可愛がっていた人物と同じ病院で寝ていた。どちらの方が辛いかは分からないが、ぼくよりも彼女の方が身に応えただろう。
「生きるって、それでも素敵なことだと思う?」
「もちろん。自分の人生の最後になったら、やはり、オレは生きつづけたいとか叫ぶと思うよ」裕紀は、どうだったのだろう? 看病をしているぼくに申し訳なさそうな態度をしていた。ぼくはもちろん回復すると思って、それにあたっていた。もし、回復しなくてもあの状態ですら続いてほしいと思っている。彼女はまだこの世界にとどまっているという安心感と幸福をぼくに与えてほしかった。しかし、苦しかったのも事実なのだろう。どれほどの痛みが彼女を襲い、それに無抵抗で挑むしかなかった彼女の弱っていく肉体。ぼくに喜びをくれた肉体が痛みに奪われていく。それは虚しいことだった。
「そういう結末がくると知ってても、彼女を選んだ?」
「ぼくらは会ってしまったから。一回、ぼくは無頓着に考えもなしに彼女との縁を切った。しかし、東京でなぜだか再会した。運命がそれを罰したとして、彼女を奪ってしまっても、ぼくは甘んじて受け入れるしかない。でも、もっと簡単な結末にも憧れるよ。童話の終わりのような。それ以来、彼らは寄り添ってふたりで幸せに暮らしましたとさ、という感じにね。君も高井君を選ぶんだろう?」
「多分。でも、いまだに前の彼氏のことを思い出したりもする。なぜ、わたしのことをふったんだろうとか、どこがわたしのいけない部分だったんだろうかとか。そういうことを考える」
「どこも、いけなくないよ」彼女は笑う。
「それは他人だからだよ。裕紀さんのいやな部分だって、当時はあったかもしれないでしょう?」
「多分、あったんだろうけど、それすらも思い出すきっかけの一部分に変化してしまったから、もう何とも言えない」
ぼくらはやはり友人として性が合っているのか、話しつくすことはなかった。ぼくは、東京にいて、彼女と仕事が終わったあとに会った楽しい日々をなつかしく回想している。ぼくらは笑い、ときには意見が喰い違って多少の口論めいたことはした。ふたりとも、それぞれパートナーがいて幸せで、ぼくから何かが奪われていくという大きな経験もまだしていなかった。そのままの時間が継続していたら、自分はいったいどういう性格になっていたのかと考えている。もっと優しかったのだろうか? 幸運であるということは自分にとって当然で、他人の痛みになど無頓着な横暴さを身につけるようになっていたのだろうか。しかし、いまここにいる自分は違かった。さまざまなものが手の平からこぼれ、それから、もっと前に結んでいた関係を手の平ですくった。義理の娘もできた。痛みはあったにせよ、それなりの、いやそれ以上の幸せにも恵まれてきたのだ。楽しい会話とお酒が、ぼくを前向きな気持ちに変えてくれていた。
笠原さんはふと口をつぐむ。ずっと気にかかっているようなことを思案している様子だった。ぼくも、それを忘れてはいない。アスファルトを敷き詰めた道が、以前は小石があり、大雨が降れば水たまりができた場所だったということを覚えているように。ぼくの土砂降りの日々。我を忘れ、お酒ですべてを紛らわそうとしていた夕暮れから夜。何人かの女性の肉体を自分の都合の良いように使った。ぼくは不幸で、悲しみの絶頂にいたのだから当然なのだという思い上がった傲慢さがあった。それに優しく同調するように彼女たちはいた。その悲しみをぼくから引き剥がすには、暖かな身体を提供するしか方法がないのだと無意識に感じていたようだった。
彼女は口を開く。いつか、この言葉を聞くのを待っていたようにぼくの耳はその言葉に馴染む。そして、奥でその言葉を排除するかのように耳鳴りがした。
「あの日のこと覚えてる?」