爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(75)

2012年06月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(75)

「まだ、帰らなくていいの?」
 笠原さんはその問いかけに応じて自分の腕時計を見る。

「なんだか、あっという間に時間が過ぎてる。久し振りに会ったのに、以前とそんなに様子が変わっていなくてよかった」
「容姿は変わったけど」
「つまんない。さっき、トイレに行っている間にメールした。帰りにここに迎えに来てくれるって返事があった」
「なら、大丈夫だ。この店、分かるかな」
「うん、知ってた。また、何年も会わなくなるんでしょうね、これから」
「これでも、東京に出張にたまには行くんだ」
「知ってる。智美さんとか上田さんにたまに会ってるとか。それ以外に、いつも会うひととかいるの?」

 ぼくは少し思案して「裕紀のおばさん」と言った。口に出すとそのひとを思い出す。思い出すというからにはそれまで忘れていたという証拠でもあった。だが、まったく消えていたという訳でもない。ぼくと彼女の不思議なつながりがあった。それぞれ自分の大切なものを失ったという事実を介在にして、より一層緊密な関係になっていく。
「会うんだ。それで、なにを話すの?」
「近況とかだよ。彼女はこの前入院した。それも、裕紀が入院してた病院に」
「じゃあ、辛かったでしょう」

「乗り越えなければいけない思い出」しかし、ぼくはそこに寄って見舞っただけなのだ。裕紀の叔母は自分の可愛がっていた人物と同じ病院で寝ていた。どちらの方が辛いかは分からないが、ぼくよりも彼女の方が身に応えただろう。
「生きるって、それでも素敵なことだと思う?」

「もちろん。自分の人生の最後になったら、やはり、オレは生きつづけたいとか叫ぶと思うよ」裕紀は、どうだったのだろう? 看病をしているぼくに申し訳なさそうな態度をしていた。ぼくはもちろん回復すると思って、それにあたっていた。もし、回復しなくてもあの状態ですら続いてほしいと思っている。彼女はまだこの世界にとどまっているという安心感と幸福をぼくに与えてほしかった。しかし、苦しかったのも事実なのだろう。どれほどの痛みが彼女を襲い、それに無抵抗で挑むしかなかった彼女の弱っていく肉体。ぼくに喜びをくれた肉体が痛みに奪われていく。それは虚しいことだった。

「そういう結末がくると知ってても、彼女を選んだ?」
「ぼくらは会ってしまったから。一回、ぼくは無頓着に考えもなしに彼女との縁を切った。しかし、東京でなぜだか再会した。運命がそれを罰したとして、彼女を奪ってしまっても、ぼくは甘んじて受け入れるしかない。でも、もっと簡単な結末にも憧れるよ。童話の終わりのような。それ以来、彼らは寄り添ってふたりで幸せに暮らしましたとさ、という感じにね。君も高井君を選ぶんだろう?」

「多分。でも、いまだに前の彼氏のことを思い出したりもする。なぜ、わたしのことをふったんだろうとか、どこがわたしのいけない部分だったんだろうかとか。そういうことを考える」
「どこも、いけなくないよ」彼女は笑う。

「それは他人だからだよ。裕紀さんのいやな部分だって、当時はあったかもしれないでしょう?」
「多分、あったんだろうけど、それすらも思い出すきっかけの一部分に変化してしまったから、もう何とも言えない」

 ぼくらはやはり友人として性が合っているのか、話しつくすことはなかった。ぼくは、東京にいて、彼女と仕事が終わったあとに会った楽しい日々をなつかしく回想している。ぼくらは笑い、ときには意見が喰い違って多少の口論めいたことはした。ふたりとも、それぞれパートナーがいて幸せで、ぼくから何かが奪われていくという大きな経験もまだしていなかった。そのままの時間が継続していたら、自分はいったいどういう性格になっていたのかと考えている。もっと優しかったのだろうか? 幸運であるということは自分にとって当然で、他人の痛みになど無頓着な横暴さを身につけるようになっていたのだろうか。しかし、いまここにいる自分は違かった。さまざまなものが手の平からこぼれ、それから、もっと前に結んでいた関係を手の平ですくった。義理の娘もできた。痛みはあったにせよ、それなりの、いやそれ以上の幸せにも恵まれてきたのだ。楽しい会話とお酒が、ぼくを前向きな気持ちに変えてくれていた。

 笠原さんはふと口をつぐむ。ずっと気にかかっているようなことを思案している様子だった。ぼくも、それを忘れてはいない。アスファルトを敷き詰めた道が、以前は小石があり、大雨が降れば水たまりができた場所だったということを覚えているように。ぼくの土砂降りの日々。我を忘れ、お酒ですべてを紛らわそうとしていた夕暮れから夜。何人かの女性の肉体を自分の都合の良いように使った。ぼくは不幸で、悲しみの絶頂にいたのだから当然なのだという思い上がった傲慢さがあった。それに優しく同調するように彼女たちはいた。その悲しみをぼくから引き剥がすには、暖かな身体を提供するしか方法がないのだと無意識に感じていたようだった。

 彼女は口を開く。いつか、この言葉を聞くのを待っていたようにぼくの耳はその言葉に馴染む。そして、奥でその言葉を排除するかのように耳鳴りがした。
「あの日のこと覚えてる?」
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(13)

2012年06月28日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(13)

 マーガレットは大学での勉強が終わったあとに、ケンと近くの店で紅茶を飲んでいた。そこに仕事帰りのエドワードが新聞を抱え、通りかかる。その横のパブでその新聞を読みながら、下宿での夕食の前にビールを一杯だけ飲もうと思っていた。エドワードはふたりの姿を発見する。いつもの日常にひびが入る。そして、少しだけ動揺する。声もかけずに通り過ぎようとしたが、マーガレットも彼を見つけ、瞬時の判断で声をかけた。エドワードは持っている新聞を振り、颯爽ととなりのパブに入った。

 ぼくは日曜日に散歩をしている。「あなた、ついでにあの店でキムチを買ってきて」と妻に頼まれた。その用を済ます前に本屋で新刊を買い、ある店に入りコーヒーを飲みながら読んでいた。文章を書く人間のすべてを愛そうと思っている行動。そこにぼくの授業に参加していた狭山君が入って来た。彼の横にはガール・フレンドがいた。

「おっ、川島先生」
「あ、狭山君」
「先生なの?」と横の女性が興味がありそうに彼に訊いていた。このひとはいったい何を教えられるのかしら、という疑問が顔の表情に浮かんでいた。外見は、先生ではなさそうなのに。

「本を書いているんだ。センターで講義をしてくれている。オレも先生の本をやっと読んだ」何だかいやな予感がする。評価を求められる世の中。「まどろっこしい内容だった。結論を早く教えてほしいような」
「正直だね」

 彼は横にすわる。ぼくは本を閉じ相手をする羽目になる。その女性との楽しい時間が削られてしまうのに、ぼくと話すほうを選ぶのか。

「もっと売れるような、インパクトを与えるような、衝撃を起こすようなものを書けばいいのに」
「それは、君に任すよ。託す。ぼくと考えが違うみたいだから」
「どんな考えで?」
「君みたいな若い子たちには分からないだろうけど、売れなくてもいいんだ。お金儲けをしたかったら、ぼくはもっと別の職業を選んでいるから。株の情報を裏で操作したりね。君たちはすぐ先の未来しか時間がないと思っている」
「そうだよな」狭山君は横の女性に同意を求める。いま、彼女の魅力のとりこになる。明日は分からないという脅迫にも思えた。
「君はなにを読んでいるの? ぼくのクズのようなもの以外では・・・」
「ニーチェとか」
「哲学的だな」

「渇かないようにするためには、あらゆる盃から飲むことを学ぶ。純潔を保とうとするには、汚れた水に浸かることも恐れるな。みたいなことが書いてあった」
「衝撃を受けるんだ。それで」
「つまるところ、インパクトがあります。川島さんの書く上でのポリシーみたいなものは、あるんですか?」

 エドワードは新聞を開いている。しかし、いつものようにすんなりと言葉の羅列が脳に入ってこない。それで、ビールを少し飲んだ。液体といっしょに言葉も体内に運ばれていくような錯覚を望んで。しかし、となりでは何を話しているのだろう? それに、あれは誰なのだろう? という疑問がエドワードのこころにあった。

「ただ、書くということに捉われているだけだよ。幼いチャイコフスキー少年は、自分の母に自分の頭のなかに鳴り響いている音楽を停めてくれと懇願する。しかし、それは誰にも中断することはできない。大きくなって自分で楽譜に書き記す以外は」
「それが鳴り響いているんですか?」
「あることは、あるよ。世の中に衝撃を与えなくても。そんなのは地震に望めばいい」
「じゃあ、つまりは何を?」

 ぼくは用件を思い出していた。「こんな映像を想像してもらえるといい。韓国の山奥で毎年、白菜を大量に準備して、それを漬けてキムチを作らないことには来年を迎えられないという気持ちをもつ母。その習慣を捨てることは誰にも止められないと思うんだ」

「まあ、そうでしょうね」渋々、狭山君は納得する。
「そのように、ただ習慣的に仕事をしていきたいだけだよ」
「わたし、キムチ大好き」ガール・フレンドは頭のなかにその赤い食べ物を想像したように声を出した。それで、いい。
「じゃあ、これで」と言って狭山君と彼女は離れた席に移動した。ぼくもまた本を開き(世界中でいちばん大切なものは本のしおりなのだろうか?)つづきを読み出す。

 エドワードはビールを飲み干し、新聞をたたみ、外に出た。なんとなくポケットに手を突っ込み、その袋のなかで小銭をつかんだ。ここに有るもの。確かに手に触れて確認できるもの。それから、もと来た道を戻ろうとしながらとなりの店を覗くとマーガレットと若い男性はいなくなっていた。ぼくも本を閉じ、また目を上げると、狭山君たちはいなくなっていた。彼も彼女の前で張り切る必要があったのだろう。そんな彼を引き立てる役目を負った自分にすこしだけ疲れていた。

 忘れないように総菜屋に寄る。ぼくは、キムチを買う。店のひとは、ぼくと妻の関係を知っているのか知らないのか、ただ勧められたものを買った。なかなか見た目も美味しそうだった。

 ぼくは家に着き、それを妻に渡す。
「いつも買うの、こっちじゃないじゃん」と妻は不服そうであった。しかし、袋から取り出し、端を切って自分の口に入れた。「違うけど、こっちもおいしいか」と不服な顔をいくらか和らげた。
「こっちじゃないじゃん、まったく」と、娘の由美も妻の声音を真似していた。
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