夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(9)
ある朝、妻はバッグからレシートの束を取り出している。
「ごめん、これ、忘れてた。あとでコンビニとかでもいいから払っておいてくれる? これ」妻は長方形の紙と長方形のお札を渡す。ぼくは無言で受け取る。お小遣いをもらう中学生のように。「それにしても、税金高いな」妻は別の紙を眺めている。
「税金を払う側と、取り立てる側に二分される、とチェホフは言った」
「どうしたの? 今度の小説かなにか。それに保険料もこんなに。ひさしぶりに真剣に見ると」
「それで、どっかの洟垂れ小僧がインフルエンザの注射が打てるんだよ」
「いまどき、そんな子なんていないのよ。みな、きれいなブランドの服を着ている。年金もこんなにかかってるのね」
「ずっと、払って、支払いが開始される前日に死んでしまう」
「美学のこと? もったいないけど」
「国家に所属するってことは、そういうことなんだろう」
「ポーズはいいから、とにかく払っておいて」
「分かったよ。いってらっしゃい」ポーズをする生き物がいる、とボードレールは言った。別のひとだったかもしれない。妻は仕事ができる人間を装い家から出た。
マーガレットは、海岸線を歩いている。そこにポーズもなにもない無心な後ろ姿を発見する。あれは、レナードだった。ひともまばらな海の絵でも描いているのだろうか。躊躇しながらもマーガレットはそのそばまで歩いて行った。
「こういう絵も描くんですね?」
「ああ、びっくりした。ええ、夏の間だけの滞在だから、なるべく多くのものを掴み取りたいと思って」邪魔をするのも悪いと思い、マーガレットは少し後方に歩いて行った。自分が見ている景色がある一定の四角いものに切取られ、そこがキャンバスにうつされていった。それを決めるのはレナードでいながらも、またある種の別の力のようでもあった。
そこで、ぼくは仕事を切り取り、娘を公園に連れて行く。ジョンはブランコの端の鉄の柵につながれる。見知らぬ少年たちがその頭に触れる。暑いのかジョンの舌は伸びている。
「パパ、背中押して」娘がブランコにすわり要求した。ぼくは無心に背中を押す。こっちに戻ってくるとまた押す。そして、その力を必要としなくなった娘は反動で前後に揺れた。マーガレットもただ繰り返す波の行方を目で追っていた。
「優しいパパね、由美ちゃん」その様子を遠くで見ていたのか水沼さんが息子を連れて登場して言った。ぼくはベンチに移動して考え事をしていた。誰に頼まれたわけでもない創作の源泉を追い求めて。「川島さんは、なにか壮大な悩み事でも?」
「まあ、物語をひねくり回すのが仕事ですから」
「真理を追究する? そこにスポットライトを浴びせる」いつの間にか飽きたのか、横に由美もすわっていた。彼女は大人の話に耳を傾けるのが好きなのだ。
「パパの悩みはね、知りたいことの先頭に来るのはね、不二子という女の人がルパンという男の人を好きかどうかだけなんだよ。それに頭をつかってるの」
「そうなの。もっと難しいことを考えているのかと思ってた。由美ちゃん、ありがとう」水沼さんは快活に笑う。「わたしもあのぐらい、胸が大きかったら良かったんだけどね。あ、やだ、いま、見たでしょう? 川島さん」
「見てないですよ。いや、見たかな。誘導尋問ですからね。ぼくは、そんなに大きくなくてもいいと思いますけど」と、言い訳がましいことを言った。
「由美ちゃんのママは?」
「ママはテレビに出るおっぱいの大きい人を必ずバカと言ってる」と由美が付け足す。
「じゃあ、自分はちっちゃいの? そんな風には思えなかったけど」
「大きいほうです」ぼくは、あるがままの事実を言った。なぜ、こんな会話になってしまったのかその方向性が分からなかった。
「ルパンだって、不二子を本気で思っていない」水沼さんは新たな観点を見つけてくる。「刑事に追われることを喜びとして、女性を追いかけることも同じぐらいにしか考えていない」
マーガレットはふたりの男性から求められていた。それで、前にいるレナードがただ自由に見えた。窮屈さが微塵もないような感じで。決定を強いられるというのは不自由と同義語なのだろうか?
「そこで、コーヒーでも飲みますか?」いつの間にか荷物を片付けたのか、レナードが上からたずねた。そばに来るまでマーガレットは気付かず、ただぼんやりとスカートを拡げすわって考え事をしていた。
ふたりの前には湯気がたっているカップがふたつテーブルに置かれていた。マーガレットは口をつけるが、熱くて直ぐに唇を離した。
「あつい」
レナードは笑いながらも心配そうな顔を向ける。彼が描く唇。「なにか心配事でも?」
「どうして?」
「ひとりで海でぼんやりとしていたから」
「描いてもらった絵なんですけど・・・」マーガレットは少し言い難そうであった。「あれを母が別のひとに渡すと言ったから、わたしの意向も訊かずに」
「あの1枚は、もうぼくのものじゃなくなる予定だから、どうするか関係ないですけど、少し、気になりますね。男性に差し上げるとか?」
「聞いてました?」
「いや、大体、女性の絵は男性の部屋に飾られるものだと思って。一般論ですから」
ぼくは夕方だが、まだ机に向かっていた。そして、妻が帰ってくる。間もなく、食事の時間になり、妻は今日の一日のことを話し始め、娘も似たようにその日の一日のあらましを告げる。
「パパ、きょう、たっくんのママにゆうどうじんもんしてた」
「誘導尋問? どんなことを話してたの?」
「おっぱいのこと」ぼくはビールを吹き出す。泡のいくつかが鼻の頭についた。
「まったくね。ひとが汗水たらして働いているのに。パパはよそのママと楽しそうにしてるのね。ずるいね」母と子は同じような笑い方をした。ぼくは娘がそばにいて、そんないかがわしい話ができるはずもないことを懇々と説明した。しかし、言葉はむなしく、娘の笑顔だけがただ輝いていた。輝きこそが真理なのか?
ある朝、妻はバッグからレシートの束を取り出している。
「ごめん、これ、忘れてた。あとでコンビニとかでもいいから払っておいてくれる? これ」妻は長方形の紙と長方形のお札を渡す。ぼくは無言で受け取る。お小遣いをもらう中学生のように。「それにしても、税金高いな」妻は別の紙を眺めている。
「税金を払う側と、取り立てる側に二分される、とチェホフは言った」
「どうしたの? 今度の小説かなにか。それに保険料もこんなに。ひさしぶりに真剣に見ると」
「それで、どっかの洟垂れ小僧がインフルエンザの注射が打てるんだよ」
「いまどき、そんな子なんていないのよ。みな、きれいなブランドの服を着ている。年金もこんなにかかってるのね」
「ずっと、払って、支払いが開始される前日に死んでしまう」
「美学のこと? もったいないけど」
「国家に所属するってことは、そういうことなんだろう」
「ポーズはいいから、とにかく払っておいて」
「分かったよ。いってらっしゃい」ポーズをする生き物がいる、とボードレールは言った。別のひとだったかもしれない。妻は仕事ができる人間を装い家から出た。
マーガレットは、海岸線を歩いている。そこにポーズもなにもない無心な後ろ姿を発見する。あれは、レナードだった。ひともまばらな海の絵でも描いているのだろうか。躊躇しながらもマーガレットはそのそばまで歩いて行った。
「こういう絵も描くんですね?」
「ああ、びっくりした。ええ、夏の間だけの滞在だから、なるべく多くのものを掴み取りたいと思って」邪魔をするのも悪いと思い、マーガレットは少し後方に歩いて行った。自分が見ている景色がある一定の四角いものに切取られ、そこがキャンバスにうつされていった。それを決めるのはレナードでいながらも、またある種の別の力のようでもあった。
そこで、ぼくは仕事を切り取り、娘を公園に連れて行く。ジョンはブランコの端の鉄の柵につながれる。見知らぬ少年たちがその頭に触れる。暑いのかジョンの舌は伸びている。
「パパ、背中押して」娘がブランコにすわり要求した。ぼくは無心に背中を押す。こっちに戻ってくるとまた押す。そして、その力を必要としなくなった娘は反動で前後に揺れた。マーガレットもただ繰り返す波の行方を目で追っていた。
「優しいパパね、由美ちゃん」その様子を遠くで見ていたのか水沼さんが息子を連れて登場して言った。ぼくはベンチに移動して考え事をしていた。誰に頼まれたわけでもない創作の源泉を追い求めて。「川島さんは、なにか壮大な悩み事でも?」
「まあ、物語をひねくり回すのが仕事ですから」
「真理を追究する? そこにスポットライトを浴びせる」いつの間にか飽きたのか、横に由美もすわっていた。彼女は大人の話に耳を傾けるのが好きなのだ。
「パパの悩みはね、知りたいことの先頭に来るのはね、不二子という女の人がルパンという男の人を好きかどうかだけなんだよ。それに頭をつかってるの」
「そうなの。もっと難しいことを考えているのかと思ってた。由美ちゃん、ありがとう」水沼さんは快活に笑う。「わたしもあのぐらい、胸が大きかったら良かったんだけどね。あ、やだ、いま、見たでしょう? 川島さん」
「見てないですよ。いや、見たかな。誘導尋問ですからね。ぼくは、そんなに大きくなくてもいいと思いますけど」と、言い訳がましいことを言った。
「由美ちゃんのママは?」
「ママはテレビに出るおっぱいの大きい人を必ずバカと言ってる」と由美が付け足す。
「じゃあ、自分はちっちゃいの? そんな風には思えなかったけど」
「大きいほうです」ぼくは、あるがままの事実を言った。なぜ、こんな会話になってしまったのかその方向性が分からなかった。
「ルパンだって、不二子を本気で思っていない」水沼さんは新たな観点を見つけてくる。「刑事に追われることを喜びとして、女性を追いかけることも同じぐらいにしか考えていない」
マーガレットはふたりの男性から求められていた。それで、前にいるレナードがただ自由に見えた。窮屈さが微塵もないような感じで。決定を強いられるというのは不自由と同義語なのだろうか?
「そこで、コーヒーでも飲みますか?」いつの間にか荷物を片付けたのか、レナードが上からたずねた。そばに来るまでマーガレットは気付かず、ただぼんやりとスカートを拡げすわって考え事をしていた。
ふたりの前には湯気がたっているカップがふたつテーブルに置かれていた。マーガレットは口をつけるが、熱くて直ぐに唇を離した。
「あつい」
レナードは笑いながらも心配そうな顔を向ける。彼が描く唇。「なにか心配事でも?」
「どうして?」
「ひとりで海でぼんやりとしていたから」
「描いてもらった絵なんですけど・・・」マーガレットは少し言い難そうであった。「あれを母が別のひとに渡すと言ったから、わたしの意向も訊かずに」
「あの1枚は、もうぼくのものじゃなくなる予定だから、どうするか関係ないですけど、少し、気になりますね。男性に差し上げるとか?」
「聞いてました?」
「いや、大体、女性の絵は男性の部屋に飾られるものだと思って。一般論ですから」
ぼくは夕方だが、まだ机に向かっていた。そして、妻が帰ってくる。間もなく、食事の時間になり、妻は今日の一日のことを話し始め、娘も似たようにその日の一日のあらましを告げる。
「パパ、きょう、たっくんのママにゆうどうじんもんしてた」
「誘導尋問? どんなことを話してたの?」
「おっぱいのこと」ぼくはビールを吹き出す。泡のいくつかが鼻の頭についた。
「まったくね。ひとが汗水たらして働いているのに。パパはよそのママと楽しそうにしてるのね。ずるいね」母と子は同じような笑い方をした。ぼくは娘がそばにいて、そんないかがわしい話ができるはずもないことを懇々と説明した。しかし、言葉はむなしく、娘の笑顔だけがただ輝いていた。輝きこそが真理なのか?