壊れゆくブレイン(71)
耐えられないほどの生活の重みはぼくにはなかった。ただコンクリートの壁にひびが入っていくように、自分の体内の奥に疲労が蓄積されていった。それでいて大きな不満がある訳でもなかった。目覚めとともに喜びと快活な気持ちがあった若さは消え去りつつあり、日常の繰り返しを要求される大人な日々があった。つまりはそれが40代の半ばを迎えるということなのだろう。
自分が若いときに将来どういうような生活を望んでいたのかは思い出せないが、結果としては充分ぼくに恩恵を与えてくれているようだった。もちろん、大切なひとを何人も失ってきたし、望みどおりにいかないこともままあった。だが、家には雪代と娘もいた。自分自身の子どもを持つことはできなかったが、本質的にそれを望んでこなかったようにも思える。自分の分身を恐れていたのだろうか。しかし、本当のことはそれすらも分からないというのが事実だった。
まゆみが実家に帰省していた。ぼくは母になった彼女と子どもを見て、そういう感慨を深めたのかもしれない。ぼくが彼女を知ったのは、まだ大学生のころだったのだ。ぼくは大学で勉強をして、スポーツ・ショップでバイトをしてから、雪代と暮らしている家に帰った。まだ10代の後半だった。
「ひろしがさ、子どもは絶対産むべきだと言いつづけてくれたお陰で、オレは孫の面倒を見るという大切な役目を楽しむことができている」
店長はそう言い、いやがる孫を執拗にそばに寄せ付け、自分に訪れた役柄を楽しんでいるようだった。
「最初は、反対していたのに」と、まゆみが照れたように言った。
「父親というのは、娘の選択に反対するために存在しているようなもんだから」と店長は自分をそう正当化した。
「ひろし君も?」まゆみが尋ねる。
「ぼくは何も反対しない。ただ応援するだけ、陰ながらね」
「広美ちゃんは元気?」
「元気だよ。あとでうちに来なよ。おじいちゃんに世話は任せて」
「お前からおじいちゃんと言われたくないね。それにお前だって、いずれ遠からずそういう役目がくるんだから覚悟しておけよ」ぼくとまゆみは笑う。
ぼくはゆり江の両親のことを考えていた。彼らは突然、その役目を失った。ぼくは彼らの新築の家のことを考えていた。そこに若く華やいだ声があり、みなの笑い声がこだましてこそ家の歴史が作られていくのだ。だが、そこが大人たちの悲しみの集積の場になってしまう危険があった。それを許してしまうのか、払い除けることができるのかそれぞれの我慢が試された。ぼくは裕紀を失い、そのガランとした空虚な家を振り返っている。それはぼくのこころの中の象徴でもあった。それを払拭するべき、ぼくは無駄に酒を飲み、人生を破滅させようとしていた。それから、地元にもどり、雪代と会った。彼女はぼくのその甘かった時期を許そうとはしなかった。建て直しの期間が設けられ、そこには広美の無邪気さも役立ったのだろう。そして、あれから随分と時間が経ち、ぼくの体内には淀んだワインの底のオリのような疲労が残っていたのだ。
思い立ったことを直ぐに行動するようにまゆみはぼくの家に向かった。結局、子どもも連れて来た。
「お客さんを連れてきたよ」と、ぼくは快活に言う。
「誰? あ、まゆみちゃん」と雪代が言うと奥から駆けつけてくる広美の足音が聞こえた。「ちょっと、行儀良く歩きなさいよ。狭い家なんだから」そういうと雪代は荷物を預かるように子どもを抱いた。
「もう、重いでしょう?」
「そうね」
「ずるい。わたしも」と広美が言った。
それからまゆみたちも家で食事をすることになった。やはり、家には子どもの声があると華やぐようでいつもの家庭とは違った雰囲気があった。それは喜ばしい変化で、みなの顔が笑顔に向かおうとしていることが反応として理解できた。
ぼくらの普段は静かに本を読んだり、音楽を聴いたりする時間が自然とできていたが、その日だけはその日常が覆されても誰も文句を言わなかった。まゆみたちが喜びと快活さという軽やかな荷物を運んできたのだ。
「広美ちゃん、勉強は?」過去の教え子が気にかかるようでまゆみは質問する。
「してるよ。大学にも行きたいし」
「東京の?」
「多分ね」
「そうなんだ」雪代は驚いたふりをして聞いた。
「心配ですか?」まゆみは自分の質問が波風を立ててしまうことを心配したかのように言った。
「ぜんぜん。わたしたち、ふたりだけの新婚時代がまったくなかったので、それを今からやり直すので、ね?」
「気持ち悪いよ」広美がわざと憎まれ口を言った。
「だったら、広美ちゃんもっと勉強して、絶対に東京の大学に行かないと」
「だったら、そうする」ぼくらは自然と笑う。誰かが家庭にいることによって、ぼくらは普段口にしないような隙間の会話をそこで補填することができるようだった。ぼくらは薄々知っているようなことでも、会話として口に出し成立させる必要があるようだった。その役目をまゆみたちが補ってくれたのだろう。
すべてが終わり、ぼくはまたまゆみを家まで送る。彼女が広美の家庭教師をしてくれたときによくそうしたものだった。ぼくは小学生に通い始める前の彼女を知り、大学生だった彼女を知っていた。いまは母になり、順番として広美もその後を追うのだろう。ぼくの失った若さもそれで埋め合わせがつくのだろうと無心に考えていた。
耐えられないほどの生活の重みはぼくにはなかった。ただコンクリートの壁にひびが入っていくように、自分の体内の奥に疲労が蓄積されていった。それでいて大きな不満がある訳でもなかった。目覚めとともに喜びと快活な気持ちがあった若さは消え去りつつあり、日常の繰り返しを要求される大人な日々があった。つまりはそれが40代の半ばを迎えるということなのだろう。
自分が若いときに将来どういうような生活を望んでいたのかは思い出せないが、結果としては充分ぼくに恩恵を与えてくれているようだった。もちろん、大切なひとを何人も失ってきたし、望みどおりにいかないこともままあった。だが、家には雪代と娘もいた。自分自身の子どもを持つことはできなかったが、本質的にそれを望んでこなかったようにも思える。自分の分身を恐れていたのだろうか。しかし、本当のことはそれすらも分からないというのが事実だった。
まゆみが実家に帰省していた。ぼくは母になった彼女と子どもを見て、そういう感慨を深めたのかもしれない。ぼくが彼女を知ったのは、まだ大学生のころだったのだ。ぼくは大学で勉強をして、スポーツ・ショップでバイトをしてから、雪代と暮らしている家に帰った。まだ10代の後半だった。
「ひろしがさ、子どもは絶対産むべきだと言いつづけてくれたお陰で、オレは孫の面倒を見るという大切な役目を楽しむことができている」
店長はそう言い、いやがる孫を執拗にそばに寄せ付け、自分に訪れた役柄を楽しんでいるようだった。
「最初は、反対していたのに」と、まゆみが照れたように言った。
「父親というのは、娘の選択に反対するために存在しているようなもんだから」と店長は自分をそう正当化した。
「ひろし君も?」まゆみが尋ねる。
「ぼくは何も反対しない。ただ応援するだけ、陰ながらね」
「広美ちゃんは元気?」
「元気だよ。あとでうちに来なよ。おじいちゃんに世話は任せて」
「お前からおじいちゃんと言われたくないね。それにお前だって、いずれ遠からずそういう役目がくるんだから覚悟しておけよ」ぼくとまゆみは笑う。
ぼくはゆり江の両親のことを考えていた。彼らは突然、その役目を失った。ぼくは彼らの新築の家のことを考えていた。そこに若く華やいだ声があり、みなの笑い声がこだましてこそ家の歴史が作られていくのだ。だが、そこが大人たちの悲しみの集積の場になってしまう危険があった。それを許してしまうのか、払い除けることができるのかそれぞれの我慢が試された。ぼくは裕紀を失い、そのガランとした空虚な家を振り返っている。それはぼくのこころの中の象徴でもあった。それを払拭するべき、ぼくは無駄に酒を飲み、人生を破滅させようとしていた。それから、地元にもどり、雪代と会った。彼女はぼくのその甘かった時期を許そうとはしなかった。建て直しの期間が設けられ、そこには広美の無邪気さも役立ったのだろう。そして、あれから随分と時間が経ち、ぼくの体内には淀んだワインの底のオリのような疲労が残っていたのだ。
思い立ったことを直ぐに行動するようにまゆみはぼくの家に向かった。結局、子どもも連れて来た。
「お客さんを連れてきたよ」と、ぼくは快活に言う。
「誰? あ、まゆみちゃん」と雪代が言うと奥から駆けつけてくる広美の足音が聞こえた。「ちょっと、行儀良く歩きなさいよ。狭い家なんだから」そういうと雪代は荷物を預かるように子どもを抱いた。
「もう、重いでしょう?」
「そうね」
「ずるい。わたしも」と広美が言った。
それからまゆみたちも家で食事をすることになった。やはり、家には子どもの声があると華やぐようでいつもの家庭とは違った雰囲気があった。それは喜ばしい変化で、みなの顔が笑顔に向かおうとしていることが反応として理解できた。
ぼくらの普段は静かに本を読んだり、音楽を聴いたりする時間が自然とできていたが、その日だけはその日常が覆されても誰も文句を言わなかった。まゆみたちが喜びと快活さという軽やかな荷物を運んできたのだ。
「広美ちゃん、勉強は?」過去の教え子が気にかかるようでまゆみは質問する。
「してるよ。大学にも行きたいし」
「東京の?」
「多分ね」
「そうなんだ」雪代は驚いたふりをして聞いた。
「心配ですか?」まゆみは自分の質問が波風を立ててしまうことを心配したかのように言った。
「ぜんぜん。わたしたち、ふたりだけの新婚時代がまったくなかったので、それを今からやり直すので、ね?」
「気持ち悪いよ」広美がわざと憎まれ口を言った。
「だったら、広美ちゃんもっと勉強して、絶対に東京の大学に行かないと」
「だったら、そうする」ぼくらは自然と笑う。誰かが家庭にいることによって、ぼくらは普段口にしないような隙間の会話をそこで補填することができるようだった。ぼくらは薄々知っているようなことでも、会話として口に出し成立させる必要があるようだった。その役目をまゆみたちが補ってくれたのだろう。
すべてが終わり、ぼくはまたまゆみを家まで送る。彼女が広美の家庭教師をしてくれたときによくそうしたものだった。ぼくは小学生に通い始める前の彼女を知り、大学生だった彼女を知っていた。いまは母になり、順番として広美もその後を追うのだろう。ぼくの失った若さもそれで埋め合わせがつくのだろうと無心に考えていた。