爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(71)

2012年06月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(71)

 耐えられないほどの生活の重みはぼくにはなかった。ただコンクリートの壁にひびが入っていくように、自分の体内の奥に疲労が蓄積されていった。それでいて大きな不満がある訳でもなかった。目覚めとともに喜びと快活な気持ちがあった若さは消え去りつつあり、日常の繰り返しを要求される大人な日々があった。つまりはそれが40代の半ばを迎えるということなのだろう。

 自分が若いときに将来どういうような生活を望んでいたのかは思い出せないが、結果としては充分ぼくに恩恵を与えてくれているようだった。もちろん、大切なひとを何人も失ってきたし、望みどおりにいかないこともままあった。だが、家には雪代と娘もいた。自分自身の子どもを持つことはできなかったが、本質的にそれを望んでこなかったようにも思える。自分の分身を恐れていたのだろうか。しかし、本当のことはそれすらも分からないというのが事実だった。

 まゆみが実家に帰省していた。ぼくは母になった彼女と子どもを見て、そういう感慨を深めたのかもしれない。ぼくが彼女を知ったのは、まだ大学生のころだったのだ。ぼくは大学で勉強をして、スポーツ・ショップでバイトをしてから、雪代と暮らしている家に帰った。まだ10代の後半だった。

「ひろしがさ、子どもは絶対産むべきだと言いつづけてくれたお陰で、オレは孫の面倒を見るという大切な役目を楽しむことができている」
 店長はそう言い、いやがる孫を執拗にそばに寄せ付け、自分に訪れた役柄を楽しんでいるようだった。
「最初は、反対していたのに」と、まゆみが照れたように言った。
「父親というのは、娘の選択に反対するために存在しているようなもんだから」と店長は自分をそう正当化した。
「ひろし君も?」まゆみが尋ねる。
「ぼくは何も反対しない。ただ応援するだけ、陰ながらね」
「広美ちゃんは元気?」
「元気だよ。あとでうちに来なよ。おじいちゃんに世話は任せて」
「お前からおじいちゃんと言われたくないね。それにお前だって、いずれ遠からずそういう役目がくるんだから覚悟しておけよ」ぼくとまゆみは笑う。

 ぼくはゆり江の両親のことを考えていた。彼らは突然、その役目を失った。ぼくは彼らの新築の家のことを考えていた。そこに若く華やいだ声があり、みなの笑い声がこだましてこそ家の歴史が作られていくのだ。だが、そこが大人たちの悲しみの集積の場になってしまう危険があった。それを許してしまうのか、払い除けることができるのかそれぞれの我慢が試された。ぼくは裕紀を失い、そのガランとした空虚な家を振り返っている。それはぼくのこころの中の象徴でもあった。それを払拭するべき、ぼくは無駄に酒を飲み、人生を破滅させようとしていた。それから、地元にもどり、雪代と会った。彼女はぼくのその甘かった時期を許そうとはしなかった。建て直しの期間が設けられ、そこには広美の無邪気さも役立ったのだろう。そして、あれから随分と時間が経ち、ぼくの体内には淀んだワインの底のオリのような疲労が残っていたのだ。

 思い立ったことを直ぐに行動するようにまゆみはぼくの家に向かった。結局、子どもも連れて来た。
「お客さんを連れてきたよ」と、ぼくは快活に言う。
「誰? あ、まゆみちゃん」と雪代が言うと奥から駆けつけてくる広美の足音が聞こえた。「ちょっと、行儀良く歩きなさいよ。狭い家なんだから」そういうと雪代は荷物を預かるように子どもを抱いた。
「もう、重いでしょう?」
「そうね」
「ずるい。わたしも」と広美が言った。

 それからまゆみたちも家で食事をすることになった。やはり、家には子どもの声があると華やぐようでいつもの家庭とは違った雰囲気があった。それは喜ばしい変化で、みなの顔が笑顔に向かおうとしていることが反応として理解できた。

 ぼくらの普段は静かに本を読んだり、音楽を聴いたりする時間が自然とできていたが、その日だけはその日常が覆されても誰も文句を言わなかった。まゆみたちが喜びと快活さという軽やかな荷物を運んできたのだ。

「広美ちゃん、勉強は?」過去の教え子が気にかかるようでまゆみは質問する。
「してるよ。大学にも行きたいし」
「東京の?」
「多分ね」
「そうなんだ」雪代は驚いたふりをして聞いた。
「心配ですか?」まゆみは自分の質問が波風を立ててしまうことを心配したかのように言った。
「ぜんぜん。わたしたち、ふたりだけの新婚時代がまったくなかったので、それを今からやり直すので、ね?」
「気持ち悪いよ」広美がわざと憎まれ口を言った。
「だったら、広美ちゃんもっと勉強して、絶対に東京の大学に行かないと」

「だったら、そうする」ぼくらは自然と笑う。誰かが家庭にいることによって、ぼくらは普段口にしないような隙間の会話をそこで補填することができるようだった。ぼくらは薄々知っているようなことでも、会話として口に出し成立させる必要があるようだった。その役目をまゆみたちが補ってくれたのだろう。

 すべてが終わり、ぼくはまたまゆみを家まで送る。彼女が広美の家庭教師をしてくれたときによくそうしたものだった。ぼくは小学生に通い始める前の彼女を知り、大学生だった彼女を知っていた。いまは母になり、順番として広美もその後を追うのだろう。ぼくの失った若さもそれで埋め合わせがつくのだろうと無心に考えていた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(8)

2012年06月11日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(8)

 平日になり、また妻は会社に出掛ける。そこで日常の多くの時間を費やし成果をあげる。ぼくはキーボードに向かう。そこにはほこりがたまり、たまにコーヒーがこぼれ、被害を受ける。

 昼飯を自宅で娘とすませ、宿題もして、気分転換にいつものファミリーレストランにデザートを食べに行った。
「由美ちゃん、お昼ご飯には来てくれなかったんだ?」と、児玉さんの娘の方。
「ママが作ってくれた。それを食べた。美人で、料理も上手だから。これは、洗脳されてるんだけど」
「ンフフ」児玉さんが笑う。「洗脳なんて、言葉知ってるんだ。口が達者ね」児玉さんはこちらを見る。「ほんとはどうなんですか?」
「そ、その通り。美人で料理も上手だよ。きちんと育てられたしね。ぼくみたいなものに見つけられなければ、まあ、もっとね」
「楽で裕福?」
「そうだろうね」そうだったのか? 「洗脳って付け加えてね、と由美はママに言われてるんだよ、ね」
「そうなんだ。あ、ごめんね、由美ちゃん。ちょっと待っててね。急いでプリン持ってくるから」彼女はうなずく。

 マーガレットの絵は形あるものになっていく。肌は生まれ色つやを帯び、瞳はまだなかったが、睫毛がつくられつつあった。その日も終わると、マーガレットは凝った首周りを廻しながらひとりごとのようにささやく。
「絵ができたら、どうしよう?」
「エドワードさんに差し上げたら」マーガレットの母のナンシーは自分の思いを伝える。
「どうして?」
「だって・・・」
「まだ何も決まっていないのに」マーガレットは口をとがらせるようにして言う。それから腹を立てて家を飛び出した。でも、行くところもなかった。ただ、海岸線に通じる馴染みの道をひたすらに歩いた。

 家に残ったナンシーは、楽で裕福な生活が娘に与えられることを望んでいる。人生は苛酷な体験ばかりを経験する場所ではないのだ、という信念があった。それは書物を通して知りえるもので、直に触れるものではなかった。

「はい、由美ちゃん」
「ありがとう」と由美は言う。感謝の気持ちを差し控えないこと、と妻は絶えず教える。そのときはにっこりとすること。それで、娘を連れ歩くぼくの評判も良くなった。自分は仏頂面をしていたとしても。
「先生、母がなにか書いたものを持っていったとか?」
「うん。我が壮大なる半生を」
「それで?」
「それで? まだ、読んでいる途中だけど」
「なにか失礼なことを言った?」
「少しはね」
「母がちょっとだけ憤慨していた」
「まあ、書いたものを批判されればね。ぼくなんかそれをずっと繰り返しているわけだから、お母さんに言ってあげてよ、気にするなって」

 ナンシーは自分の娘の肖像を眺めている。それをついには賛嘆している。身なりのあまりよくなかったレナードだが一旦筆を握れば、そこには本物だけが持つ証拠を提出させることができた。だが、それだからといって彼を全面的に信頼していたわけではない。家に注文を取りに来る御用聞きとなんら扱いは変わらなかった。レナードはそれで不愉快になるようなこともなかった。自分の実力だけを信じて生きてきて、それに他人がどう評価を加えようが批判を入り込ませようが、そのこと自体に関心がなかった。ただ、自分の仕事を完遂させるだけの時間が欲しかっただけだ。

 ぼくは家に帰り、机に向かう。自分の仕事と思っていたが、つい興味をそそられ児玉さんの半生を読み始める。結婚後、彼女はなかなか子どもができなかった。(またもや、その行為のことが長々とつづられるが、ぼくは読み飛ばす権利も持っているのだ)夫の親にもそのことを遠回しに言われ、やっと娘をさずかった瞬間が書かれていた。喜びを隠しながらその日に夫に伝えると意に反して彼はそのことに無関心でいた。期待が大きすぎた児玉さんはショックを受け、食事も喉を通らない。しかし、産まれた子どもを見ると、彼の態度もいくらか変わる。男性は父親としての才能を先天的には与えられていないのだ、後天的に学ぶのだ、その為にわたしは彼の手助けをしようと書かれていた。

 その子どもは、大人になり由美にプリンを運んだ。「悪くないね」とぼくは独り言を言う。そのために自分の仕事がはかどらなくなったとしても。
「パパ、なんか言った?」
「いや、仕事のことだよ」

 マーガレットは防波堤の隅みに座る。灯台は強がって家を抜け出た彼女を隠れさせてくれるように大きくそびえていた。そこでは自分の未来のことを考えずに、過去の楽しかったできごとを振り返っている。ここには、何年も来ていた。まだ父親がいるころ、よくここら辺りをいっしょに散歩した。彼女の父はがっしりとした体格の持ち主でそれだけでも子どものマーガレットにとって頼りになった。その点で、ケンは華奢だった。細い手足を見せながら、トラックで長距離走をしている。彼はどこまでも走れるような無尽蔵のエネルギーが見かけとは違いあるようだった。彼はおしゃべりも得意で、マーガレットをしばしば笑わせた。そこは父とは違っていても、彼女は親しみを覚えるようになる。無口な頼りがいのあるひとも尊敬できるし、笑わせてくれるケンのようなひともいっしょにいると安心できるようになった。