爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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流求と覚醒の街角(45)破損

2013年09月01日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(45)破損

 世の中は示唆に富んでいる。

「乱暴に扱ったわけじゃないのに、CDが割れちゃった」と、奈美は悲しげな声を出している。
「そう、簡単に割れるの?」一度もそうした経験のない自分は、彼女の手からその現物を受け取り、実感した。「寒いからかな?」
「大事なのに、もう訊けない」

 ぼくはある情景を思い出している。車を目で追っている。

「わたしたち、この関係を大切にしようと思っていたのにね。なんとなく、淋しいな」と、前の女性は走り去る前にそう言った。ぼくは、もうなにも見えない道路を見つづけていた。呆然としているな、と自分自身のことは把握できている。ぼくは、乱暴にしようとも思わず、壊れるとすら思っていなかった。でも、あの関係は終わった。ぼくはあの車を見ることもなくなったが、世の中に一台だけの稀少な車でもないので、同じ型のものをたまに見かけた。それは簡単に彼女を連想させることになったが、もういまではあまり見かけなくなった。生産もされていないのだろう。だが、奈美の言葉で、また思い出すきっかけを与えられている。

「そう悲しい顔するなよ」
「してる?」
「してるよ、買ってあげるよ。もう一回」
「同じものを買うのも、なんだか釈然としないね。違うのがいいかも。やっぱり、これも聴きたいか・・・」

 奈美は割れたものをケースにしまったが、中心部から折れているので、グラグラして意味をなさなかった。しかし、ふたをしてゴミ箱に放った。そして、もう一度取り出し、なかのジャケットだけを引き抜いた。「これは、これで必要になるのかな」奈美は半笑いのような表情になった。

 ぼくは奈美のその表情を何度か見かけた。ぼくは奈美を知る前、女性の笑顔は笑顔だけで構成されていると思っていた。しかし、笑顔にも困惑の様子が加わったり、苦味のようなものも入ったり、笑いながらも悲しそうな眉になったりすることを知った。多分、前の女性もそうだったのかもしれないが、ぼくはそれほど注意深くもなかったのだろう。あれほどまでに大事にすると言いながら。やはり、どこかで注意不足や散漫さが紛れ込んでいたはずだ。失敗をしらない若さがそこには堂々とあるのだ。注意を怠ったこと。それと別れは直接には関係がないのかもしれないが、反省する人間は反省の要素を常に見つけたがるものだ。その反省の重みが増し加わることによって、どこかで安堵していた。つまりは、このぼくに責任があるのだというように。あの女性は一切わるくなかったのだ。

「でも、売ってなかったら?」
「そういう可能性もあるんだ」
「あるよ。だから、わたしのことを手放したら、もう、新しいものを買うのも難しいかもよ」
「そうだろうね」

 結局、中古屋さんに安く売ってあるのを見つけた。新品の値段で買えるまでとねだられたので、一枚のCDが結果として三枚になった。
「あの、ジャケットどうするの?」
「どうしよう。小さく切ってどこか壁にでも貼っておこうかな」
「再利用」
「リサイクル」

 そうやって、もう一度別のところで生きられるとしたら、その物品にとっても良かったのだろう。新しい場所は快適だ。ものがその状況を喜ぶわけでもない。ただ、人間だけが後悔をしたりするのかもしれない。流れ星はその判断を有していないだろう。未来があるだけだ。落下してしまえばそこで終わり。ぼくはある場所から、移動し、かつ落下した。這い上がり、奈美と出会う。そして、CDは割れた。
「ありがとう」

 奈美は大切そうに袋をゆすった。ぼくは良いことをしたような充実した気持ちを抱く。でも、なにもしていない。奈美のうれしそうな表情を見ることができたのに比べて。ぼくは、何度、この表情を勝ち取ることができるのだろう。反対の困惑する、または淋しさのこもった顔は見たくなかった。だが、ぼくと仮に別れてその顔にならないとしたら、それも憂鬱だった。でも、別れもしない。ぼくは何度もこの顔を今後も見ることになるのだ。いま、そう決めた。

「そこで、お茶でも飲もう。今度はわたしがおごるよ」

 目の前に奈美がいる。彼女はメニューを眺めている。どれにするか悩んでいる。その悩んだ顔にも歓喜や失望も数パーセント加わっているようだった。やっと、決めたという顔をしたときは眉があがった。その愛嬌のある動物のような顔もぼくはずっと見るのだ。

「どうしたの? わたしの眉、変?」
「ううん。もう、決まったの」
「これにする」奈美はメニューの文字を指でなぞる。
「決まったとき、眉が微妙にあがったよ」
「そうだ、癖なんだ。よくお母さんにも言われた」
「なんだ、指摘するの、ぼくがはじめてかと思っていたよ」
「何十年も生きているんだよ。癖とか、親にも似るもんだし」

 前の女性には、どのような癖があったのだろう。固有の表情にもいくつかの要素が混ざっていたのだろうか。彼女の母はそれを指摘したのだろうか。ぼくは忘れていることが多くなる。すると、店員が注文にきたので、頭の中は別のことで奪われた。

 奈美は注文を終えると、袋から買ったばかりのCDを取り出した。
「あれ、それだっけ? 違うの買ったんじゃない?」
「やだな、変なこと言わないでよ。これだよ、これ」彼女は指揮者のように指を胸の前で振った。

 違うものを買う。がっかりする。間違いが成功や喜びにつながることもある。世の中は示唆に富んでいる。ぼくは他の二枚のCDのケースをつかむ。なかにどんな音楽が眠っているのか知らなかった。再生する装置があり、スピーカーを通さないと再現できないもの。ぼくは、その機会が待ち遠しかった。未来に目を向ける。まだ鳴らない音楽。作曲者の頭のなかにだけある音楽。その作曲家もまだひらめいていないものもどこかにあるのだ。いったい、どこにあるのだろう? それは、探せない。失ったものも当然に無いし、未来もぼんやりとだがないのだ。この前にいるいくつかの感情を寄せ集めた表情をする女性だけが、現実なのだ。トレイに載せられた飲み物も同時に現実だ。ぼくは現実を手に入れる。口にすると、その現実は唇がひりひりするほど暑かった。奈美は笑った。その笑顔には心配もいくらか含まれていた。
コメント
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