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流求と覚醒の街角(46)灼熱

2013年09月07日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(46)灼熱

 太陽は暑かった。沈むという行為すら忘れているようだった。その熱が足元の砂を予想以上にあぶっていた。上にあるものだが、下から熱したフライパンのうえを歩いているような気持ちにさせた。

 奈美は小さな水着をきていた。試着した時点ではそれほど大胆だとは感じなかったようだが、太陽のもとにいると印象は変わるらしい。小さなデパートの囲われた試着室と砂浜では雰囲気も視線の数も違う。見るのは、鏡のなかの自分と店員さんぐらいかもしれない。ここでは、不特定多数だ。その代表が自分であり、それをもっとも知っているのも自分のはずであった。

 彼女は寝そべっている。ぼくは座り、水平線を見ている。オレンジ色の物体が遊泳範囲を知らせるために遠くで浮いている。もっと向こうにはそれほど大きくない船が通過している。丸という文字は見えるが、その前の固有の名前は分からない。丸というのも、船はそういう名前をつけるであろうという経験から読めたに過ぎないのかもしれない。ただの経験の集積。でも、この場ではすべてが新鮮だった。

 暑いときに、暑いところにいる。信じられないほど日焼けしている少女がいる。水着の際の色白の部分も見える。身体に模様をつける部族もいる。この身体はひとつであり、自分という存在も一個にすぎなかった。奈美もひとつであり、恥ずかしながら着ることのできる水着もひとつだった。

 期間限定のようにこの季節だけ働く歌い手の声が、スピーカーから聞こえる。ちょっと前は割れたような音で迷子の案内を流していた。どの地点から迷子になるのだろう。子どもは遊びに夢中になっている。まわりにも両親はいない。そのことに気付かない。彼や彼女は自分の意識の世界だけに閉じ込められており、そこで思いを解放している。ふと横をみる。いるべきはずの存在がない。探す。探しても見つからない。自分が見捨てられた、忘れられたと感じる。探してくれるひともいない。大人に確保される。案内が流される。

「あの迷子の放送、流れなくなったから会えたのかね?」と、うつ伏せ姿の奈美がくぐもった声で言った。
「それほど、広くもないから直ぐに会えるよ」
「大人って、迷子になる自由もないんだよね」
「なりたいの?」

「少しは・・・」奈美のアゴには砂粒がいくつかついていた。彼女はそれに気付きもしない。「だって、電話もあるし、困ったら最終的にタクシーに乗ればいいだけだから。大人って、つまらない生き物だよ。かくれんぼもできない」
「しようっか?」
「やだよ」
「ほんとは、こわいんだろう?」
「わたしがいなくなったら、淋しがるくせに」と奈美は言って、やっと気になったのか、アゴの砂をはらった。遠くで船の汽笛の音がする。

 空気の振動がぼくの耳まで音を運ぶ。人間も絶えず気圧を受けているのだろうが普段は感じもしない。水圧は水に入れば感じる。空を飛べば、耳だけがその警告を静かに発する。息をのむ。迷子にもなれない大人は、あらゆる対処の仕方を覚えてしまう。

「もう一回、日焼け止め塗ってくれない?」彼女は黄色のボトルを手渡す。ぼくはその液体を取り出す。そして、彼女の肩に摺りこむ。これも対処のひとつだろう。「鼻のあたまに塗れば?」

 ぼくは余分には出さずに、自分の手の平に残っている液体を指摘された箇所に塗る。この手の平がいちばん妬けないはずだ、と考える。

 太陽はやっと傾きかける。一日の終わり。奈美の二十代のなかの一日の終焉。ぼくが女性と過ごした機会の一日分だけの上積み。浮き輪の空気は抜かれ、各自のシートはたたまれていく。ぼくらもだらだらと仕度をして、借りている部屋に戻る。迷子にもなれない、とさっき奈美は言った。戻るべき方法は無限にあり、連絡をとることも難しくはない。それは、戻るべき場所が安全に確保されているからでもあり、電話なり、住所などの番号をきちんと知っているからなのだ。民宿の名前も知っており、借りている部屋の数字も知っていた。だが、予想以上に身体にダメージを与える太陽と紫外線の強さを甘く見ていたことに気付く。

 奈美はシャワーを浴びる。ぼくは冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、テレビをつけた。ぼくらが遊んで無為に過ごしている間に、高校生は甲子園という場所を聖地のように巡礼し、いまは大きな音が試合の優劣の結果を告げる宣告に変わっていた。一方は自分のアイデンティティーの歌を合唱し、もう片方は終わると砂を集めていた。ぼくは奈美のアゴに付着していた砂を思い出している。ぼくも記念としてあれを袋につめ、持ち帰るべきだったのかもしれない。だが、砂粒と縁を切った奈美が部屋に戻ってきた。

「たっぷりの化粧水」と、鼻歌のようにささやいた。「夜ご飯、どうする?」
「案内で、エビのロブスターとかあるみたいだよ」
「甲殻類」と奈美はその音を楽しむかのように口にした。「へんな言葉だよね。甲殻類」

「甲類、乙類」と、酒屋の商品を探すようにぼくは口にする。水着を脱ぐと、やはり境目が一日の証拠としてあった。来年の春までにはなくなっている。もう一度できるのか、それとも無縁であるのか、ぼくには決められない。来年の奈美はどのような水着を買うのだろうか。ぼくは同じ水着を着続けている気がした。しかし、そう大幅に男性のものなどモデル・チェンジをしないのだ。ぼくも、また甲殻類、とささやいた。頑丈な外見にデリケートな中味。奈美の日焼けした身体にデリケートな中味。反対かもしれない。デリケートな肌や髪に対して、意外と意固地で頑固な性格。どれもこれも灼熱で消えてしまうものと考えながら、水圧の弱いシャワーを浴びていた。
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