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流求と覚醒の街角(48)大掃除

2013年09月14日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(48)大掃除

「通勤につかってるカバンにこんなの入ってたよ」テーブルの上のイヤリングを奈美は指差している。
「へえ、奈美の?」
「まさか、自分のだったら、報告しないよ。誰の?」
「さあ。見当もつかない」
「そう」
「まさか、浮気と疑っているの? こんなの、状況があまりにも陳腐だよ・・・」
「じゃあ、いつから入ってたの? 答えて」
「男性がカバンの中身なんて点検しないよ。用があったら取り出して終わったら仕舞って。いらないものは捨てて。でも、いつからなんだろう?」

 ぼくは想像する。例えば、電車で。誰かの耳から落ちた飾り物がすとんとぼくのバッグに納まる。先日の飲み会のときに、社内の誰かの耳から外れる。端においた積もりのぼくのバッグにふとした拍子に紛れ込んでしまう。名前もない。誰の所有かも分からない。もちろん、浮気などする時間の余裕も気まぐれな気持ちもなかった。証明しづらいが。それにしても、誰かがなくなったとその場で騒いで、注目を浴びてもよさそうなものだった。コンタクト・レンズを落としたというひとも見かけなくなったけど。

「でも、なんで、また、ぼくのカバンの中身など見るんだよ」
「こうやって、論点をすりかえる」
「開ける必要もない」
「手紙を書いてこっそり忍ばせておこうと思って」
「その手紙は?」
「読ます気持ちもなくなっちゃった」
「だから、そんな後ろめたいことはしてないよ。考えが俗物すぎるよ。それに、あえてわざわざそんな細工をするやつもいないよ」
「分からないよ」

 自分にはアリバイを報告する義務もない。また、潔白を証明する手立てもない。このほんとうの気持ちをさらけ出すしか方法がないのだが、裁判という制度ではいかにも難しそうだった。ぼくはいくつかの映画を思い出していた。裁判というなかで勝利を達成した瞬間の歓喜の姿を。世界は信用を待っていた。疑念や懸念やずるさがすべて虚構で、正義だけがシンプルに、道を迷ったにせよ生き残るのだという確実なゴールを待ち望み。

「でも、これ、わたしのって訊いたよね? 趣味が違うとか思わない? そんなにわたしのこと興味ないんだ」
「それも、論点が変わってると思うけど」
「わたし、ピアスだよ、いつも」

「2つの違いなんて、それほど、ないよ。男性の下着の種類のほうがずっと分かりやすいよ」
「派閥」奈美の無表情に発したひとことにぼくはつい笑う。
「でも、ほんとだね、奈美のと違う。でも、そう考えれば、ぼくは同じ傾向のひとを好きになるはずだから、このちょっと浮ついた子どもっぽいイヤリングの子は敬遠するだろうね。陪審員がこの意見を信じてくれるならばだけど」
「嫌疑がかけられている。でも、被告、そもそも違うタイプを選ぶからこそ、浮気が成立すると思いませんか? 醤油味のラーメンのあとには、塩味を」
「何があっても、味噌で譲らないひともおりますよ、裁判長。このぼくみたいに」
「それは人生を楽しんでいないことになる」
「浮気を推奨しているみたいだね?」

「分かった。やっぱり、違うんだろうね。仕事も忙しくてそんな暇もなかったことはわたしが知っているよ。でも、どうやって、ここに入ったんだろうね。ミステリー」
「奈美だっていろいろなものをなくすだろう? 思いがけないところから出てきたりするじゃない」
「これが、なんで、この引き出しに? とか」
「そうそう」遅ればせながら平和は訪れる。「でも、ひとの身体に密着していたのに、なんかイヤリングって不快感がないもんだよね」
「なんで、こんなの耳につけるんだろう。誰が最初にしたんだろう」

 ぼくらはその存在を忘れて部屋で映画をみはじめた。だが、ずっとテーブルの上にはそれがあった。片方では役にたたないものだから、なくした本人は困っているかもしれない。しかし、それほど高価なものではなさそうなので、少しの間は不機嫌になったかもしれないが、直ぐに忘れてしまうような類いのものかもしれない。

 ぼくは奈美がしているピアスのひとつも思い出せないことに気付く。前の女性のも同様だった。彼女の細い首は覚えているが、耳になにがあったのか、首にはどのような飾りがあったのかも、まったく記憶にのこっていなかった。

 映画は終わる。ぼくは奈美が渡しそびれた手紙の内容を想像する。そこには何が書いてあったのか? 何かの予定。感謝のことば。ふたりがした計画のうちのどれかをぼくが実行していなくて、彼女は思い出させる必要があったのかもしれない。いつか、タイミングが合ったときに聞き出すしかない。でも、そのことすらまた忘れてしまうのかもしれないが。

「ご飯、作るね」奈美はそう言って台所に立った。ぼくは、部屋に紛れ込んでしまったてんとう虫でも見るように、相変わらず机の上のイヤリングを眺めていた。足もないので勝手に動きもしない。ここにいると決めたような片意地な様子まであった。物事の決定というのは案外こういう形ですすむのかもしれないとぼくは不思議と愛着をもってその存在を眺めていた。反対に、本当の持ち主も失うということはこうも簡単になされ、喪失の甘酸っぱさも醜さも一切、感じていないのかもしれない。となりの部屋から炒めた食材の匂いがする。絶対になくならないものもある。決意して捨てようと思わない限り、包丁もフライパンもそこにあった。徐々に減っていくものもある。奈美が並べた調味料。買い替え時になっている。その見極めのひとつひとつをなぜだか尊く感じていた。人間関係のどれかもこれらに当てはまり、適用できるのかもしれない。ずっといるもの。いつか、いなくなるもの。後悔と苦さ。爽快さと失意。自分はあまりにも語彙が増えてしまったようで不愉快でもあった。ただ、ぼくは奈美に好きと言えば良いだけなのだ。信頼に足る声音で。そのタイミングも渡されなかった手紙のように捜索が必要だった、と思ったら腹が鳴った。