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流求と覚醒の街角(49)確立

2013年09月15日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(49)確立

「今日、学生時代にバイトしていたときのひとに会った」
「偶然だね。なんのバイトしてたんだっけ?」

 ぼくは、ひとつだけしかしていない。友人の家が経営していた中古の本の店で店頭に立ったり、たまに配達にいったりした。お得意さんにある女性画家がいて、ぼくはその娘と知り合う。やはり、それもぼくがその店で見つけた古い本の中味のように非現実的になり、架空の出来事のようにも感じていた。だから、それは逆に美しいものとなりつつあるのだ。現実の手垢にまみれない分、儚くて貴重でかつ美しい。
「ちょっとだけだけど、ケーキを売ってた」
「メルヘンチック」

「馬鹿にしてるでしょう?」
「なんで、してないよ。可愛い制服とか着て」
「そう。フリフリのオレンジ色の」
「もう、もってない?」
「変態」ぼくはその宣告を黙殺する。彼女の脳裏に浮かんだことの方がより陰湿である。

「なんか当時のこととか話したの?」
「彼女、とても親切で優しかった。わたしの方があとから入ったから知らないことが多かったんだけど、いつもサポートしてくれたんだ」
「でも、今日、会うまでは思い出しもしない?」
「悲しいし残念だけど、そういうこと。でも、会ってみればあの時の優しさが急に迫ってきて」
「やっぱり、距離を置いて、目の前に表れるということがとても大事なんだろうかね」
「そうなんだよね。でもね、名前とか思い出せなくて困ること、あるよね?」
「あるね。困ったら、直接、訊いちゃえばいいのに」

「訊けないよ」それから、彼女はそのひとときの邂逅の話をした。ある日の自分を覚えているひとがいて、この期間にはこのぐらいの変化があるということを予想して、さらに容認して、本質的には変わらない幹のような部分と対面する。ぼくには会いたいひとがいた。だが、会ってみたら何かが終わってしまうとも感じている。その何かを怖れており、また怖れが確実にあったとしても、具体的には展開しない。自分の過去の愛の名残をただ懐かしむだけかもしれず、その追憶の結晶を失ってしまう可能性があることも怖かった。魅力的な人間になっていなかったらというドキドキもあり、それ以上に神秘的な魅力をさらに有していたら、それもまた憂鬱を上乗せするだけだろう。結果として、会わないことが必然になり、このくだけた関係にいる自分こそ、もう今では本来の姿となっているのだ。過去のある日の自分は、もう自分ではない。いまのいくつかの変更が利く道をたどたどしく歩きながら選択をしてすすんでいる自分を見つめることこそが正しく、甘美でもあるのだろう。

「あのとき、ああいう制服を着といてよかったな。もう、無理だけど」
「そう? 似合うんじゃない?」
「馬鹿にしてるでしょう?」今日の彼女はそればかり言った。

 ぼくは何日かして、外回りのときに以前のバイト先に寄った。相変わらずかび臭い匂いがしていたが、それを不快な感覚だとも思っていない自分がいた。店主であり、友人の父であり、前の雇い主の男性と話す。共通の話題である友人のことを話した。彼には子どもが生まれたので、目の前にいる友人の父にとっては孫であり、彼の役柄もおじいちゃんという部分が加わった。

「お前は、結婚しないのか? 好きな子はいるんだろう」
「いますよ。まあ、そのうち」彼はぼくの過去の女性を知っていた。ぼくらの深い仲も、ぼくの傷も次のページをめくるように知っていた。
「なんだ、決心がつかないのか?」
「そんなこともないですよ」
「スタートは早く切ったほうがいいぞ」と彼は自信あり気にいった。その確信がどこから来るのか分からないが、孫の姿が可愛いのだろう。ぼくは友人に会いに行く約束を父に告げた。それが伝達されるのかも実際は分からなかったのだが、きっと、されるのだろう。

 ぼくは見慣れた商店街を歩く。八百屋があって、魚屋はそれらしい匂いを遠くからも分かるぐらいに発していた。数軒先にはケーキ屋もあった。過去の奈美もこういう店で働いていたのだろう。それは若い少女の専売特許であるべき場所だった。ぼくはそこを素通りする。カラフルな店内には、淡いグリーンの制服を着たきれいな女性がいた。数年後には、その子にはなにが待っているのだろう。孫を義理の父に見せるのかもしれない。駅前に着く。ぼくは、ここで何度もあの女性と待ち合わせをした。彼女がぼくを見つける。安堵した姿。最後に会ったのは、ぼくの転勤先であった。安堵はもうなくなっていた。ふたりはもう別の道をすすむしかないことは分かり切っていた。粘度の弱い接着剤のようにぼくらは離れる。しかし、別の場所に付着したボンドは、間違って指先や爪先にあるかのように、こころの深部のどこかで相変わらず主張をつづけていた。

 ぼくは電車に乗り、仕事の資料をひざに拡げた。先ほどのバイト先の店主の声が今ごろになってぼくの耳を通過してこころに響く。「決心がつかないのか?」と彼は言った。ぼくは決心と好きという感情がぶつかる場所を探した。数種類のケーキが目の前にあった。ぼくはあのときの追憶の甘さがなつかしかった。しかし、大人の自分にはもう甘過ぎるのかもしれない。決心は、どうやって、どのタイミングでするのだろう。例えば、いま急に電話をして。でも、もしかしたら、仕事の間に、そんな話は聞きたがらないのかもしれない。ぼくは仕事の資料を仕舞う。先ほどの店で買ったいくらか古びた本を取り出した。ぼくはバイトを終えて、このような本を読みながら彼女を駅前で待っていた。その姿もやはり現実とは隔絶されてしまったようだった。すると乗換駅に近付き、ぼくには愛も思い出もなく、ただ顧客のリストしかないような錯覚だけがのこった。
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