爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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流求と覚醒の街角(47)フード

2013年09月08日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(47)フード

 夏の太陽は飛び立ち、一転して、秋を感じさせる雨になった。だが、ぼくらの身体は熱を発していた。ぼくらは海側ではなく反対の緑茂る場所に足を踏み込んだ。背の高い樹木が雨を地上まで落とすことをさえぎっていた。それでも、やはり地面はぬかるんでいた。心配も必要なく、ぼくらの足元は濡れてもいいようにビーチ・サンダルのままだった。

「なんだか、冷え冷えするね」と奈美は自分の両手が毛布の役目を果たすかのように身体を抱いた。

「寒い?」
「ううん、まだ大丈夫。空気もすがすがしいし」

 ただの森で、地図も整備された歩道もない。ただ何人かが踏みしめた跡があって、それを追って歩いていた。ぼくは先を歩く奈美の背中を見た。フードのある上着を着ていた。ぼくは奈美のことを好きになった人間のことを考えてみる。先ず、彼女を目にするのは出産を担当した先生になるのだろう。愛情とは別に医師には生み出すことへの手伝いの義務がある。その小さな子も片言のことばを話すようになる。両親は無条件の愛情を示したであろう。小学生になり、もう少し大人になる。彼女のことを好きになる異性も存在するようになったであろう。その頃、ぼくはどこにいたのか。また、同じように彼女も誰かのことを好きになる。両者の気持ちが一致することがいずれでてくる。幸福であり、また不可解な人間の気持ちだった。

 奈美は立ち止まる。樹の幹を触っていた。
「かぶとむしがいた」
「触れんの?」
「触れるよ、ほら」奈美は親指と人差し指でつかんだものをこっちに向けた。
「オスだね」ぼくの感想はシンプルだった。
「オスを手玉に取る」と言って奈美はまた樹の幹に生き物を返した。

 もう雨は止んでいた。だが、寒いのか、奈美はパーカーのフードを被った。誰かが踏みしめた道もなくなっていく。未開の土地。奈美のことをいちばん愛することのできる人間は誰なのだろう? ぼくは誰をいったいいちばん愛するのだろう。現在という観点でみれば、それは奈美であり、ぼくの人生を横に拡げ、細分させ思いを数値に置き換えれば、それは分からない。だが、目の前にあらわれたひとを好きになるのだ。このようなどこかの未開の土地にいる世界の反対の誰かをぼくは知りもしない。好きになった一欠けらの感情がもう一度会いたいという思いに変わる。会って継続させるということが当然になる。途中で喧嘩もすれば愛がより一層深まる場合もある。別の異性がある隙間に入り込むこともある。樹木にある蜜は誰にとっても甘美であるのだろう。

「もう、戻ろうか? 雨も止んだし」
「海にひとが戻っているかもしれない」
「海の匂いだけでもいいよ」そう言いながらフードから顔を出した。髪がでてきて、特徴のある耳も目に入った。

 ぼくの頭のてっぺんには時おり、葉っぱでは重みに耐えられなくなった水滴が落ちた。秋になったと感じたのはただの錯覚であったようだ。蜃気楼のように一瞬で消え往くもの。奈美は元気になる。上着のポケットに隠していたのかサングラスをした。
「眩しい」

 ぼくはその四つの音が意味するものを共有できる不思議さを感じた。まぶしい。視線に太陽の光線がぶつかり、さえぎる必要性がある。ぼくらは自分の感情をコントロールし、これは本当の好きという感情か試そうとする。こらえきれなくなって相手にも伝える。ひとしずく。相手も同じように思っていることを知り幸福になる。いや、幸福になるのはまだ早い。ぼくらはいろいろなものに試される。奈美の感情を一時は奪ったであろう男性がいて、ぼくには過去に真剣な気持ちで愛したひとがいた。それは急に太陽が昇ったからといって簡単に払拭できるものではないのかもしれない。しかし、自分で払拭する以外には方法も解決もないのだろう。だが、あの茂みの潤いもぼくには名残惜しいものだったのだ。かぶとぶしが安らかに蜜を吸うところ。太陽がすべてを乾かし、陽の下で明らかにしてしまう前の段階。

「どうする? 泳ぐ」
「水着、着てるの?」
「この下に」奈美は水着の肩紐を見せた。
「準備いいね。一回、帰らないと普通に下着だよ」

 奈美はびっくりした表情をする。ぼくは一日ずっと雨が降ると決め付けていた。夏のきまぐれの天気などぼくは知らない。本質的には、部屋でのんびりと過ごす一日を望んでいたのかもしれない。
「部屋に戻って着替えよう。必要なものもあるし」
「日焼け止め。シート」
「なんか飲み物も買おう」

 奈美はぼくの手をにぎった。さっきまで昆虫をつかんだ手。秋になるとなにをつかむのだろう。冬には雪の玉を。春には花びらを。また来年の夏には、どこか遠くまで行けるチケットを。

 十代の半ばの彼女は例えば十年後にどのような男性と会うことを望んでいたのだろう。何を目標にして、何を希望から外していったのだろう。ぼくは、やはりこの奈美のような女性と会えることを願っていた。フードの服が似合う女性。急に女性と男性の中間地点にいるようになる女性を。

 ぼくは部屋で着替えた。昨日と同じ水着はまだ湿っていた。ぼくのこころも乾き切るということを容易に果たしそうもなかった。だが、ガソリンが一滴ものこっていない車などもないのだ。廃車にするにせよ、どこかまでは運ばなければならない。エンジンをかけ。その後、誰かに受け渡しさえすれば、もう無頓着でいられる。専門家はそのひとなのだから。