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最初の経験が尊ければ、最後となる経験も総じて尊いんじゃなかろうかという主題。劇的でも、刺激的でもなくなってしまったのに。
しかし、「これが、最後」という明確な経験や体験ではおそらくなく、なんとなく、「あれ、もうやってないな……」という追憶の最中にそれはあるのかもしれない。
「あと、もう一回だけいい?」
と、別れ話のときに言う。未練である。プリーズ。
「喜んで」と、厨房に注文を通してくれるかもしれない。「売り切れちゃいました、残念ね」とあっさり断られることもあろう。ふざけることだけが目的にある。マイ・プレジャー。ユア・ウエルカム。プレゴ。
フレッシュさ。新鮮の期限。タバコをやめる決意のうえでの最後の一服。最後には覚悟がいるのだろうか。うやむやの美しさ。
なんとなく職場を見回す。転勤とかありながらも、みんな同じひとつの会社で大体が暮らしていくんだな、それが大人であり、結婚に導くのであり、家族を構成させる陰の功労者なんだなと思う。毎日、辞めたいなと思っていたとしても。
映画を見る。ひとの人生。
「面接でもあれば、紹介文、書くからね」と上司が退職するひとに向かって言う。ステップアップこそが正しいという認識もある。外国のひとつでは。ステップ・ダウン。新しいことを学びたいという願望というか衝動。マンネリ。
初日。挨拶をする。最終日。挨拶をする。その間のできごと。
ものを買う。前のを捨てる。壊れたからということもあるし、置き場所に困るからという場合もある。性能があがる。映画を見る。むかしの車。いかにも機械が作動しているという音がする。リズミカルの反対の老人の咳のようなエンジン音が。車にも顔のようなものがある。
今年最後の野球の試合。今年から通いだした店で見ている。ふさわしい気がした。二十九年前の奇跡は起こらなかった。そして、何人かは引退して、何人かは不本意ながらも首になる。さらに何人かはチームを変える。やることは同じ。給料があがるひともいて、下がるひともいる。直ぐにサインのひともいて、交渉を繰り返すこともある。自分の価値基準と他人の評価。この差が世の中のすべてともいえた。
マットレスを変える。新しいもので寝た最初の日か、前のもので寝た最後の日か、おそらく前者のような気もするが、記憶というのも手に負えないものになる。朝、仕度をしていると電話がかかってくる。
「誰か死んだな!」と、こころはぼくの意志より先に反応する。それは、実家にいる愛犬だった。よく、平日の休みにさみしいのかベッドにもぐり込んできた。ドアを開けろと、小さく鼻を鳴らす。そして、ぐっすりであった。動物病院に行く道をおそれ、カットとシャンプーから戻ってきた日はぐったりとしていた。彼も内弁慶であった。それを知らせる電話だった。新しいものに変えた日に、この世を去った。ものにも思い出がある。
だが、寝るという行為は今後もする。最後は目が覚めないのであろう。明日、起きるという保証はなくても、確信に似たもので起きるであろうと目覚まし時計をセットする。
飽きたから最後というのもある。水を飲むとか、パンを食べるという行為は不思議と飽きない。風呂に入る。目薬をさす。風を感じる。詩人の誕生になった。
スカウトはひとを探す。ドラフトという不利なせりがある。マグロならちょっと試食ができる。そして、いつか首になる。早いひともいれば、遅いひともいる。最後の試合。家族が見つめる。
「悪いところ、直すから」という懇願もある。ひとは、みっともないマネを強いられる。猶予が与えられ、結局、最後になる。憎むようになって、憎んだことさえ忘れる。
どこかで再会する。過去を美化する。反対に無視する。被害者のフリをして、加害者だと罪をなすりつける。ローンが終わる。最後の一回。月賦というむかしのことば。
写真を捨てて、「あれ、あいつ、どんな顔だったっけ?」と、すこし悩む。写真をばらまかれる女性もいる。ネット時代。複製とコピーは簡単になる。
終わりがくるんだろうな、とはじめる前から考えてしまう。こうして老け込んでいくのだ。区切り。段落。句読点。ピリオド。
引導を渡す。他のものから宣告される。
あきらめないうちは失敗じゃないというひともいる。失敗したから止める。成功したので最後にする。
アイポッド・クラシック発売中止。販売終了。音楽媒体も物質ではなく、データとして生き残る。最後のコンサート。「普通の女の子に戻りたい」では、普通とは? 分析がいる。「別れましょうわたしから、消えましょうあなたから」歌。「ああしましょう、こうしましょう、どうしましょう」と、タモリさんがテレビで言っていた。困惑。
テレビも終わる。チャンネルを変えるということだけで、時代も変わる。全員集合、ひょうきん族、という順番は革命であった。同時に日曜の夜の支配権も元気がでるテレビから、ごっつええ感じに移行する。世界一位と名乗る男性が見舞いに行く魅惑的なコント。彼も二位に転落したのだろうか。体力の限界。最後は華々しいのか?
サグラダ・ファミリアの最後、完成した姿、異様をぼくは見られないのかもしれない。ぼく自身の最後も見ることは不可能だろう。遠退く意識、消え往く記憶。もう一回、せめて半分。
最初の経験が尊ければ、最後となる経験も総じて尊いんじゃなかろうかという主題。劇的でも、刺激的でもなくなってしまったのに。
しかし、「これが、最後」という明確な経験や体験ではおそらくなく、なんとなく、「あれ、もうやってないな……」という追憶の最中にそれはあるのかもしれない。
「あと、もう一回だけいい?」
と、別れ話のときに言う。未練である。プリーズ。
「喜んで」と、厨房に注文を通してくれるかもしれない。「売り切れちゃいました、残念ね」とあっさり断られることもあろう。ふざけることだけが目的にある。マイ・プレジャー。ユア・ウエルカム。プレゴ。
フレッシュさ。新鮮の期限。タバコをやめる決意のうえでの最後の一服。最後には覚悟がいるのだろうか。うやむやの美しさ。
なんとなく職場を見回す。転勤とかありながらも、みんな同じひとつの会社で大体が暮らしていくんだな、それが大人であり、結婚に導くのであり、家族を構成させる陰の功労者なんだなと思う。毎日、辞めたいなと思っていたとしても。
映画を見る。ひとの人生。
「面接でもあれば、紹介文、書くからね」と上司が退職するひとに向かって言う。ステップアップこそが正しいという認識もある。外国のひとつでは。ステップ・ダウン。新しいことを学びたいという願望というか衝動。マンネリ。
初日。挨拶をする。最終日。挨拶をする。その間のできごと。
ものを買う。前のを捨てる。壊れたからということもあるし、置き場所に困るからという場合もある。性能があがる。映画を見る。むかしの車。いかにも機械が作動しているという音がする。リズミカルの反対の老人の咳のようなエンジン音が。車にも顔のようなものがある。
今年最後の野球の試合。今年から通いだした店で見ている。ふさわしい気がした。二十九年前の奇跡は起こらなかった。そして、何人かは引退して、何人かは不本意ながらも首になる。さらに何人かはチームを変える。やることは同じ。給料があがるひともいて、下がるひともいる。直ぐにサインのひともいて、交渉を繰り返すこともある。自分の価値基準と他人の評価。この差が世の中のすべてともいえた。
マットレスを変える。新しいもので寝た最初の日か、前のもので寝た最後の日か、おそらく前者のような気もするが、記憶というのも手に負えないものになる。朝、仕度をしていると電話がかかってくる。
「誰か死んだな!」と、こころはぼくの意志より先に反応する。それは、実家にいる愛犬だった。よく、平日の休みにさみしいのかベッドにもぐり込んできた。ドアを開けろと、小さく鼻を鳴らす。そして、ぐっすりであった。動物病院に行く道をおそれ、カットとシャンプーから戻ってきた日はぐったりとしていた。彼も内弁慶であった。それを知らせる電話だった。新しいものに変えた日に、この世を去った。ものにも思い出がある。
だが、寝るという行為は今後もする。最後は目が覚めないのであろう。明日、起きるという保証はなくても、確信に似たもので起きるであろうと目覚まし時計をセットする。
飽きたから最後というのもある。水を飲むとか、パンを食べるという行為は不思議と飽きない。風呂に入る。目薬をさす。風を感じる。詩人の誕生になった。
スカウトはひとを探す。ドラフトという不利なせりがある。マグロならちょっと試食ができる。そして、いつか首になる。早いひともいれば、遅いひともいる。最後の試合。家族が見つめる。
「悪いところ、直すから」という懇願もある。ひとは、みっともないマネを強いられる。猶予が与えられ、結局、最後になる。憎むようになって、憎んだことさえ忘れる。
どこかで再会する。過去を美化する。反対に無視する。被害者のフリをして、加害者だと罪をなすりつける。ローンが終わる。最後の一回。月賦というむかしのことば。
写真を捨てて、「あれ、あいつ、どんな顔だったっけ?」と、すこし悩む。写真をばらまかれる女性もいる。ネット時代。複製とコピーは簡単になる。
終わりがくるんだろうな、とはじめる前から考えてしまう。こうして老け込んでいくのだ。区切り。段落。句読点。ピリオド。
引導を渡す。他のものから宣告される。
あきらめないうちは失敗じゃないというひともいる。失敗したから止める。成功したので最後にする。
アイポッド・クラシック発売中止。販売終了。音楽媒体も物質ではなく、データとして生き残る。最後のコンサート。「普通の女の子に戻りたい」では、普通とは? 分析がいる。「別れましょうわたしから、消えましょうあなたから」歌。「ああしましょう、こうしましょう、どうしましょう」と、タモリさんがテレビで言っていた。困惑。
テレビも終わる。チャンネルを変えるということだけで、時代も変わる。全員集合、ひょうきん族、という順番は革命であった。同時に日曜の夜の支配権も元気がでるテレビから、ごっつええ感じに移行する。世界一位と名乗る男性が見舞いに行く魅惑的なコント。彼も二位に転落したのだろうか。体力の限界。最後は華々しいのか?
サグラダ・ファミリアの最後、完成した姿、異様をぼくは見られないのかもしれない。ぼく自身の最後も見ることは不可能だろう。遠退く意識、消え往く記憶。もう一回、せめて半分。