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愛新覚羅を頭領に祀り、国家をつくる。傀儡ということばを大人になって知る。
甘粕という軍人を教授(旧帝国大学)と名乗るひとが演じる。
東アジア。
憎しみなどなくなるとも決して思っていないし、なくそうという努力にこれからも今後も関わろうとも思っていない。どうぞ、お好きに。ぼくはそのケーキを食べないけどね。
まったく無縁でいられるほど世界は広くない。父はそこで生まれたらしい。子どもを荷物(財産)として持って帰るのを面倒がれば、昭和四十四年生まれの自分の生誕はどうなっているのかと想像する。敗戦時に四歳ぐらいの男の子。満州にのこっても酒飲みの体質を存分に発揮したのだろうか。しかし、日本にいて、日本の女性と出会い、二人目の子どもとしてぼくは産声をあげる。あまりにも泣かないので祖父はぼくを唖と早々に勝手に認定した。医学的根拠もなく、ただの雰囲気で。そもそもが人見知りであるのも間違いない。
大連という場所でピアノを習った少女が、後日、「ロング・イエロー・ロード」というエリントンにも匹敵する曲を産み出す。日本が海外にも食指を伸ばしたころだった。
母の旧姓は大陸からやって来たことを想像させる名前だった。もし、過去のどっかの遠い遠い時点でボート・ピープルとして到来していなければ、その最果てにいる自分の運命はどういうものか、これまた想像する。いつまでも授乳をやめない子だったといわれるが、それは作り話なのだ、と幼少のときに、ぼくは即座に否定した。大人になれば、あれがキライな男性というのも、なかなか想像はむずかしい。タモリさんは、「星人」と名付けて、その脂肪の膨らみに対する愛着を肯定していた。
もらえる身体能力などほぼ等しいに違いない。極東方面のグループの一員としては。バスケット・ボールをするために作られてもおらず、フット・ボールで体当たりすることにも恵まれていない。第五福竜丸(ラッキー・ドラゴン)に乗って被爆するぐらいが、妥当な民族なのだろう。ある視点から見れば。
気が付けば、日本橋の上空には風景を台無しにする高速道路がかかっており、大阪のどこかには万博のためのモニュメントが燦然と立っている。アジアの一員としていること。
そこには長崎と広島があった。いまだに相対性理論の骨子を理解していない。スイッチを押すひとがいて、その指示を出すひとがいる。軍というのが命令で成り立っているのであれば優れたパイロットと乗組員であり、ヒューマンな観点から見れば、とんでもないひとでなしで、人殺しだった。
それが戦争なのだといえば、そういえた。言葉があるからには実体があるのだ。いや、実体があるから言葉として割り振られる。ある東南アジアからの発言として、やられる一方だった弱虫たちが西洋文明に立ち向かった事実として真珠湾からそれ以降のできごとを容認するひともいる。だが、懲りない面々はベトナムを餌食にする。枯葉剤という物質を発明して、発明されたら撒かないわけにはいかない。倉庫に備蓄するために作ったのでもないだろう。ぼくの書き記した悪が、悪という地点までに達していないことに不満になる。
結果、誰かが苦しむ。黄色いひとびと。歌のうまい黒人の少年は大人になり白くなっていた。潜在的に同化する。いや、洗剤的にか。
インカ帝国、アンデス文明の終焉。ミケランジェロのピエタによる容貌の洗脳。中東の男性とその母。終わったものとして学んでいる。金(ゴールド)という発明。流出する金銀財宝。
世界史と日本史を学ぶ。ローマ帝国があり、清もあり、ギリシアの哲学者もいた。さっそうと駆け抜けるヒーローもいる。みな、領土をひろげることを目指す。しかし、現在は民族ごとに分割することに傾いている。
日本にいる。民族で別れたがる、区別したがる彼らの容貌や思想の差など分からないままだ。島の西や北を奪われたり、返してくれるという口約束を信じたりする。返してもらっても、ぼくはそこに住まない。いまのアパートが別の領土になったら確かに困るだろう。
歴史もウソであり捏造である。それを避けるために真実らしきものを書きのこす。書けば書くほど想像と勝手な解釈が入り込む。さらに付け足す。歴史家という執念のかたまりらしきひとを思い浮かべる。自分の歴史を、自分でのこすしか方法がないヒーロー性の欠如を自分で全うする。数回のチェックを経て、担当者のサインをもらってこそ真実性を帯び、製本に値するものとなる。
ぼくはイングランドのサッカーやアイス・スケートを見る。東アジアのひとびとが発明した競技ではない。それでも、競技者が増えれば世界的な大会も発明され、運営される。その場で、ぼくと似通った背格好のひとが活躍する姿を堪能する。ぼくに応援すべき国家などない。ただ、望まないながらにここに生まれただけなのだ。ペルーでも良かったし、スペインで生まれ船に乗り、喜望峰を越えても良かったのだ。だが、鏡を見る。自分というものを規定するのはこの顔で、この色で、この体格なのだ。パスポートにも貼られる顔。東アジアのひと。ホン・サンスの映画を好む。
愛新覚羅を頭領に祀り、国家をつくる。傀儡ということばを大人になって知る。
甘粕という軍人を教授(旧帝国大学)と名乗るひとが演じる。
東アジア。
憎しみなどなくなるとも決して思っていないし、なくそうという努力にこれからも今後も関わろうとも思っていない。どうぞ、お好きに。ぼくはそのケーキを食べないけどね。
まったく無縁でいられるほど世界は広くない。父はそこで生まれたらしい。子どもを荷物(財産)として持って帰るのを面倒がれば、昭和四十四年生まれの自分の生誕はどうなっているのかと想像する。敗戦時に四歳ぐらいの男の子。満州にのこっても酒飲みの体質を存分に発揮したのだろうか。しかし、日本にいて、日本の女性と出会い、二人目の子どもとしてぼくは産声をあげる。あまりにも泣かないので祖父はぼくを唖と早々に勝手に認定した。医学的根拠もなく、ただの雰囲気で。そもそもが人見知りであるのも間違いない。
大連という場所でピアノを習った少女が、後日、「ロング・イエロー・ロード」というエリントンにも匹敵する曲を産み出す。日本が海外にも食指を伸ばしたころだった。
母の旧姓は大陸からやって来たことを想像させる名前だった。もし、過去のどっかの遠い遠い時点でボート・ピープルとして到来していなければ、その最果てにいる自分の運命はどういうものか、これまた想像する。いつまでも授乳をやめない子だったといわれるが、それは作り話なのだ、と幼少のときに、ぼくは即座に否定した。大人になれば、あれがキライな男性というのも、なかなか想像はむずかしい。タモリさんは、「星人」と名付けて、その脂肪の膨らみに対する愛着を肯定していた。
もらえる身体能力などほぼ等しいに違いない。極東方面のグループの一員としては。バスケット・ボールをするために作られてもおらず、フット・ボールで体当たりすることにも恵まれていない。第五福竜丸(ラッキー・ドラゴン)に乗って被爆するぐらいが、妥当な民族なのだろう。ある視点から見れば。
気が付けば、日本橋の上空には風景を台無しにする高速道路がかかっており、大阪のどこかには万博のためのモニュメントが燦然と立っている。アジアの一員としていること。
そこには長崎と広島があった。いまだに相対性理論の骨子を理解していない。スイッチを押すひとがいて、その指示を出すひとがいる。軍というのが命令で成り立っているのであれば優れたパイロットと乗組員であり、ヒューマンな観点から見れば、とんでもないひとでなしで、人殺しだった。
それが戦争なのだといえば、そういえた。言葉があるからには実体があるのだ。いや、実体があるから言葉として割り振られる。ある東南アジアからの発言として、やられる一方だった弱虫たちが西洋文明に立ち向かった事実として真珠湾からそれ以降のできごとを容認するひともいる。だが、懲りない面々はベトナムを餌食にする。枯葉剤という物質を発明して、発明されたら撒かないわけにはいかない。倉庫に備蓄するために作ったのでもないだろう。ぼくの書き記した悪が、悪という地点までに達していないことに不満になる。
結果、誰かが苦しむ。黄色いひとびと。歌のうまい黒人の少年は大人になり白くなっていた。潜在的に同化する。いや、洗剤的にか。
インカ帝国、アンデス文明の終焉。ミケランジェロのピエタによる容貌の洗脳。中東の男性とその母。終わったものとして学んでいる。金(ゴールド)という発明。流出する金銀財宝。
世界史と日本史を学ぶ。ローマ帝国があり、清もあり、ギリシアの哲学者もいた。さっそうと駆け抜けるヒーローもいる。みな、領土をひろげることを目指す。しかし、現在は民族ごとに分割することに傾いている。
日本にいる。民族で別れたがる、区別したがる彼らの容貌や思想の差など分からないままだ。島の西や北を奪われたり、返してくれるという口約束を信じたりする。返してもらっても、ぼくはそこに住まない。いまのアパートが別の領土になったら確かに困るだろう。
歴史もウソであり捏造である。それを避けるために真実らしきものを書きのこす。書けば書くほど想像と勝手な解釈が入り込む。さらに付け足す。歴史家という執念のかたまりらしきひとを思い浮かべる。自分の歴史を、自分でのこすしか方法がないヒーロー性の欠如を自分で全うする。数回のチェックを経て、担当者のサインをもらってこそ真実性を帯び、製本に値するものとなる。
ぼくはイングランドのサッカーやアイス・スケートを見る。東アジアのひとびとが発明した競技ではない。それでも、競技者が増えれば世界的な大会も発明され、運営される。その場で、ぼくと似通った背格好のひとが活躍する姿を堪能する。ぼくに応援すべき国家などない。ただ、望まないながらにここに生まれただけなのだ。ペルーでも良かったし、スペインで生まれ船に乗り、喜望峰を越えても良かったのだ。だが、鏡を見る。自分というものを規定するのはこの顔で、この色で、この体格なのだ。パスポートにも貼られる顔。東アジアのひと。ホン・サンスの映画を好む。