雑貨生活(9)
ぼくは断られることに馴れていく。習慣化する。
ぼくの履歴書の役目をした短編は何人かの手に回り、コピーがあるので処分された。破棄される運命のものをわざわざ生み出す。生み出してしまった。絶滅収容所。拒否の世界。
自分の価値が、ひとの目には認識されない。ぼくは彼女をきちんと評価している。社会も同じく評価している。だから、彼女にはその価値があるのだ。疑うことすらできない。彼女はぼくを好きになった。世間はぼくの値打ちを認めていない。すると、どちらかの目の焦点が狂っていることになる。ぼくは、こうして冷静に判断できる能力を有していた。
三話目のドラマを見ている。疎遠になりかけている友人からも電話がかかってくる。ぼくの近況が誤って伝わっていく。伝言ゲームのように。ちょっとずつ改悪されていく。不思議なものだ。ぼくは前の交際相手が、もし見ていたらどう評価しているか急に心配になった。ぼくのたけのこ。
「ぼくの評判がどんどん悪くなっていくんだけど?」クレームは伝えるべきなのだ。誠実に。
「あれ、あなたじゃないのよ」彼女は取り合わない。「それに、ドラマ自体は、みんな褒めてくれてるし」
「そうか。世界で不満があるのは、ぼくだけか」ぼくのたけのこも。
「でも、何度も見てるんでしょう?」
「その通り」笑いというのは安定した大人が楽しむ最上級のゲームなのだ。飢餓の只中や地震の瓦解現場で楽しむほど必要ではないかもしれないが、別の落ち着いた日々に最もリラックスさせるのは笑うという受動的な幸福であるのだろう。ぼくはそして、笑っている。
「あれ、残念だったね。精一杯、頑張ったのに」
「まあ、仕方がないよ」頑張ったから残念なのか。もっとふてくされるべきなのか。ぼくは自分の能力を社会に提示しようと願っても、途中で堰き止めてしまう人間が介在するのはなぜなのか。それが彼の仕事なのだ。選別こそが人生で正しいものなのだ。ぼくらは日々、選ぶ。選ぶというのは反面、選ばれない多数のものが存在することでもある。シチューを食べたいと望めば、味噌汁は放棄され、カレーライスを嘱望すれば、とんこつラーメンの出番はない。だが、次がある。大人は無理かもしれないが、青年には山ほどの希望があるのだ。
ぼくは頼まれて友人の仕事を手伝っている。とある倉庫を片付けている。ビルが解体される前に、何でも放り込んでいた倉庫があった。その荷物を選別して、他の小さな場所に移動させなければならない。作業に励んでいる。仕事の代価は肉体を動かすことに比例するという法則のなかに友人はいた。その暮らしが肉体を頑健にした。ぼくの指はささくれひとつない。
「あれ、お前の彼女が書いてるんだろ? すごいな。おもしろいし」
また賛同者がひとり。
「で?」
「え?」
「いや、あのクズみたいな人間のモデルがどうとか、いつも訊かれるんでね」
「そうなんだ。気にならないけど」昼休みも終わる。労働は空腹をもたらす。家に帰ってビールを飲んだら、よりおいしいだろうなと想像する。この想像こそがご褒美だった。しかし、いまは満腹感がもたらす眠さが襲ってきそうだった。その誘惑を振り払うように仕上げとして熱いコーヒーを飲んだ。
「さ、午後も頑張ろう」と、友人は自分とぼくに掛け声をかける。
ぼくは考えることを止めている。止められている。まだ未知の自身の傑作の出だしなど、頭のなかから払拭されている。ぼくのたけのこも消えた。もちろん、煮こごりもカボチャもいない。目の前の物体の有用、不必要を区分けしてトラックに積むだけでいいのだ。外には二台のトラックがある。居残るものと残骸となるもの。ほぼ同量の荷物がおんぶされるようにトラックの荷台に積まれていった。
それに合わせて当然のこと倉庫は空になる。ここも解体される。別の業者が請け負うのだろう。新しい更地には何かが建ち、ぼくらはその原型を忘れる運命にある。遺産としてのこすほど価値のないものたち。
四時過ぎには用は済んだ。ぼくは手と顔を洗った。腕にはいくつかのすり傷があった。遠くに高いビルが見える。乱立する都会の中央。あの中に何万人もの労働者がいて、仕事を終えた余暇にはドラマを見るのだろう。自分のきょうの一日はクズではなかった。対価どおりの働きはしてみせた。
トラックで途中の駅まで送ってもらった。彼は、残るものの方のトラックに乗っていた。そこまで行き、明日、別のひとが積み下ろすそうだ。ぼくは顔も知らない。彼女のドラマを見ているひとびとも多くは知らない。知らないということは幸福だった。ぼくの作品を却下させたひとは知っている。好きこのんでそうしたわけではないだろうが、知るというのは、そのこと自体に悪が含まれるようだった。
ぼくは切符を買い、途中で念のため、ビールを買った。絶対に冷蔵庫にはあるのだろうが、いつもより多く飲むかもしれない。だが、実際は彼女に揺り起こされるまえに消費した量はたった一口程度のものだった。
ぼくは断られることに馴れていく。習慣化する。
ぼくの履歴書の役目をした短編は何人かの手に回り、コピーがあるので処分された。破棄される運命のものをわざわざ生み出す。生み出してしまった。絶滅収容所。拒否の世界。
自分の価値が、ひとの目には認識されない。ぼくは彼女をきちんと評価している。社会も同じく評価している。だから、彼女にはその価値があるのだ。疑うことすらできない。彼女はぼくを好きになった。世間はぼくの値打ちを認めていない。すると、どちらかの目の焦点が狂っていることになる。ぼくは、こうして冷静に判断できる能力を有していた。
三話目のドラマを見ている。疎遠になりかけている友人からも電話がかかってくる。ぼくの近況が誤って伝わっていく。伝言ゲームのように。ちょっとずつ改悪されていく。不思議なものだ。ぼくは前の交際相手が、もし見ていたらどう評価しているか急に心配になった。ぼくのたけのこ。
「ぼくの評判がどんどん悪くなっていくんだけど?」クレームは伝えるべきなのだ。誠実に。
「あれ、あなたじゃないのよ」彼女は取り合わない。「それに、ドラマ自体は、みんな褒めてくれてるし」
「そうか。世界で不満があるのは、ぼくだけか」ぼくのたけのこも。
「でも、何度も見てるんでしょう?」
「その通り」笑いというのは安定した大人が楽しむ最上級のゲームなのだ。飢餓の只中や地震の瓦解現場で楽しむほど必要ではないかもしれないが、別の落ち着いた日々に最もリラックスさせるのは笑うという受動的な幸福であるのだろう。ぼくはそして、笑っている。
「あれ、残念だったね。精一杯、頑張ったのに」
「まあ、仕方がないよ」頑張ったから残念なのか。もっとふてくされるべきなのか。ぼくは自分の能力を社会に提示しようと願っても、途中で堰き止めてしまう人間が介在するのはなぜなのか。それが彼の仕事なのだ。選別こそが人生で正しいものなのだ。ぼくらは日々、選ぶ。選ぶというのは反面、選ばれない多数のものが存在することでもある。シチューを食べたいと望めば、味噌汁は放棄され、カレーライスを嘱望すれば、とんこつラーメンの出番はない。だが、次がある。大人は無理かもしれないが、青年には山ほどの希望があるのだ。
ぼくは頼まれて友人の仕事を手伝っている。とある倉庫を片付けている。ビルが解体される前に、何でも放り込んでいた倉庫があった。その荷物を選別して、他の小さな場所に移動させなければならない。作業に励んでいる。仕事の代価は肉体を動かすことに比例するという法則のなかに友人はいた。その暮らしが肉体を頑健にした。ぼくの指はささくれひとつない。
「あれ、お前の彼女が書いてるんだろ? すごいな。おもしろいし」
また賛同者がひとり。
「で?」
「え?」
「いや、あのクズみたいな人間のモデルがどうとか、いつも訊かれるんでね」
「そうなんだ。気にならないけど」昼休みも終わる。労働は空腹をもたらす。家に帰ってビールを飲んだら、よりおいしいだろうなと想像する。この想像こそがご褒美だった。しかし、いまは満腹感がもたらす眠さが襲ってきそうだった。その誘惑を振り払うように仕上げとして熱いコーヒーを飲んだ。
「さ、午後も頑張ろう」と、友人は自分とぼくに掛け声をかける。
ぼくは考えることを止めている。止められている。まだ未知の自身の傑作の出だしなど、頭のなかから払拭されている。ぼくのたけのこも消えた。もちろん、煮こごりもカボチャもいない。目の前の物体の有用、不必要を区分けしてトラックに積むだけでいいのだ。外には二台のトラックがある。居残るものと残骸となるもの。ほぼ同量の荷物がおんぶされるようにトラックの荷台に積まれていった。
それに合わせて当然のこと倉庫は空になる。ここも解体される。別の業者が請け負うのだろう。新しい更地には何かが建ち、ぼくらはその原型を忘れる運命にある。遺産としてのこすほど価値のないものたち。
四時過ぎには用は済んだ。ぼくは手と顔を洗った。腕にはいくつかのすり傷があった。遠くに高いビルが見える。乱立する都会の中央。あの中に何万人もの労働者がいて、仕事を終えた余暇にはドラマを見るのだろう。自分のきょうの一日はクズではなかった。対価どおりの働きはしてみせた。
トラックで途中の駅まで送ってもらった。彼は、残るものの方のトラックに乗っていた。そこまで行き、明日、別のひとが積み下ろすそうだ。ぼくは顔も知らない。彼女のドラマを見ているひとびとも多くは知らない。知らないということは幸福だった。ぼくの作品を却下させたひとは知っている。好きこのんでそうしたわけではないだろうが、知るというのは、そのこと自体に悪が含まれるようだった。
ぼくは切符を買い、途中で念のため、ビールを買った。絶対に冷蔵庫にはあるのだろうが、いつもより多く飲むかもしれない。だが、実際は彼女に揺り起こされるまえに消費した量はたった一口程度のものだった。