最後の火花 1
彼は、名前は山形さんであったと思うが、しばしば長い話をしてくれた。その話と彼の魅力ある映像がごっちゃになって植え付けられてしまっている。その分離は、いまさらコーヒーとミルクを分けられないぐらいに難しいものになっている。
「うどん粉を捏ねるように、山がつくられて、固い棒で筋をうまく引っ掻き溝にして、水を山の方から流した。じょうろのようなもので。いつまでもそんなことをつづけていたら、海がいっぱいになってしまうので、ときおり、洗面器のようなものですくいとって、またそれを山から流す。これが地球だ」
ぼくは山形さんのひざの上にいる。彼は何日か前から母と暮らしていた。当然、ぼくともということだ。
ふたりはどこで会ったのだろう。出会いというのに意味を見つけられるほど、ぼくは成長していない。いるものはいて、いなくなったものは見えなくなるだけで、深い意味を必要としていない。
「地球って、どこにあるの?」
「ここだよ」山形さんはぼくが乗っているあぐらのひざを畳の床に音をたてるように叩き付けた。
「ここ?」
「そう。自分の居場所。人間の唯一の棲み家。家賃を払えば、何十年かいられるところ」
ぼくは彼のひざの上から降りる。母は料理をしている。鼻歌も聞こえる。機嫌がいいのだろう。ぼくは、縁側から下をのぞき、棒を拾ってぬかるんだ地面を掘ろうとしたが、力が弱く棒は手から離れてしまった。振り返って山形さんに助けを求めようとしたが、彼はもういなかった。その代わりに、母と彼の会話が台所の方で小さく聞こえた。ぼくは石の台の上にあるサンダルを履き、棒をひろって壁に投げつけた。すると、となりの犬の鳴き声がした。怒りより、過分に甘えが混ざった声だった。ぼくは壁をよじのぼり、犬小屋と鎖を見てから犬の名前を呼んだ。
部屋にもどって、手を洗ってから夕飯を食べはじめる。まだ、夜には遠い時間だった。太陽は名残りの領域でもなかった。山形さんのランニングのシャツは肉体を酷使して働いてきた姿を微塵も隠していなかった。充溢する力強さは大人と子どもの溝をいかんなく発揮する。それは茶碗を空にするスピードとも匹敵する。ぼくは直ぐに満杯になって座布団の上に横になった。そのまま寝てしまうこともあるが、山形さんが来てからは軽々とぼくは自分の布団に運ばれるらしい。
目が覚めると、誰かが風呂に入っている音がする。ひとりの音だけのこともあるし、複数の声が聞こえてくることもある。ぼくは固く目をつぶり、直ぐに夢のなかに戻ろうとするが、そんな努力をしなくてもあっさりとその状態はやってきた。次の記憶は、もう朝になっている。
山形さんは近所の工場で雇われた。本当をいえば、うちに来たのが先かどちらかは分からない。正装もネクタイも必要ない。普段とあまり変わらない格好で家をでた。朝よりいくらか汗臭くなった身体を外の水道で流していた。見慣れない人間を拒む犬はそのうちに手なずけられていった。犬もホースの水を浴びてうれしそうにした。ぼくら家族も同じだったのだろう。
「地球には酸素があって、みどりがあった」
「酸素って?」
「この空気だよ」山形さんは手を広げる。ぼくは彼の声を後ろの首元で感じていたが、質問がある際は振り返ることも多かった。
「もし、なかったら?」
「想像つかないけど、大事なものだから、なければ、みんな死んじゃうよ」彼は自分の手で首をしめるマネをした。ぼくは、空気がなくなってしまったように息苦しい感じがした。だが、お盆をたずさえた母が山形さんの振る舞いをたしなめた。ぼくらはテーブルを囲み、ご飯の時間を楽しんだ。母は化粧をしている。夕方にどこかに出かけた姿のままだった。いつもより華やかで輝いていた。ぼくは、その当時の母の年齢のことを考えることもない。いるものはいて、あるものはある。ただ、その状況を信じるしかなかったのだ。想像も、架空も、今後も未来もない。日々、手に触れるものだけが暮らしだった。生活の全部だった。
ぼくはひとりで風呂に入る。仕事のないぼくの順番が常に先だった。そして、布団にもぐり込む。蚊の音を気にする間もなく、ぼくは寝てしまう。竹林を通る風の音がした。これも夢の一部であろうと明確なものがひとつもない状態をもてあそんでいる。目も寝ている。耳も寝ている。頭も寝ている。同時にやってきて、同時に意識が戻ってくる。そう思っているのは子どもの自分かもしれない。どこか、一部は一瞬だけずれて寝ることも起こり得る。ぼくの耳は眠りに誘われない。迷子になってみんなを探している。母の泣き声のような、むせび泣きとでも表現したいような音が聞こえる。となりの部屋に母はいる。ぼくはその部屋に意識が向かいながら、躊躇させるなにかもあった。そのなにかにぴったりと当てはまる言葉が思い浮かばない。明日、山形さんに訊こうと思う。彼は物知りなのだ。力もあるのだ。いろいろな経験をしてきたのだ。小さな弱い子とは比べられないほどに強い大人の男だった。
彼は、名前は山形さんであったと思うが、しばしば長い話をしてくれた。その話と彼の魅力ある映像がごっちゃになって植え付けられてしまっている。その分離は、いまさらコーヒーとミルクを分けられないぐらいに難しいものになっている。
「うどん粉を捏ねるように、山がつくられて、固い棒で筋をうまく引っ掻き溝にして、水を山の方から流した。じょうろのようなもので。いつまでもそんなことをつづけていたら、海がいっぱいになってしまうので、ときおり、洗面器のようなものですくいとって、またそれを山から流す。これが地球だ」
ぼくは山形さんのひざの上にいる。彼は何日か前から母と暮らしていた。当然、ぼくともということだ。
ふたりはどこで会ったのだろう。出会いというのに意味を見つけられるほど、ぼくは成長していない。いるものはいて、いなくなったものは見えなくなるだけで、深い意味を必要としていない。
「地球って、どこにあるの?」
「ここだよ」山形さんはぼくが乗っているあぐらのひざを畳の床に音をたてるように叩き付けた。
「ここ?」
「そう。自分の居場所。人間の唯一の棲み家。家賃を払えば、何十年かいられるところ」
ぼくは彼のひざの上から降りる。母は料理をしている。鼻歌も聞こえる。機嫌がいいのだろう。ぼくは、縁側から下をのぞき、棒を拾ってぬかるんだ地面を掘ろうとしたが、力が弱く棒は手から離れてしまった。振り返って山形さんに助けを求めようとしたが、彼はもういなかった。その代わりに、母と彼の会話が台所の方で小さく聞こえた。ぼくは石の台の上にあるサンダルを履き、棒をひろって壁に投げつけた。すると、となりの犬の鳴き声がした。怒りより、過分に甘えが混ざった声だった。ぼくは壁をよじのぼり、犬小屋と鎖を見てから犬の名前を呼んだ。
部屋にもどって、手を洗ってから夕飯を食べはじめる。まだ、夜には遠い時間だった。太陽は名残りの領域でもなかった。山形さんのランニングのシャツは肉体を酷使して働いてきた姿を微塵も隠していなかった。充溢する力強さは大人と子どもの溝をいかんなく発揮する。それは茶碗を空にするスピードとも匹敵する。ぼくは直ぐに満杯になって座布団の上に横になった。そのまま寝てしまうこともあるが、山形さんが来てからは軽々とぼくは自分の布団に運ばれるらしい。
目が覚めると、誰かが風呂に入っている音がする。ひとりの音だけのこともあるし、複数の声が聞こえてくることもある。ぼくは固く目をつぶり、直ぐに夢のなかに戻ろうとするが、そんな努力をしなくてもあっさりとその状態はやってきた。次の記憶は、もう朝になっている。
山形さんは近所の工場で雇われた。本当をいえば、うちに来たのが先かどちらかは分からない。正装もネクタイも必要ない。普段とあまり変わらない格好で家をでた。朝よりいくらか汗臭くなった身体を外の水道で流していた。見慣れない人間を拒む犬はそのうちに手なずけられていった。犬もホースの水を浴びてうれしそうにした。ぼくら家族も同じだったのだろう。
「地球には酸素があって、みどりがあった」
「酸素って?」
「この空気だよ」山形さんは手を広げる。ぼくは彼の声を後ろの首元で感じていたが、質問がある際は振り返ることも多かった。
「もし、なかったら?」
「想像つかないけど、大事なものだから、なければ、みんな死んじゃうよ」彼は自分の手で首をしめるマネをした。ぼくは、空気がなくなってしまったように息苦しい感じがした。だが、お盆をたずさえた母が山形さんの振る舞いをたしなめた。ぼくらはテーブルを囲み、ご飯の時間を楽しんだ。母は化粧をしている。夕方にどこかに出かけた姿のままだった。いつもより華やかで輝いていた。ぼくは、その当時の母の年齢のことを考えることもない。いるものはいて、あるものはある。ただ、その状況を信じるしかなかったのだ。想像も、架空も、今後も未来もない。日々、手に触れるものだけが暮らしだった。生活の全部だった。
ぼくはひとりで風呂に入る。仕事のないぼくの順番が常に先だった。そして、布団にもぐり込む。蚊の音を気にする間もなく、ぼくは寝てしまう。竹林を通る風の音がした。これも夢の一部であろうと明確なものがひとつもない状態をもてあそんでいる。目も寝ている。耳も寝ている。頭も寝ている。同時にやってきて、同時に意識が戻ってくる。そう思っているのは子どもの自分かもしれない。どこか、一部は一瞬だけずれて寝ることも起こり得る。ぼくの耳は眠りに誘われない。迷子になってみんなを探している。母の泣き声のような、むせび泣きとでも表現したいような音が聞こえる。となりの部屋に母はいる。ぼくはその部屋に意識が向かいながら、躊躇させるなにかもあった。そのなにかにぴったりと当てはまる言葉が思い浮かばない。明日、山形さんに訊こうと思う。彼は物知りなのだ。力もあるのだ。いろいろな経験をしてきたのだ。小さな弱い子とは比べられないほどに強い大人の男だった。