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ぼくは赤ん坊でもないのに、両足を抱え込むようにもちあげられ、この姿勢はまさに天花粉をはたかれるのを待っている格好だなと気付いていた。大人になりたかった自分は、結局は愛するという行為を望めば、幼児のようにバカげた振る舞いに付き合わされることを知った。なぜ、衣服を脱ぐ必要があるのか。裸になったら誰かに叱られていた未熟な境遇が恋しく、懐かしかった。
せめて二秒でも好きになったことがある女性を、別の誰かが同意のもと貫通させる場合、ぼくらは決して「知人」というスタンスであるべきではない。ぼくと女性とのわずかな歴史に、彼はちょっとでも登場するべきでもなく、ぼくも彼のキャラクターやヒストリーの一部を知っていてはいけない。接点があってはならないのだ。ぼくらは適当に縫い合わされたパッチワークになってしまい、それぞれの模様の役割を負ってしまう。その布は表裏のふたつのみでもなく、また複雑に繁殖、増殖させて布を重ね合わせるのだろう。
絶対に「邂逅」の際の話題もなく、その生活範疇のなかにいてはいけない。
しかし、なった。まんまと。誰に見境がないのか?
あんなに、毛嫌いしていた犬でもぼくは好きになれたのだ。ピーマンもにんじんも食べられる。
いや、それは決して好きという感情で定義できるものではない。愛着の継続性に親しみ、馴染むということだけであった。いやいや、生きたものには不本意ながら愛着が芽生えるものなのだ。当初の意図とは別のところで。
ひとがひとに対して全面なる愛情の確証たる表情をする。奥のあの子も。百戦錬磨のこの子も。
友人がされた(素人風のあの子や水商売のこの子も)その表情は、客観的にゆえ認識できても、自分になされたその表情は見落としがちだ。だが、デジタル世界。むかしの写真のデータを再調査する。あの子は、まさにぼくに対して、このつまらないぼくに対してしていたのだ。ぼくは、遅ればせながら数年後にその表情を発見する。
この提案はどうだろう。著名な法律事務所のように弁護士たちの名前を連名にしてビルの入口に掲げているところもある。すると、ある女性も関わった男性の苗字のすべてを、自分の名前に継ぎ足して列記する必要があるのかもしれない。レノン・マッカートニー、ジャガー・リチャーズとか。スミス&ウエッソン。
山田、佐藤、鈴木、木下、佐藤まゆみさん、発言は挙手をしてからにしてください。この同姓の佐藤は、同一人物なのですか? それとも別人ですか?
「異議があります。本件と関係ないと思います」
「不承不承ながら認めます」
ひとは練習と日々の鍛練と継続性を美化する。ぼくは正岡子規の住まいを好奇心から写真に撮っている。しかし、そこはカメラを気軽に取り出してはいけない場所でもあった。プライバシーは尊重されるべきだ。だが、楽しそうに(幸福の予感が充満の)中年の男女は跳ぶように歩き、ぼくのことを電柱以上に気にかけない。これから行われることが待ち遠しいのだ。愛は、こころの問題ではなかった。少年たちが腕相撲で自分の腕力を競うぐらいの楽しみが肉体には事前に備わっているのだ。
ぼくは自分の順番と嗜好と持続時間を知られることを恐れているだけなのだ。
「え、いきなり飛車、横に動かすの?」
という真っ当ではない順序と展開を。アプローチの仕方。将棋の王道を外れる攻め手。
本音をいえば、ぼくは旅行の手配をして、空港に行き、手荷物をあずけ、税関を抜けて、飛行機に乗ってシートベルトを締めた段階までしか楽しめないのだ。機内食もおいしくない。よその国へも行きたくない。実行という現実をどうにか避けたいと思っている。ぼくは受容される。パスポートにスタンプを押される。帰りになる。次になる。ねだられる。せまられる。ぼくは追い駆けていたのではないのか? 立場が逆転されていた。そして、天花粉をはたかれる。おしめは乾いている。
ひとは精神の生き物であるべきだ。壁ドンでトキメキ! ではない。
しかし、不本意ながら背中のホックを外している。上になったり、下になったり、交互になったり。女性の意見を取り入れる。希望があるそうである。
ふと我に返る。ぼくに肉親はいないのか? 永井荷風に近付けるのか? 玉の井を着流しで優雅に歩く。表札には長い長い苗字の表札がかかっている。あれらは親がいなくなったから書く権利を有するのではないのか。
ムードを高める。ボーイズⅡメンのハーモニーをかける。結果、意図しないのにパブロフの犬にそのグループがなってしまう。ぼくは実験したいわけでもない。相手が変われば、ぼくも変われるのか。引き出しは多くない。中味もガラガラだ。
お金を介入させるということを常におそれている。ぼくは精神の生き物なのだ。乞われればというスタンスが必須でもある。ぼくは生意気な少女みたいなこころもちなのか。自分という価値が目減りする。能動という意欲も減少する。谷崎爺さんの七転八倒ぶりを読む。やはり、早めにこの世を去った方が良さそうだった。白い錠剤の宣伝に釘付けになった。この子の名前もどれほど付け加えるのか、その潜在能力を想像して、良い映画を紹介するように、ハンカチで涙を拭きながら、カメラの前で一証人として触れ回ってみたいなとも思っている。「じゃあ、ぼくも!」と誰かが競りに参加して、意外と安価で落札する。そして、ひとりの女性のふしだらさの署名運動のキャンペーンを起こす。いや、素晴らしさかな。
めいめいが所有権を主張する島々たち。ぼくも異性をそう見ることにしよう。ぼくのものでもあり、ある面では、彼のものでもある。次の入国は断られるかもしれないが。
オリバー・ツイストみたいな傑作を書きたかったのにな。
せっかく、字も読めるし、書けるのに。
ぼくは赤ん坊でもないのに、両足を抱え込むようにもちあげられ、この姿勢はまさに天花粉をはたかれるのを待っている格好だなと気付いていた。大人になりたかった自分は、結局は愛するという行為を望めば、幼児のようにバカげた振る舞いに付き合わされることを知った。なぜ、衣服を脱ぐ必要があるのか。裸になったら誰かに叱られていた未熟な境遇が恋しく、懐かしかった。
せめて二秒でも好きになったことがある女性を、別の誰かが同意のもと貫通させる場合、ぼくらは決して「知人」というスタンスであるべきではない。ぼくと女性とのわずかな歴史に、彼はちょっとでも登場するべきでもなく、ぼくも彼のキャラクターやヒストリーの一部を知っていてはいけない。接点があってはならないのだ。ぼくらは適当に縫い合わされたパッチワークになってしまい、それぞれの模様の役割を負ってしまう。その布は表裏のふたつのみでもなく、また複雑に繁殖、増殖させて布を重ね合わせるのだろう。
絶対に「邂逅」の際の話題もなく、その生活範疇のなかにいてはいけない。
しかし、なった。まんまと。誰に見境がないのか?
あんなに、毛嫌いしていた犬でもぼくは好きになれたのだ。ピーマンもにんじんも食べられる。
いや、それは決して好きという感情で定義できるものではない。愛着の継続性に親しみ、馴染むということだけであった。いやいや、生きたものには不本意ながら愛着が芽生えるものなのだ。当初の意図とは別のところで。
ひとがひとに対して全面なる愛情の確証たる表情をする。奥のあの子も。百戦錬磨のこの子も。
友人がされた(素人風のあの子や水商売のこの子も)その表情は、客観的にゆえ認識できても、自分になされたその表情は見落としがちだ。だが、デジタル世界。むかしの写真のデータを再調査する。あの子は、まさにぼくに対して、このつまらないぼくに対してしていたのだ。ぼくは、遅ればせながら数年後にその表情を発見する。
この提案はどうだろう。著名な法律事務所のように弁護士たちの名前を連名にしてビルの入口に掲げているところもある。すると、ある女性も関わった男性の苗字のすべてを、自分の名前に継ぎ足して列記する必要があるのかもしれない。レノン・マッカートニー、ジャガー・リチャーズとか。スミス&ウエッソン。
山田、佐藤、鈴木、木下、佐藤まゆみさん、発言は挙手をしてからにしてください。この同姓の佐藤は、同一人物なのですか? それとも別人ですか?
「異議があります。本件と関係ないと思います」
「不承不承ながら認めます」
ひとは練習と日々の鍛練と継続性を美化する。ぼくは正岡子規の住まいを好奇心から写真に撮っている。しかし、そこはカメラを気軽に取り出してはいけない場所でもあった。プライバシーは尊重されるべきだ。だが、楽しそうに(幸福の予感が充満の)中年の男女は跳ぶように歩き、ぼくのことを電柱以上に気にかけない。これから行われることが待ち遠しいのだ。愛は、こころの問題ではなかった。少年たちが腕相撲で自分の腕力を競うぐらいの楽しみが肉体には事前に備わっているのだ。
ぼくは自分の順番と嗜好と持続時間を知られることを恐れているだけなのだ。
「え、いきなり飛車、横に動かすの?」
という真っ当ではない順序と展開を。アプローチの仕方。将棋の王道を外れる攻め手。
本音をいえば、ぼくは旅行の手配をして、空港に行き、手荷物をあずけ、税関を抜けて、飛行機に乗ってシートベルトを締めた段階までしか楽しめないのだ。機内食もおいしくない。よその国へも行きたくない。実行という現実をどうにか避けたいと思っている。ぼくは受容される。パスポートにスタンプを押される。帰りになる。次になる。ねだられる。せまられる。ぼくは追い駆けていたのではないのか? 立場が逆転されていた。そして、天花粉をはたかれる。おしめは乾いている。
ひとは精神の生き物であるべきだ。壁ドンでトキメキ! ではない。
しかし、不本意ながら背中のホックを外している。上になったり、下になったり、交互になったり。女性の意見を取り入れる。希望があるそうである。
ふと我に返る。ぼくに肉親はいないのか? 永井荷風に近付けるのか? 玉の井を着流しで優雅に歩く。表札には長い長い苗字の表札がかかっている。あれらは親がいなくなったから書く権利を有するのではないのか。
ムードを高める。ボーイズⅡメンのハーモニーをかける。結果、意図しないのにパブロフの犬にそのグループがなってしまう。ぼくは実験したいわけでもない。相手が変われば、ぼくも変われるのか。引き出しは多くない。中味もガラガラだ。
お金を介入させるということを常におそれている。ぼくは精神の生き物なのだ。乞われればというスタンスが必須でもある。ぼくは生意気な少女みたいなこころもちなのか。自分という価値が目減りする。能動という意欲も減少する。谷崎爺さんの七転八倒ぶりを読む。やはり、早めにこの世を去った方が良さそうだった。白い錠剤の宣伝に釘付けになった。この子の名前もどれほど付け加えるのか、その潜在能力を想像して、良い映画を紹介するように、ハンカチで涙を拭きながら、カメラの前で一証人として触れ回ってみたいなとも思っている。「じゃあ、ぼくも!」と誰かが競りに参加して、意外と安価で落札する。そして、ひとりの女性のふしだらさの署名運動のキャンペーンを起こす。いや、素晴らしさかな。
めいめいが所有権を主張する島々たち。ぼくも異性をそう見ることにしよう。ぼくのものでもあり、ある面では、彼のものでもある。次の入国は断られるかもしれないが。
オリバー・ツイストみたいな傑作を書きたかったのにな。
せっかく、字も読めるし、書けるのに。