最後の火花 22
自分の過去に通じる道は絶たれた。遅い早いの差があるだけで、ぼくはたまたま早かっただけだ。兄弟もいないので同じ源流の仲間もいない。学級委員という政治の真似事をしたが、彼らが学校の運営を全面的に任されたわけでもない。委任もなく、正直なことをいえば、ただの厄介事が増えただけだった。
ぼくは知識を、もう又聞きという不完全な要素に頼ることはしなくなった。その代わりに本を読む。そのなかに書かれていることだって、当然、十割という完全なものに達する訳もないが、書かれたという事実が信頼感に近寄らせるものになった。
幸福な統治。歴史のなかではローマの五賢帝という時代がもっともそばに寄ったと教えてくれる。版図を広げれば多民族になることも免れない。もちよる文化も美意識も違う。当然、言語も異なっている。それでも、大多数が幸福に暮らせるように計る。国や帝国は一代という短いスタンスで成功か否かは決められない。
真実を知りたいと願いながらも正確であるかどうかは問わなくなる。その美点を点検して、美点になった理由を正当化させる。彼らは世襲というものを拒んだ。貴族の中から優秀なものを探して養子にする。その者が次の統治を依頼される。ぼくは安心する。理にかなったことなのだと安堵する。そういう正しさが、二千年も前に行われていたということに対して図書館で静かにガッツ・ポーズをする。ぼくはまだ高校生だっただろう。あの日が、ぼくの知識の希求のピークかもしれない。
ぼくは自転車に乗って、口笛でも吹きたいなという衝動に駆られる。将来の安定した成功も未だなく、その道も敷かれてはいないが、こういう世界を誰かが想像させていたのなら、ぼくの小さな命のどうこうなどまったく関係なく、ここは限定されながらも素晴らしい世界なのだと思えた。ルイ・アームストロングがトランペットを吹き、ベーブ・ルースはホームランを打つ。そのどれもがぼくには単純に美しく感じられた。世界は善と美で満ちている。
ぼくは過去を知ってよろこんでいた。だが、若者にとってその喜悦もどこかで不足だった。やはり、幸福の予感のようなものがなくては、一日も、一時間も、十分も生きられないのだ。ぼくに好意を寄せるひとがあらわれても、ぼくの失われた家族のことが耳に入れば、次第に離れることになった。こうしてぼくは過去に顔を埋める。埋没したなかに潜めば、ぼくは幸福でいられた。
夕日がまぶしい部屋でラジオをつける。制服は買い換えられる時期も失っていた。あと数か月しか着ない予定だ。ぼくはどこか遠くで働くことを望んでいた。ただ一枚の布を器用に身体にまきつけ、過ごせるような暖かな場所で。幸福な統治とやわらかな管理の下で。
ぼくの願望はある面では叶い、ある面では閉ざされた。それぞれの普通のひとの人生と等しく。ぼくはひとつだけを願っているわけではない。複数の支流をあてにして、流れやすいところにたどり着いた。結果として、普通の会社員になって、普通に女性と恋をする。相手は光子であった。彼女は歴史を振り返るようにぼくの過去を紐解くことをしなかった。いや、本当はしたのだ。そのぼくという本の間に小さな虫が挟まっていても大して気にしなかった。そのことをぼくはうれしく感じる。これも正確ではない。うれしいというのは通常より上回った状態なのだろう。ここでも安堵に近い。掘られ過ぎずに済んだということだけだった。水道管の亀裂に触れる寸前で止まる。
ぼくには選挙権があって、意に沿わないながらも多少の納税をしている。完璧な世の中も統治も、少なくともぼくが生きている間は訪れないことを知っている。自分の子においしい思いをさせるのは否定されることではなく、真っ当なことなのだ。多少、利権として躊躇する場合があったとしても、暴かれない限り、親の優しさという心情に合致するのだ。その心理をぼくは理解できないだけなのだろう。
ぼくの過去を知ったときのあの少女たちの驚いた、あるいは不安そうな顔をぼくは完全に払しょくすることはできない。ぼくは正面から受け止める。あれはそういう類いのできごとであり、みなが反応した感情は正常なことで、あのときのぼくもおそらくそうだったのだ。彼女たちはぼくから離れる。離れるだけでいい。ぼくはぼく自身から離れられない。突き返せない。母や山形さんの映像を抜きに暮らすこともできないのだ。
完全な統治も組織もない。完全なる親子関係もない。だが、疑わずにぼくらは依存するしかない。ぼくはあの瞬間まで確かにふたりといて幸福だったのだ。幸福が充ちた空間で息を吸っていたのだ。
笑顔が似合う黒人のトランペット奏者の音色はきょうも素敵な輝ける音を放っていた。その裏にどんなものが隠され、背景として似つかわしくないものに囲まれつづけていたのかどうかも判断できない。ぼくに残されたのはその音だけだった。これが手がかりとなる唯一のものとする。ボールを遠くに飛ばすということがファンを幸せにする。ぼくらはさまざまな薬を水といっしょに口に入れ、病気をいやした。同じ方法で、後日、ホームランも量産されるようになった。
ぼくの中味は癒せない部分もある。洗って、すすいで、天日に干せればどんなに良いだろう。しかし、それはぼくではなくなるということで、手放すという簡単なアドバイスが悪魔のささやきにも似たものとして映る。
ぼくは変えられて、変えられない。王様がチョコレートを一ダースもっているとしたら、確実に三つや四つはぼくも手に入れていた。握りしめすぎて溶かす恐れもあるほどに。
自分の過去に通じる道は絶たれた。遅い早いの差があるだけで、ぼくはたまたま早かっただけだ。兄弟もいないので同じ源流の仲間もいない。学級委員という政治の真似事をしたが、彼らが学校の運営を全面的に任されたわけでもない。委任もなく、正直なことをいえば、ただの厄介事が増えただけだった。
ぼくは知識を、もう又聞きという不完全な要素に頼ることはしなくなった。その代わりに本を読む。そのなかに書かれていることだって、当然、十割という完全なものに達する訳もないが、書かれたという事実が信頼感に近寄らせるものになった。
幸福な統治。歴史のなかではローマの五賢帝という時代がもっともそばに寄ったと教えてくれる。版図を広げれば多民族になることも免れない。もちよる文化も美意識も違う。当然、言語も異なっている。それでも、大多数が幸福に暮らせるように計る。国や帝国は一代という短いスタンスで成功か否かは決められない。
真実を知りたいと願いながらも正確であるかどうかは問わなくなる。その美点を点検して、美点になった理由を正当化させる。彼らは世襲というものを拒んだ。貴族の中から優秀なものを探して養子にする。その者が次の統治を依頼される。ぼくは安心する。理にかなったことなのだと安堵する。そういう正しさが、二千年も前に行われていたということに対して図書館で静かにガッツ・ポーズをする。ぼくはまだ高校生だっただろう。あの日が、ぼくの知識の希求のピークかもしれない。
ぼくは自転車に乗って、口笛でも吹きたいなという衝動に駆られる。将来の安定した成功も未だなく、その道も敷かれてはいないが、こういう世界を誰かが想像させていたのなら、ぼくの小さな命のどうこうなどまったく関係なく、ここは限定されながらも素晴らしい世界なのだと思えた。ルイ・アームストロングがトランペットを吹き、ベーブ・ルースはホームランを打つ。そのどれもがぼくには単純に美しく感じられた。世界は善と美で満ちている。
ぼくは過去を知ってよろこんでいた。だが、若者にとってその喜悦もどこかで不足だった。やはり、幸福の予感のようなものがなくては、一日も、一時間も、十分も生きられないのだ。ぼくに好意を寄せるひとがあらわれても、ぼくの失われた家族のことが耳に入れば、次第に離れることになった。こうしてぼくは過去に顔を埋める。埋没したなかに潜めば、ぼくは幸福でいられた。
夕日がまぶしい部屋でラジオをつける。制服は買い換えられる時期も失っていた。あと数か月しか着ない予定だ。ぼくはどこか遠くで働くことを望んでいた。ただ一枚の布を器用に身体にまきつけ、過ごせるような暖かな場所で。幸福な統治とやわらかな管理の下で。
ぼくの願望はある面では叶い、ある面では閉ざされた。それぞれの普通のひとの人生と等しく。ぼくはひとつだけを願っているわけではない。複数の支流をあてにして、流れやすいところにたどり着いた。結果として、普通の会社員になって、普通に女性と恋をする。相手は光子であった。彼女は歴史を振り返るようにぼくの過去を紐解くことをしなかった。いや、本当はしたのだ。そのぼくという本の間に小さな虫が挟まっていても大して気にしなかった。そのことをぼくはうれしく感じる。これも正確ではない。うれしいというのは通常より上回った状態なのだろう。ここでも安堵に近い。掘られ過ぎずに済んだということだけだった。水道管の亀裂に触れる寸前で止まる。
ぼくには選挙権があって、意に沿わないながらも多少の納税をしている。完璧な世の中も統治も、少なくともぼくが生きている間は訪れないことを知っている。自分の子においしい思いをさせるのは否定されることではなく、真っ当なことなのだ。多少、利権として躊躇する場合があったとしても、暴かれない限り、親の優しさという心情に合致するのだ。その心理をぼくは理解できないだけなのだろう。
ぼくの過去を知ったときのあの少女たちの驚いた、あるいは不安そうな顔をぼくは完全に払しょくすることはできない。ぼくは正面から受け止める。あれはそういう類いのできごとであり、みなが反応した感情は正常なことで、あのときのぼくもおそらくそうだったのだ。彼女たちはぼくから離れる。離れるだけでいい。ぼくはぼく自身から離れられない。突き返せない。母や山形さんの映像を抜きに暮らすこともできないのだ。
完全な統治も組織もない。完全なる親子関係もない。だが、疑わずにぼくらは依存するしかない。ぼくはあの瞬間まで確かにふたりといて幸福だったのだ。幸福が充ちた空間で息を吸っていたのだ。
笑顔が似合う黒人のトランペット奏者の音色はきょうも素敵な輝ける音を放っていた。その裏にどんなものが隠され、背景として似つかわしくないものに囲まれつづけていたのかどうかも判断できない。ぼくに残されたのはその音だけだった。これが手がかりとなる唯一のものとする。ボールを遠くに飛ばすということがファンを幸せにする。ぼくらはさまざまな薬を水といっしょに口に入れ、病気をいやした。同じ方法で、後日、ホームランも量産されるようになった。
ぼくの中味は癒せない部分もある。洗って、すすいで、天日に干せればどんなに良いだろう。しかし、それはぼくではなくなるということで、手放すという簡単なアドバイスが悪魔のささやきにも似たものとして映る。
ぼくは変えられて、変えられない。王様がチョコレートを一ダースもっているとしたら、確実に三つや四つはぼくも手に入れていた。握りしめすぎて溶かす恐れもあるほどに。