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物語の連鎖
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最後の火花 28

2015年02月21日 | 最後の火花
最後の火花 28

 光子の家にはホイットマンの詩集があった。大学で、そういう類いの事柄を学んだようだった。ぼくには確固たる胸を張って自慢できるほどの教育もない。だが、失ったなにかがそれであるのかと問われれば皆無で、ぼくは自分の短い歴史で得たものが無数にあった。得たものしかない。手の平から溢れるほどに。

 負け惜しみでもなかった。だが、歪んでいることも正直にいってある。ひとはゆっくりと熟成されるべきであり、学校は恋の相手を探したり、友人をつくって待ち合わせをしたり、来ない相手にイライラしながらも妥協したりすることも学ぶ有意義な時間でもあった。普通になれること。

 ぼくは本を開く。自分をつくった最短の道から逸れたものや、外れたもの。ここにもそれがあった。

「もう、それ、何年も開いていない」と彼女は言う。ひとは日常からさまざまなものをこぼしていく。グラスは別なもので補てんされて満たされていく。炭酸のように自然と蒸発させて、かさを減らすものもある。興味や関心を強制されるのが学校というものだ。ぼくはそこから自由な立場で本を開いている。未来の恵まれた優位性にも無関心で。

「資本主義の最たるアメリカにひとりの男性がいました。詩を書いている」ぼくは、独り言を聞かれるという認識のもと声を出していた。「製品をつくって大量に売る。小売店にたくさん山積みになるほど並べる。ところで、その範疇にこの詩も入るのかね?」最後は独り言ではなく同意や反論を求めていた。

「現在の栄光なんか気にならないひとかもしれないよ」
「そんなひと、ひとりも居ないよ」ぼくはこころにもないことを発していた。「政権とか主義とかシステムとか小さな枠内で成功できるのが賢いひとなんだよ」
「賢くても成功しないひとだっているでしょう?」

「それを許さないのが、合衆国というものだろう」ぼくは入国したこともない場所を勝手に規定している。自分が判断しなければならない。自分が裁かなければならない。自分が罰しないといけないのだ。自由の国についても。

 自称というものがある。詩をいくつものにすれば詩人と認められるのだろう。ある日、突然、辞めるひともいる。そして、武器商人としての自らの才能を発見する。どちらが本領なのだろう。ダダイスムという思想もあった。規制の秩序に対して、否定、破壊、攻撃、拒否を理論上で目論む。ぼくは自分で望んだわけではないが、規律ある家族像を奪われてしまった。他の人々が当然の権利としてマントのように帯びているものを。

 ぼくは本を閉じる。のこっているものは何もない。ぼくの頭には山形さんの能弁なことばしかしがみついていない。余地がない。

 ぼくはそのまま眠ってしまった。昼のまどろみ。身体は休んでいるが、脳は別の業務を頼まれている。夢のなかでぼくは暮らしていた。内容はこういうものだった。光子には若い恋人ができていた。ぼくの目の前で楽しそうにイチャツイテいる。詩的な表現ではないが、ふさわしい、よりぴったりと一致することばをぼくは見つけられない。どうやら、ぼくらはその直前に別れているようだった。ぼくは不快感を抱きながらも、どうこうする手立てがない。しばらくたって光子が絡みついた身体を離し個人という単位になって、ぼくのそばに寄る。

「あなたに、この新しい関係を承認してもらわなければ、先に進めない」と言う。

「ぼくにそんな権限も、その役目を負う責任もないよ」さらに不快になる。
「でも、そういうものだから」
「する気もないよ。法王でもないしね」

 彼女はふて腐れて離れてしまった。ぼくには別の選択肢など考えられない。どうすればよかったのだ?

 結局、その所為でふたりは別れることになる。ぼくは若い元恋人につかまる。非難されるのかと恐れたが、ただいっしょになって酔って、慰めてほしいということだった。彼は光子の素晴らしさを惜しげもなく披露する。それはぼくも当然、認めていることたちだった。ぼくは不思議と彼より前にそれを知っていた自分が褒められているように錯覚する。ぼくの一部が彼女に移転したので発生した長所だ。最後には、ふたりで彼女を褒め合って終わった。ぼくの意識はコントロール下におけないものだ。

「楽しい夢だったの? なんか、笑っているように見えたよ」と光子は訊く。

 これがぼくが考え出した詩のようでもあった。美しいもの。奪われたもの。大事だったもの。再発見できる時間。現実ではなく、夢の間という限定されるとき。

「楽しいような、悲しいような」
「ひとの夢の説明ってキライだよ」とキライでもなさそうな表情で彼女は言った。「コーヒーでも飲む? ビールにする?」
「それとも、わたし」
「バカみたい」

「そういう夢だったんだよ」あの男性は誰だったのだろう。現実の世界のどこかにいまも居るのだろうか。着々と計画を練って、実行する準備をしているのだろうか。だが、出会いなど計算できないのだ。特別な策士でもないかぎり。
「顔、洗う。ビールも飲む」
「わたしのも取って」

 ぼくは洗面所で流れる水をすくって顔に前後になすりつける。「承認が必要」と小さな声で言ってみる。そんな役割を誰も担っていない。担っているとしたら、かなり厄介でまた傲慢でもあり、お節介でもあった。別れたひとびとに責任もない。それが別れの根本の意味合いだった。面倒が減るだけだ。