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最後の火花 25

2015年02月12日 | 最後の火花
最後の火花 25

 現実になる。実現される。順番が入れ替わっただけで、同じことだ。将来、そうなるとも思っていないでぼくは他人事のように聞いていた。自分に何が起こり、何が起こらないかなど十才にも満たない男の子に分かる訳もない。それが可能性でもあり、緊迫した現実でもあった。

「もし、仮にだよ、いまの生活が奪われたら、どうなるかね?」

 ラジオで災害のニュースを家族で聞いた後だったと思う。ぼくは立ち向かうという観念が芽生えたころだったかもしれない。

「取り戻す、と思う」

 ぼくと山形さんは月に何度かある町への用事で歩いている。空模様はおかしかった。おかしいというのは笑いに通じるものでもあれば、普通ではない状態という意味にも取れることをぼくは考えている。

「むかし、むかしにある男性に起こったことだ」山形さんは痛切という感じの声を出した。彼はある面では演技者だった。他人の目を意識した時点でひとは演技者になった。お客さんが来たときの母の口調の変化。あれも一種の演技なのだろうか。

「どういうひとなの?」
「裕福なひとだった。お金にも恵まれ、家族も多くいた」山形さんはうらやましそうな口振りだったが、ぼくには彼がどこと比較して、そうした羨望の思いをもっているのか理解できなかった。

「良い暮らしだね」ぼくはラジオの宣伝で、そのようなセリフを聞いたんだろう。
「もし、仮に、おじさんやお母さんが突然、いなくなったらどうする?」
 ぼくはその状況を思い浮かべて、「探すよ」とだけ答えた。

「そうしてくれると助かるな」と山形さんは言ってニヒルに笑った。「彼は不運に見舞われる。災害に遭ってしまったように。子どももなくす。その不運について、妻にも非難される」

「味方のはずなのに?」
「そう、味方のはずだったのに。裏切られた。しかし、信じていたものがこころの奥にあったので耐えようと決めている」
「強いね」

「そうだな。強さって、腕力でもなければ、腕っぷしでもないのかもしれないな、本来は。頑固であることが、最後にはいちばん強いのかもな」

 だが、そう話す山形さんの腕は太く、確かに強そうだった。ぼくは頑固だと叱られたこともあった。それが急に長所と鞍替えしたことに戸惑ってしまう。ずっと動かない岩が最後には偉くなる。山が偉く、動物では象や、海の中ではクジラが偉くなる。動かすことが困難なものたち。ひとは物体的に動かせても、こころまでは易々と動かせない。

「不運をどうやって、やり過ごすの?」
「ただじっと耐えるだけ。頭のうえを銃弾が通り過ぎるのを待っているだけだ」
「どれぐらいの長さを?」
「ひとそれぞれの不運の大きさによる。でも、その人相応の大きさしかない」

 ぼくは自分に与えられるであろう不運の風船を考える。あまりにも小さくて直ぐに割れてしまうもの。反対に気球のように膨らんでぼくはその不運にぶら下がり、あらゆるところに運び去られる自分のことも想像した。どちらがよりしんどい状況なのか、ぼくに分かりようもないのだが。

「耐えられたの?」
「あらゆるののしりや数々の暴言も耐えた。すると、ある二方の討論も解決して、彼は失ったものを、それ以上の価値あるものを与えられる運びになる」

「誰かが決めるんだ?」
「まあ、そういうことだよ」
「喜ぶの?」
「喜ぶさ。喜ぶしかないじゃないか」

 ぼくは母と山形さんを失う。しかし、もう一度、手に入れられる。その実際の意味合いが本当のところ分からない。失ったものは、失ったままだろう。ぼくはなくしたものを考える。ほとんどはもうなくした事実も思い出せないが、いくつかの大切だったものには名残惜しい気持ちがあり、もったいないな、とか、惜しかったなという感情は深く刻まれていた。

 玄関を開けると、母がいる。そのことを当然だとぼくは決めている。疑うこともまったくない。ラジオでは災害の現場に救助に駆けつけるグループのことが話されていた。そういう任務が世の中にはあるのだ。だが、普段はなににいそしんでいるのかぼくには想像できない。消防士は火事を待ち、天気を予報するひとは雨を待つ。新聞記者は事件を探して、靴屋さんはかかとがすり減ることを待っている。時計屋さんはネジをゆるめ、宝石屋さんはいっぽんの指のために完全なる円を作るよう棒を丸めている。ぼくは母と山形さんを探している。いまはとなりの部屋にいるので、声だけが聞こえている。

 山形さんが爪を切る音がする。母はいつ爪を切っているのだろう。音だけでは判断できないはずだが、ぼくは山形さんがひざを抱え込むような姿勢で切っているのを目に浮かべた。探さなくても、もうぼくの頭のなかにあるのだ。頭は無限という可能性と許容量を前もって準備している。

 ぼくは引き出しを開けて、大事なものは何なのか規定しようとした。失いたくないもの。ぼくはお気に入りの洋服が来年には入らなくなるということもまだ知らない。愛着もそれほどない。愛着するには、ぼくは犠牲を払った対価として手に入れなければならないのだろう。

「不運の連続が保険の勧誘の誘い水となる」爪を捨てながら山形さんはそう言っていた。ぼくには保険という具体的な役割も意味も分からない。ただ漠然と大事そうなものだと思われた。いまという観点ではなく、来年の洋服の大きさをあらかじめ考えるようなものなのだろうとぼくは勝手に解釈する。

コメント
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