最後の火花 26
喪失後の世界にいる。おそらく、生きるということは自分の死の瞬間に向かい、さらに、他のひとびとの死を優しく受容することなのだ。冷酷な事実を帯びても狂気に包まれないこと。それだけが念頭に置かれていればよいのだ。
ぼくは幸運と不運が掴み合い、奪い合う世界にいるだけで、どちらに敵対するか、味方するのかも自分では決められない。正直にいえば、いつ、ぼくは母を失うことが妥当な日だったのだろう。すべきだったのか。いまなら、よりましだったのか。ぼくは山形さんに対する是認を変える必要があったのだろうか。答えはない。こころの奥にある喪失感の包帯を取り替えてあげるしかぼくにできることはない。
けじめをつけなくても未来は順調に、あるいは勝手に、もしくは適度に訪れる。抵抗も不可能だ。ぼくはダムではないのだ。誰しも、こころは清流のようなものであってほしいと願っているだろう。ぼくの上流でひとが死んだ。清らかな水も、成分までみっちりと分析すれば、ある不純な物質がまぎれこんでいるのかもしれなかった。
だが、光子がいまはいた。ぼくの過去の経験を通過したために光子がいた。ひざにかさぶたを作って転ばないことを学んだ。お小遣いを落として、金銭の貴さを知った。時間と等価交換でアルバイト代を手に入れた。得たもので、また何かを買う。成長ということを簡単に説明すると、こうした積み重ねなのだろう。
「資本主義と保険」と、あの日に、山形さんは言ったように思えた。現在のぼくがそう誤訳している。資本があるには労働者がいて、労働者がいれば組合が起こる。その衝突と折衷が賃金だった。
ハンターである男性。あの日の山形さんの姿はそのまま射抜く方だった。
ぼくは母にどれほどの能力があったのかもう思い出せないでいる。料理はうまかったはずだが、その後のまずい食事の回数の多さが上回り既に舌は忘れてしまっていた。だが、新しい母ももういらない。代わりになれるものは、あの当時だから必要だったのだが、それも本人以外にはいらないだろう。ぼくは代用品の正当性を疑っている。
未来の準備のために保険がいる。それが欲しているのは自分の人体であってはいけない。物という範疇におさめなければならない。車や飛行機。だが、運転しない、操縦しないただの物でもない。複数の人命が関わる物だった。
いずれなくなる自分という物体に保険をかける。ぼくがいなくなっても母は悲しめない。ぼくのために誰が泣くのだろう。失うということは、では恋の終わりも同等なものでしかなくなる。すると、最後は死という強迫観念がぼくに起こる。山形さんに、ある意味で育てられた自分は光子の死を、手を下す殺害というものを望むのだろうか。いまのところは、まったく反対だ。継続がふさわしい。死が分かつまで。
光子のあとに光子以上の存在を発見する。それが題材なのだ。ぼくは負けに甘んじたために報われるのだ。最強でないから、トンネルを通過した次の駅でプレゼントをもらえる。
ぼくのトンネルは暗かった。母はもう笑わなかった。賛辞も叱責もない。笑顔も涙もない。あらゆる感情が土の下に眠る。生きているからこそ苦痛があった。喜びもあった。光子の皮膚や髪にも感触をおぼえられるのだ。味わう感覚。母の料理を覚えていない味覚。山形さんと組み合ったときの匂いや手強さ。あの家が醸し出す素朴さ。美しさなど微塵もなかったが、居心地の良いところだった。
失ったことをよろこべるまでには至らない。誰がいったいなれるのだろう。なにを代価として受け取れば正常だったと思えるのだろう。だが、ぼくはわざわざ過去のこだわりを思い出そうと努めているだけだ。本当は喪失の記念をとっくに川底に投げ捨てていた。誰も拾えない。それは、もうぼくのものでもなかった。
ぼくは光子を抱く。おそらく母もこれぐらいの欲があり、これぐらいの身体のサイズだっただろう。母はぼくを産んだ。光子もぼくに似た誰かを産むかもしれない。いままではなかったものを。ある日、不意に生み出されるものを。
彼女は浴室に消えた。いなくなっても様々なものが残る。においや、空気の密度のようなもの。品々。愛用品。ここは光子の部屋なのだ。ぼくはあの家からはじまり、暮らしてきた家を思い巡らした。ここが到達ではなく、目指した場所でもない。だが、ぼくはここにいて、安らかな気持ちも抱けていた。彼女は扉を開ける。あの日、ぼくと山形さんが玄関に入ったときの表情と似ていた。
「爪切り、あったっけ?」と、ぼくは訊ねる。あの日を再現しなければならない。ぼくはひざを抱え、自分の足の爪を触った。
「大変そうだから、切ってあげるよ」言い終わる前に彼女は自分のひざにぼくの足をのせた。過去より上等な日々。失って得られるもの。得られたから失いたくないもの。ぼくが選択したのではないのだ。スタートの合図の音を誰かが鳴らし、ぼくはコースに沿ってすすんだだけなのだ。転びそうにもなり、実際に転んだ。ゴールを目指しているが、いつの間にか、横には誰もいなくなっていた。
「いたっ!」
「あ、ごめん」
ぼくの小さな箇所のさらに小さな一部分がぼくの神経のすべてと化す。ぼくから派生する神経。それに快楽を与えるのも、傷を加えるのもいまのところは光子だけが与かっていた。
喪失後の世界にいる。おそらく、生きるということは自分の死の瞬間に向かい、さらに、他のひとびとの死を優しく受容することなのだ。冷酷な事実を帯びても狂気に包まれないこと。それだけが念頭に置かれていればよいのだ。
ぼくは幸運と不運が掴み合い、奪い合う世界にいるだけで、どちらに敵対するか、味方するのかも自分では決められない。正直にいえば、いつ、ぼくは母を失うことが妥当な日だったのだろう。すべきだったのか。いまなら、よりましだったのか。ぼくは山形さんに対する是認を変える必要があったのだろうか。答えはない。こころの奥にある喪失感の包帯を取り替えてあげるしかぼくにできることはない。
けじめをつけなくても未来は順調に、あるいは勝手に、もしくは適度に訪れる。抵抗も不可能だ。ぼくはダムではないのだ。誰しも、こころは清流のようなものであってほしいと願っているだろう。ぼくの上流でひとが死んだ。清らかな水も、成分までみっちりと分析すれば、ある不純な物質がまぎれこんでいるのかもしれなかった。
だが、光子がいまはいた。ぼくの過去の経験を通過したために光子がいた。ひざにかさぶたを作って転ばないことを学んだ。お小遣いを落として、金銭の貴さを知った。時間と等価交換でアルバイト代を手に入れた。得たもので、また何かを買う。成長ということを簡単に説明すると、こうした積み重ねなのだろう。
「資本主義と保険」と、あの日に、山形さんは言ったように思えた。現在のぼくがそう誤訳している。資本があるには労働者がいて、労働者がいれば組合が起こる。その衝突と折衷が賃金だった。
ハンターである男性。あの日の山形さんの姿はそのまま射抜く方だった。
ぼくは母にどれほどの能力があったのかもう思い出せないでいる。料理はうまかったはずだが、その後のまずい食事の回数の多さが上回り既に舌は忘れてしまっていた。だが、新しい母ももういらない。代わりになれるものは、あの当時だから必要だったのだが、それも本人以外にはいらないだろう。ぼくは代用品の正当性を疑っている。
未来の準備のために保険がいる。それが欲しているのは自分の人体であってはいけない。物という範疇におさめなければならない。車や飛行機。だが、運転しない、操縦しないただの物でもない。複数の人命が関わる物だった。
いずれなくなる自分という物体に保険をかける。ぼくがいなくなっても母は悲しめない。ぼくのために誰が泣くのだろう。失うということは、では恋の終わりも同等なものでしかなくなる。すると、最後は死という強迫観念がぼくに起こる。山形さんに、ある意味で育てられた自分は光子の死を、手を下す殺害というものを望むのだろうか。いまのところは、まったく反対だ。継続がふさわしい。死が分かつまで。
光子のあとに光子以上の存在を発見する。それが題材なのだ。ぼくは負けに甘んじたために報われるのだ。最強でないから、トンネルを通過した次の駅でプレゼントをもらえる。
ぼくのトンネルは暗かった。母はもう笑わなかった。賛辞も叱責もない。笑顔も涙もない。あらゆる感情が土の下に眠る。生きているからこそ苦痛があった。喜びもあった。光子の皮膚や髪にも感触をおぼえられるのだ。味わう感覚。母の料理を覚えていない味覚。山形さんと組み合ったときの匂いや手強さ。あの家が醸し出す素朴さ。美しさなど微塵もなかったが、居心地の良いところだった。
失ったことをよろこべるまでには至らない。誰がいったいなれるのだろう。なにを代価として受け取れば正常だったと思えるのだろう。だが、ぼくはわざわざ過去のこだわりを思い出そうと努めているだけだ。本当は喪失の記念をとっくに川底に投げ捨てていた。誰も拾えない。それは、もうぼくのものでもなかった。
ぼくは光子を抱く。おそらく母もこれぐらいの欲があり、これぐらいの身体のサイズだっただろう。母はぼくを産んだ。光子もぼくに似た誰かを産むかもしれない。いままではなかったものを。ある日、不意に生み出されるものを。
彼女は浴室に消えた。いなくなっても様々なものが残る。においや、空気の密度のようなもの。品々。愛用品。ここは光子の部屋なのだ。ぼくはあの家からはじまり、暮らしてきた家を思い巡らした。ここが到達ではなく、目指した場所でもない。だが、ぼくはここにいて、安らかな気持ちも抱けていた。彼女は扉を開ける。あの日、ぼくと山形さんが玄関に入ったときの表情と似ていた。
「爪切り、あったっけ?」と、ぼくは訊ねる。あの日を再現しなければならない。ぼくはひざを抱え、自分の足の爪を触った。
「大変そうだから、切ってあげるよ」言い終わる前に彼女は自分のひざにぼくの足をのせた。過去より上等な日々。失って得られるもの。得られたから失いたくないもの。ぼくが選択したのではないのだ。スタートの合図の音を誰かが鳴らし、ぼくはコースに沿ってすすんだだけなのだ。転びそうにもなり、実際に転んだ。ゴールを目指しているが、いつの間にか、横には誰もいなくなっていた。
「いたっ!」
「あ、ごめん」
ぼくの小さな箇所のさらに小さな一部分がぼくの神経のすべてと化す。ぼくから派生する神経。それに快楽を与えるのも、傷を加えるのもいまのところは光子だけが与かっていた。