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金に不自由がなくなったら、あまり上品ではない町に数年ずつ住んでみたいと考えている。自分の育ったところが根本的には好きなのだ。候補としてナポリがあり、ニューオリンズがあって、アルゼンチンの裏町のどこかにも住めそうな場所がありそうだ。ひとは飾らず、本音で語り、泣き、あるいはわめき、そして、死んでいく。自分も、もう悩まず、学ぶこともそう多くなく、賢さへの希求などもとっくに捨てていて、その日暮らしで充分な環境を喜ぶ。そう簡単にいくことはないのは知っているが、想像は自由であった。常に自由であった。
捨て犬を拾う。どちらも世界から捨てられている。飽きたら、ラジオでも聴く。日本が恋しくなったら動画で落語でも見る。
「このチョコ、種があるんだね」
「アーモンド・チョコレートですよ」と、ひとりで小さく言い、思い出し笑いをする。犬は寝そべったまま片目を開け、怪訝な様子をみせる。その頭を撫でる。
散歩をする。段々と町に溶け込んでいく。普通の味の普通の値段のコーヒーを飲んで、町に暮らすひとびとの情報を知る。そういう過程でぼくの人柄も知られていく。となりの家で赤ちゃんが生まれる。成長する。両親が外出する際に、留守番を頼まれる。日本語を教えてあげる。不意に出ることばはどんなものだろう。
「いちばん、素敵なことばは?」と好奇心がこぼれそうなまつ毛の長い瞳で訊かれる。
「おおきに」
「意味は?」
「ダンケ」ぼくは、ドイツの辺鄙なところに住んでいそうだ。いや、冬の長そうなところはよくない。暖かくて、怠惰でのん気なところが望ましい。
「将来、どんな仕事がしたい?」眠そうな子どもに訊く。
「バスの運転手」
「そう。じゃあ、免許取らなくちゃ」大人はすぐに解決策に向かう。こうして、過去の数十年、自分自身を苦しめた唯一の原因でもあるのに、それだけが役立つかのように伝達している。両親が帰ってくる。ぼくは自室にもどり、落語を堪能する。日本語を充分に話したいような気もする。
「お餅って、どうしてカビが生えるんですかね?」
「それは、お前、早くに喰わねぇからじゃねぇか」
比較もできないのだ。自分が育った場所を通常のラインとして決めている。高くもなく、低くもない。朝が来る。犬を散歩させる。子どもたちはなれたもので名前を呼び、各々が頭を撫でていく。
「この犬、可愛い」と、遠いむかし、ぼくの住み慣れたところでひとりの少女が言った。近所の子らしいが、最近、見かけないと思って母にたずねる。
「犬、可愛いと言った子、余っぽど、自分の方が可愛いと思うんだけど、近頃、見かけないね。引っ越したのかね?」
母はどこの国の精鋭部隊であるスパイより情報収集の能力に長けていた。
「あの子、亡くなったのよ」
「え、あの子だよ」ぼくは容貌を説明する。死など、訪れる年代ではない。
「そうよ、その子」
いないものは、いない。コーヒーや紅茶のストックが切れたように突然、いなくなった。
ぼくは見知らぬ国の上品でもない地域の集まりで日本語を教えるように促される。本を読む。概要を説明する。世界は同じことに喜び、同じことで悲しむという当たり前の認識をわざわざ遠い地で確認する。子どもには夢があり、大人は現実というものを小さくさせて、矮小な期待しかもてなくなってしまう。
隣の家の家族は車で遠出をするようだ。休日らしい快活な声がきこえる。ぼくは動画を見る。
「早く、教えてやれよ、ボール投げ入れたって、底に穴が開いてるんだから、いつまでも終わらねえよ。両方とも」
バスケット・ボールを根底から否定することばが響く。
ぼくは散歩に出かける。年金をもらっている優雅な年代のひとびとと親しくなる。しかし、若さこそが生命でもあり、可能性にかけるのが唯一のチャレンジでもあった。ぼくは段々と日本語で挨拶をされるようになる。むずかしいことではない。世界は変えられるのだ。
部屋で犬が吠えている。隣の車庫が開き、エンジンが停まる音がする。もう保護者ではなく、友情というものが芽生えはじめている少年が戸をたたく。手には、キノコの入った袋がある。色とりどりという表現は、そのものにふさわしくない。みな地味な色合いだ。
翌朝、ぼくはフライパンに昨夜の頂きものを放り込み、バターを溶かして炒めた。香ばしい匂いがする。プレゼントというのは信頼感のやり取りなのだ。ぼくはお返しになりそうなものを考える。その前にコーヒーを入れ、キノコの温かさを頬張った口で感じ、同時に歯ごたえや食感も楽しむ。それも束の間、なんだか気分が悪くなってくる。犬は不安そうな様子をする。助けを求めるように玄関に向かう。戸はカギが閉まっている。ぼくはのたうち回る。プレゼントは信頼なのだ。しかし、日本にいたら、そのキノコの信憑性を盲目に受け入れたであろうか。
戸をたたく音がする。カーテンの向こうから少年の驚いた目が見える。ぼくは、この町で人生を終えそうであった。客死ということばが、どうやらぼくの頭に最後に浮かんだことばになりそうだ。誰か、犬を引き取ってくれるだろうか。ガラスが割られる音がする。
金に不自由がなくなったら、あまり上品ではない町に数年ずつ住んでみたいと考えている。自分の育ったところが根本的には好きなのだ。候補としてナポリがあり、ニューオリンズがあって、アルゼンチンの裏町のどこかにも住めそうな場所がありそうだ。ひとは飾らず、本音で語り、泣き、あるいはわめき、そして、死んでいく。自分も、もう悩まず、学ぶこともそう多くなく、賢さへの希求などもとっくに捨てていて、その日暮らしで充分な環境を喜ぶ。そう簡単にいくことはないのは知っているが、想像は自由であった。常に自由であった。
捨て犬を拾う。どちらも世界から捨てられている。飽きたら、ラジオでも聴く。日本が恋しくなったら動画で落語でも見る。
「このチョコ、種があるんだね」
「アーモンド・チョコレートですよ」と、ひとりで小さく言い、思い出し笑いをする。犬は寝そべったまま片目を開け、怪訝な様子をみせる。その頭を撫でる。
散歩をする。段々と町に溶け込んでいく。普通の味の普通の値段のコーヒーを飲んで、町に暮らすひとびとの情報を知る。そういう過程でぼくの人柄も知られていく。となりの家で赤ちゃんが生まれる。成長する。両親が外出する際に、留守番を頼まれる。日本語を教えてあげる。不意に出ることばはどんなものだろう。
「いちばん、素敵なことばは?」と好奇心がこぼれそうなまつ毛の長い瞳で訊かれる。
「おおきに」
「意味は?」
「ダンケ」ぼくは、ドイツの辺鄙なところに住んでいそうだ。いや、冬の長そうなところはよくない。暖かくて、怠惰でのん気なところが望ましい。
「将来、どんな仕事がしたい?」眠そうな子どもに訊く。
「バスの運転手」
「そう。じゃあ、免許取らなくちゃ」大人はすぐに解決策に向かう。こうして、過去の数十年、自分自身を苦しめた唯一の原因でもあるのに、それだけが役立つかのように伝達している。両親が帰ってくる。ぼくは自室にもどり、落語を堪能する。日本語を充分に話したいような気もする。
「お餅って、どうしてカビが生えるんですかね?」
「それは、お前、早くに喰わねぇからじゃねぇか」
比較もできないのだ。自分が育った場所を通常のラインとして決めている。高くもなく、低くもない。朝が来る。犬を散歩させる。子どもたちはなれたもので名前を呼び、各々が頭を撫でていく。
「この犬、可愛い」と、遠いむかし、ぼくの住み慣れたところでひとりの少女が言った。近所の子らしいが、最近、見かけないと思って母にたずねる。
「犬、可愛いと言った子、余っぽど、自分の方が可愛いと思うんだけど、近頃、見かけないね。引っ越したのかね?」
母はどこの国の精鋭部隊であるスパイより情報収集の能力に長けていた。
「あの子、亡くなったのよ」
「え、あの子だよ」ぼくは容貌を説明する。死など、訪れる年代ではない。
「そうよ、その子」
いないものは、いない。コーヒーや紅茶のストックが切れたように突然、いなくなった。
ぼくは見知らぬ国の上品でもない地域の集まりで日本語を教えるように促される。本を読む。概要を説明する。世界は同じことに喜び、同じことで悲しむという当たり前の認識をわざわざ遠い地で確認する。子どもには夢があり、大人は現実というものを小さくさせて、矮小な期待しかもてなくなってしまう。
隣の家の家族は車で遠出をするようだ。休日らしい快活な声がきこえる。ぼくは動画を見る。
「早く、教えてやれよ、ボール投げ入れたって、底に穴が開いてるんだから、いつまでも終わらねえよ。両方とも」
バスケット・ボールを根底から否定することばが響く。
ぼくは散歩に出かける。年金をもらっている優雅な年代のひとびとと親しくなる。しかし、若さこそが生命でもあり、可能性にかけるのが唯一のチャレンジでもあった。ぼくは段々と日本語で挨拶をされるようになる。むずかしいことではない。世界は変えられるのだ。
部屋で犬が吠えている。隣の車庫が開き、エンジンが停まる音がする。もう保護者ではなく、友情というものが芽生えはじめている少年が戸をたたく。手には、キノコの入った袋がある。色とりどりという表現は、そのものにふさわしくない。みな地味な色合いだ。
翌朝、ぼくはフライパンに昨夜の頂きものを放り込み、バターを溶かして炒めた。香ばしい匂いがする。プレゼントというのは信頼感のやり取りなのだ。ぼくはお返しになりそうなものを考える。その前にコーヒーを入れ、キノコの温かさを頬張った口で感じ、同時に歯ごたえや食感も楽しむ。それも束の間、なんだか気分が悪くなってくる。犬は不安そうな様子をする。助けを求めるように玄関に向かう。戸はカギが閉まっている。ぼくはのたうち回る。プレゼントは信頼なのだ。しかし、日本にいたら、そのキノコの信憑性を盲目に受け入れたであろうか。
戸をたたく音がする。カーテンの向こうから少年の驚いた目が見える。ぼくは、この町で人生を終えそうであった。客死ということばが、どうやらぼくの頭に最後に浮かんだことばになりそうだ。誰か、犬を引き取ってくれるだろうか。ガラスが割られる音がする。