爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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悪童の書 cg

2014年11月12日 | 悪童の書
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 金に不自由がなくなったら、あまり上品ではない町に数年ずつ住んでみたいと考えている。自分の育ったところが根本的には好きなのだ。候補としてナポリがあり、ニューオリンズがあって、アルゼンチンの裏町のどこかにも住めそうな場所がありそうだ。ひとは飾らず、本音で語り、泣き、あるいはわめき、そして、死んでいく。自分も、もう悩まず、学ぶこともそう多くなく、賢さへの希求などもとっくに捨てていて、その日暮らしで充分な環境を喜ぶ。そう簡単にいくことはないのは知っているが、想像は自由であった。常に自由であった。

 捨て犬を拾う。どちらも世界から捨てられている。飽きたら、ラジオでも聴く。日本が恋しくなったら動画で落語でも見る。

「このチョコ、種があるんだね」
「アーモンド・チョコレートですよ」と、ひとりで小さく言い、思い出し笑いをする。犬は寝そべったまま片目を開け、怪訝な様子をみせる。その頭を撫でる。

 散歩をする。段々と町に溶け込んでいく。普通の味の普通の値段のコーヒーを飲んで、町に暮らすひとびとの情報を知る。そういう過程でぼくの人柄も知られていく。となりの家で赤ちゃんが生まれる。成長する。両親が外出する際に、留守番を頼まれる。日本語を教えてあげる。不意に出ることばはどんなものだろう。

「いちばん、素敵なことばは?」と好奇心がこぼれそうなまつ毛の長い瞳で訊かれる。
「おおきに」
「意味は?」
「ダンケ」ぼくは、ドイツの辺鄙なところに住んでいそうだ。いや、冬の長そうなところはよくない。暖かくて、怠惰でのん気なところが望ましい。

「将来、どんな仕事がしたい?」眠そうな子どもに訊く。
「バスの運転手」

「そう。じゃあ、免許取らなくちゃ」大人はすぐに解決策に向かう。こうして、過去の数十年、自分自身を苦しめた唯一の原因でもあるのに、それだけが役立つかのように伝達している。両親が帰ってくる。ぼくは自室にもどり、落語を堪能する。日本語を充分に話したいような気もする。

「お餅って、どうしてカビが生えるんですかね?」
「それは、お前、早くに喰わねぇからじゃねぇか」

 比較もできないのだ。自分が育った場所を通常のラインとして決めている。高くもなく、低くもない。朝が来る。犬を散歩させる。子どもたちはなれたもので名前を呼び、各々が頭を撫でていく。

「この犬、可愛い」と、遠いむかし、ぼくの住み慣れたところでひとりの少女が言った。近所の子らしいが、最近、見かけないと思って母にたずねる。

「犬、可愛いと言った子、余っぽど、自分の方が可愛いと思うんだけど、近頃、見かけないね。引っ越したのかね?」

 母はどこの国の精鋭部隊であるスパイより情報収集の能力に長けていた。
「あの子、亡くなったのよ」
「え、あの子だよ」ぼくは容貌を説明する。死など、訪れる年代ではない。
「そうよ、その子」

 いないものは、いない。コーヒーや紅茶のストックが切れたように突然、いなくなった。

 ぼくは見知らぬ国の上品でもない地域の集まりで日本語を教えるように促される。本を読む。概要を説明する。世界は同じことに喜び、同じことで悲しむという当たり前の認識をわざわざ遠い地で確認する。子どもには夢があり、大人は現実というものを小さくさせて、矮小な期待しかもてなくなってしまう。

 隣の家の家族は車で遠出をするようだ。休日らしい快活な声がきこえる。ぼくは動画を見る。
「早く、教えてやれよ、ボール投げ入れたって、底に穴が開いてるんだから、いつまでも終わらねえよ。両方とも」

 バスケット・ボールを根底から否定することばが響く。

 ぼくは散歩に出かける。年金をもらっている優雅な年代のひとびとと親しくなる。しかし、若さこそが生命でもあり、可能性にかけるのが唯一のチャレンジでもあった。ぼくは段々と日本語で挨拶をされるようになる。むずかしいことではない。世界は変えられるのだ。

 部屋で犬が吠えている。隣の車庫が開き、エンジンが停まる音がする。もう保護者ではなく、友情というものが芽生えはじめている少年が戸をたたく。手には、キノコの入った袋がある。色とりどりという表現は、そのものにふさわしくない。みな地味な色合いだ。

 翌朝、ぼくはフライパンに昨夜の頂きものを放り込み、バターを溶かして炒めた。香ばしい匂いがする。プレゼントというのは信頼感のやり取りなのだ。ぼくはお返しになりそうなものを考える。その前にコーヒーを入れ、キノコの温かさを頬張った口で感じ、同時に歯ごたえや食感も楽しむ。それも束の間、なんだか気分が悪くなってくる。犬は不安そうな様子をする。助けを求めるように玄関に向かう。戸はカギが閉まっている。ぼくはのたうち回る。プレゼントは信頼なのだ。しかし、日本にいたら、そのキノコの信憑性を盲目に受け入れたであろうか。

 戸をたたく音がする。カーテンの向こうから少年の驚いた目が見える。ぼくは、この町で人生を終えそうであった。客死ということばが、どうやらぼくの頭に最後に浮かんだことばになりそうだ。誰か、犬を引き取ってくれるだろうか。ガラスが割られる音がする。

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悪童の書 cf

2014年11月09日 | 悪童の書
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 あれは確実に「いじめ」だったよな、と後悔という名の苦味成分満載で構成されているレシピの後味の悪さを噛みしめている。当然のごとく、加害者の方だ。年齢的に十才以前のころのことだろう。クラスに肌の浅黒い少女がいた。中東の目だけ露出させる衣装でも着させると似合いそうだった。当時はそんな土地があることも知らなかったが。

「誰に会ったと思う?」

 学区というのが歴然とあり通える(選べる)範囲が限定されて決まっていたが、それでも、都立高の受験に落ちたため、補欠で学区以外の都心の方に通いだした友人がいった。なんだか腑に落ちない。銀座近くまで通えることになっている。その彼がぼくに質問している。ぼくに分かる訳もなく、タレントか何かかと想像をめぐらす。意外なことに歴史の彼方に置き去りにしていた女生徒の名前を突然にもちだした。

「そう。どうだった?」ぼくらは共にいじめたという後ろめたさを抱いていた。
「それがさ、親しげに、ひとなつっこそうに名前を呼ばれたんだ。○○くんだよね? という風に」

 ぼくの腑に落ちない感情はさらに加速する。彼女は恨んでもよさそうなのだ。ぼくらは放課後に掃除をしている。チリトリを使わせずに手でゴミを拾わせた。いま、こう書いていても寒気でぞっとする。なるべくなら封印したいところだが、それでは自分の美化につながってしまうので、隠し通帳をも敢えて公開するように過去の秘密のかさぶたを引っ剥がす。

 彼女は不満ももらさずに、激高もしないで、ただ言われた通りに実行した。それでぼくらのバカなこころは満足を得られたのだろうか。リーダー的なひとの申し出を盲目に受容した。さらに旗を振った。同罪よりもっと悪い。

 もし、自分がされたら、ぼくは胸ぐらをつかんで、できるだけの仕打ちをしたはずだ。どちらが度量が大きいのだろう。恨んでもいない。謝罪も求めない。ただ、小学生時代のクラスメートに再会してうれしそうにしている。そのことが、ぼくらの罪をより大きいものにする。告げ口もしない。あんなことをされながらも、明日もランドセルを背負って学校にくるのだ。

 反対。追加情報。

 ぼくらの中学は小学校を二つ分足した生徒が集っていた。自分のいない学校でいじめっ子だったという生徒もいる。あんなに小柄なのになんで? というのが自分の率直な感想だった。その事実(過去の栄光)も知らないので、たまにイキガルと自分は冷酷に彼の面子を台無しにした。胸をすっとさせるひともいたかもしれず、兄が恐いんだよ、と情報をくれるひともいる。自分は、自分に不利益な振る舞いをすることを許さなかった。生意気という物質が微量でもあると、ぼくはコショウに敏感な鼻がむずがるように、くしゃみのように暴力をふるったり、居丈高になったりした。幼い。だが、さらに重要なこととして、もう弱いものをいじめることを止めていたと思っている。それでも、加減が過ぎる生徒のことをたまに無視した。あるひとりはその期間をふりかえって、

「あんなに、充分、勉強できる機会はなかった」と、いささか誇らしげに語った。みな、打ちのめされないタフな性分を有しているようだ。

 これらの友人たちとそれぞれ愛用品をトレードする。仲が良い間は。当時の年齢もさまざまだが、プロレスの二大雑誌のバックナンバーを交換し、釣り用のリールを差し出して何かを手に入れ、誕生日に買ってもらったミクロマンのボスの代わりに悪役の親玉をもらい、ジャンパーを数千円で売った。なぜか、自分が差し出したものの方をくわしく覚えている。でも、ひとは他人のもっているものも欲しくなるのだ。それらもすべてない。

 いじめの問題であった。対処の仕方を強いる。ケンカには負けてはいけないという風土もある。その吹き溜まりに腕力の無駄な行使があった。被害者こそ、あわれであった。

 自分は酔ってグチを言う。津や干潟の役目を果たしているのだろう。あからさまな権力など大人は現実にすぐに反映させない。しかし、陰口もあれば、誰かの仕事が自分の利益や不利益として生じる。関係ないと一線をおけるほど興味を打ち消せる体質でもなく、好奇心というものが炭酸飲料を振ってしまった後のように発露を求めている。自分は現実を等身大で見なければならないのだ。観察と過去の失態の複合体こそが自分であった。

 兄は、ぼくがついさっきまで遊んでいた友人の名前を告げ、「あいつ、お前のこと、ほんとはキライだと言ってたぞ!」と急に言った。いま、考えればあたまがおかしいと否定できるが、当時は、少量の陰を自分のこころに落とすことになった。もちろん、次の日も楽しく遊ぶので、そんな憂慮は取り越し苦労なのだが、それでも、子どものこころはヤワなものである。

 その少年少女たちのこころを無残にも痛めた、しかし、ぼくが兄から言われたぐらいの傷しか得ていないのかもしれない。採点と失点をいつも自分に甘くする。三十五年前の出来事などとっくに時効なのだ。そして、これから三十五年後も誰もいない。その狭い期間の小さな罪。この繰り返しがひとびとの歴史だ。データとしてなら簡単に一気に消去できる世の中になってしまっているのに、生存させることも求めている。


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悪童の書 ce

2014年11月08日 | 悪童の書
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 目覚ましをセットした時刻まで今日も眠りは保てなかった。

 本当のところは、目覚まし時計がアラームを告げて目を覚まし、次の行動となるべき止める直前まではたしかに寝ていた。しかし、深い眠りはその前に中断されている。うとうとという浅瀬を歩む。熟睡ということも困難になり、また身体はもしかしたらそれを求めていないのかもしれない。エコな身体だ。高性能に変身。

 でも、これも出口がちょっと早めに来てしまっただけで、入口はなんの問題もない。お化け屋敷を楽しみもせずに勢いよく走ってしまったのだ。もっとむかし、若い頃は自分にもいっぱしの悩みがあって、眠りという入口への導入をさまたげる障害物もいくつかあった。いまは、まったくそんな要素はない。どちらが、大変なのだろう。

 眠る際にストンと足から落ちる。実際の身体はベッドのうえにそのままあるが、すべり台や滝から、なす術もなく落下でもしたかのようなヒヤリとした感覚だけがまざまざとある。その残像におびえながらも、でも、反対に気持ちがよいものだった。ひとは相反するものさえ受け入れられる。首をしめられる女性たち。

 お金を払っても恐怖やスリルを感じたい。ひとはジェット・コースターに乗り、高い場所から下界を見下ろす。スピードと落下があり、足元のすくみも感じる。「ぞわっと」という無駄でもない日本語。

 目が覚める。曜日も分からない。分かっているのは遅刻したことだけ。若さにとって睡眠は無限のご褒美だった。逆の状態も正しい。寝ないでもいろいろなことができた。そして、倒れるように眠った。現在は寝不足による調子の悪さをそのまま先送りにするだけだ。

 冷蔵庫の音。水道の蛇口から水がポタポタと垂れる音。時計の秒ごとに刻む音。部屋は小さな音で成り立っている。小さな明かり。ひとのいびき。

 自分が放つ臭いをおそれるようになる。もちろん、肯定的なみんなを幸せにするものではない。起きて、シャワーを浴びる。身体を拭いている。ベッドにまだ人型がある。際限なき朝寝坊の女性もやっと目を覚まして、流しで歯ブラシをくわえる。

 ぼくは多分、いまだかつて「二度見」というのを我が人生で一度しかしていないはずで、この時だ。その女性の口元は握られた棒状のものを突っ込んだままの半開きの状態で、また恋しい場所に寝そべって、ぬくい布団にくるまれ、首の上だけ外界に出して、丁寧に、器用に歯をみがきはじめた。いったい誰が、彼女にしつけを教えたのだ?

「え、なにしてんの?」
「寒いから」

 彼女には両親がいなかったのか? みなしごなのか。これらを許す環境はどこにあるのか。海兵隊員にでもなって鍛え直された方がよいのか? GIジェーンみたいに。その後、彼女は皿を洗う。洗うたびに流しに落とす。うちの皿を全壊する勢いだった。しかし、元を取っている。こうして書き、会話がなければ誰かに言いふらして。

 数年前の映像を思い出している。あのときより眠りの質は悪い。歯磨きのチューブも無数に使った。

 お腹も弱くなる。牛乳こそが大敵だ。もし、ぼくがどこかの国のスパイになり運わるくつかまって口を割るよう責められるとすると、牛乳を大量(数滴の少量でも充分に効果がありそう)に流し込まれればすぐに白状してしまうだろう。FBI48から。

 KGB48。CIA48。

 若いころ、精神が危うい状態がたしかにあった。思い通りにすすまない状況が現実として立ちふさがることになじめなかった。予防もない。いまは、こういうものなのだ、と考えられる。女性は自分から逃げ、能力以上の金銭はけっしてめぐってこない。だからって、どうなの? ぐらいの居直りを自分に過分に許している。

 こういう自分に眠りの入口は解放されている。大きく扉を開いている。門番もいない。税関もなし。しかし、酒の手も借りている。素面の夜もおそれている。これも頃合いと兼ね合いの判断を誤れば、夜中に目がパッチリという仕打ちをする。映画を見直す。スポーツの思いがけないドキュメンタリーを見る機会にもなった。プジョルという頑丈なディフェンダーのことも詳細に知る。近くにサッカーの仲間も少なかった彼はコツコツとひとりで身体を鍛えた結果、足技が世界有数というランクに達しないことを踏まえても、充分なガッツある才能を育てたのだ。眠りの再導入。外では新聞が配達され、鳥たちも鳴く。明日は日曜。早起きも必要ではない。

 そう願いながらも眠りも持続しない。犬かなんかに顔を舐められながら起きてみたいな、という希望もある。一週間のニュースを情報番組で見直す。知らなくて困るものでもない。時間は段々となくなる。一生という預金額の残高が減っていく。だからといって眠りを奪うわけにもいかず、削る必要もない。これはこれで人生に役立つものなのだ。なにかを解消して、現実世界と調和させ、成長しないけど、成長ホルモンを出しているのだろう。コーヒーは匂いのためにあり、ラーメンもスープのためにある。疲れは眠りの動力源で、悩みはもうなくなってしまった。反発する能力もなくなり、順応も誰も求めない。夢は常に美しい。そのなかで龍宮城のようなホルモン屋を探している自分がいる。住所も割り振られていない架空の店内で、労働のあとの一杯をみなが楽しんでいる。そのために寝る。

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悪童の書 cd

2014年11月06日 | 悪童の書
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 泣こうと思う。その為に、短い話を収集する。

 プロとアマチュア。いまのところ、いちばん有名なサッカーの監督は、プロのサッカー選手ではなかった。あなたにもチェルシーあげたい。監督という仕事がビジネスにも通じ、カード会社のコマーシャルにでる。飴はなめていない。もうひとり。日本の大学野球の監督。よく殴る。なぐられないのは、高田繁と星野仙一のふたりだけとのこと。青いグラブ。御大と称されるひとも野球未経験。応援団に所属していた。エピソード。野球部の補欠の選手から率先して就職先を探してあげる。ひとは応援される価値のあるものである。いずれ、各々の方法でプロになる。サラリーを受け取る。野球以外でも。

 監督やコーチングの能力の有無にひとはいつ気付かされるのだろう。無論、外科医としての才能や手際も判断しようがないのだが、絶対不可という領分に監督はないので、思いめぐらすことができてしまう。

 ひとには潜在能力がある。干潮時にあたまを出す岩と同じだった。普段も、あるいは一生、その姿を認められない場合もある。親の仕事をそのまま受け継ぐこともある。血では伝承できないが、熟練と日々の節制によって、手の技は次の世代に移行される。

 試しにしてみるというのではリスクの大きな仕事だ。抜擢というのも無鉄砲に行使されるわけでもない。

 すべてを掌握するタイプもいて、感情は無が最上級だと規定するひともいる。励ますのに長けるひともいて、叱咤もある。歴史によって許されなくなる行動もでてくる。相性もある。最後に胴上げをする。

 宙に浮かんだ地点で、どんなことが去来するのだろう。方針も指導力もいまのチームと合致していたと安堵するのだろうか。勝ったはいいが、自分の価値の見積もりを低く判断されたと苦々しく思っているひとも下層にいるかもしれない。舞っている間、不安になる。男性など嫉妬でできている生物なのだ。

 負けず嫌いという性分がある。普通の仕事で負けるも勝つも明確ではない感じもする。人事があって、あいつより役職が低ければ表向きは負けかもしれない。偉さというのを地位と給料だけで分類すれば、独裁者にでもなるしか方法がない。反面、注意されて育つということもどこかにある。その指摘を無意識に望むぼくは根っからの選手であり、部下であろうか。

 ある時点までの日本という社会は、もっとも成功した社会主義国家であると主張するひともいる。一億総中流化。ほころびが生じる。マッカーサーという日本の監督。

 一匹狼という丁度良い言い訳もある。そもそも、その願いを叶えるならひとりでできるスポーツを選ぶべきだ。テニスやゴルファーとして。

 さらに上の立場もある。チームの選手の取得や放出、経営状況の考察等。学ぶことも多くなり、権力も強大になる。プロ選手か、親会社から出向しての選択。生き延びる。それだけが常に正しい。

 胴上げも数回で終わり、その後は来年までチャンピオンの称号だけがのこっている。連覇もまた困難なチャレンジだった。V9には名参謀がいたそうだ。第二位としてなら活躍できるタイプもいる。責任はそれほど重くないのであろうか。

 プロスポーツ選手になったからには、ヒーローになりたい。監督というのは戦術と客観視と裏をかくことと、あとは運のような気もする。だが、そこにただいて、このひとのために働こうと思わせる男気も必要でありそうだ。どれも架空のことを無駄に立証しようとしているだけだ。

 自分は上に立つことなどない。二番手もない。評価は数字として明確化できることを提案したい。各自は個人事業主であるべきで、世界大会は見本市なのだと思ってほしい。

 安く買ったものを高く売る。自分のあたまは最終的にそこに行き着いてしまう。リーダーの素質などないのだ。赤字にならないことだけを念頭に置いている。さらに期限を守ること。器は限りなく小さく浅い。

 学生を評価して、評価の前に本質を見抜いて、就職先を斡旋する。このひとの見立てなら間違いないだろうと相手も安心する。

「外科医がオペで患部を開いて、疾患を探し当てるように、不利な状況や試合の展開を見事にいい当てていました」と著名な選手が讃嘆している。予測する能力もある。将棋さしのように。

 ある程度、負けを含んでの人生だし、負けや失敗が醍醐味という境地にいる自分は勝負師ですらない。勝って得たものなど、ここでまったく書いていない。自分という醜悪な生き物の振る舞いを披露しているだけだ。にきびがあっての顔であり、縫い傷があっての身体だった。

 面倒見が良いという評判も得ることができなかった。ひとを何かに紹介する力も有していなかった。コントロールされずに、自分もしないということも重要であった。そして、寝そべりながらひとの小説を読んでいる。「こいつ、一人っ子の小説だよな」とあきれながら中間の子どもであった自分はどう世界を眺めているのか考えている。お節介も迷惑もこだわりも愛撫も慰藉もない世界に生まれたかったなとひとりそのまま横たわる。

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悪童の書 cc

2014年11月05日 | 悪童の書
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 吉田松陰のことば。要約すると。

 不朽ということが見込めるなら死んでも良し。生きて大きなことがまだできそうなら生きるべきだ。

 いつまでも、永遠に朽ちないもの。もし、商人の観点に立てば、一作の不朽より、ある商品が普及して広まってもらった方がうれしく、大勢が潤うのではないのだろうか。次の製品も普及。ヒット・メーカーという名誉。

 例えば、マリリン・モンローという不朽。(二千字を一回の目標にして書いているが、すべて魅力的な女性のフル・ネームだけで埋めたり、費やすことをこっそりと望んでいる。ずらっと。こころの声、一時解放)ビリー・ワイルダーがその不朽のもとを作ったのだろうか?

「普及学」という研究もあるらしい。イノベーションの散布学。頒布学。五つの要素。

 比較優位。適合性。わかりやすさ。試用可能性。可視性。どんなもん使ってんの? 便利そうだね。

 消費する側、購入する面子にも五つの段階が発生する。

 イノベータ―。アーリーアダプター。アーリーマジョリティ。レイトマジョリティ。ラガード。つまりはグズグズちゃん。ガラケー最高説。

 変化を嫌う。伝統を重んじる。身内だけの世界に引きこもる。悪意もなく、どんな感情も介入させずに、ただ列記しているだけなのだが、欠点に見えて仕方がない。

 反対。どんなものにもすぐ飛びつく。誰が、最初にナマコを食べたのか? ナマコで満腹学。ホヤとクサヤで一杯学。

 流行は軽薄感がともなうものなのか。黒船到来という流行。反対に明治の終わりになっても、ちょん髷にこだわっていたひともいたのだとか。すると、流行にすばやく乗り危機感が芽生えたひとたちが、その後の社会の仕組みをつくったともいえる。勝てば官軍。勝海舟はイノベータ―の反対にいたと定義してしまって誤りはないのだろうか。そうも思えない。

 靴も普及する。ネクタイも広まる。新製品のスタートは高額でもある。妥当な価格設定や売れなくなってきたので割り引くという検討もできる。結果。売れ残り。回収か、店の奥でほこりをかぶる。

「七人の侍」と「東京物語」という不朽。金字塔。失敗作は淘汰され、偉大なものは語りつづけられる。ルービック・キューブやヨーヨーという普及。公園にヨーヨーのチャンピオンが来る。どこで大会が開かれていたのかも分からない。普及には偽物がうまれやすい。それでも、買ってもらえるか否かというのが子どもにとって最重要になる。カセット・テープやビデオ・デッキという普及。ベータという対抗馬。レーザー・ディスクをカラオケ・スナックで交換して唄っている。ひとは無駄と思える前哨戦を組み入れる。レコードの表面をベルベッド状の布で拭く。

 エジソンという不朽。蛍光灯や蓄音機、ラジオという普及。

 普及にはお客さんの要望で改善する必要がある。議会で賛成と不賛成の投票をする。押しボタン式にして瞬時に集計できる仕組みをつくる。しかし、牛歩戦術ができなくなったひとたちが不満をもらす。世の中はスピードだけで出来上がっているようではないようだ。

 ブームという普及。誰かが仕組んでいるのだな、と大人になってはじめて気付く。ひとは並ぶ。並んでまでも欲しいものって、なにかしら? との疑問が生じる。世界はある意味、横並びになるようできている。

「タッカー」という映画を見る。特別な車をつくろうとするも、その社会を牛耳るものたちがいる。自分の製品が売れなければおもしろくない。そして、邪魔をする。ゴッド・ファーザーという不朽。コッポラという知名度。

 ボジョレー・ヌーボーというイベントの普及。毎年、恒例という地位につく。ハロウィンも受け入れる。開国という選択後からずっと経って。

 吉田松陰や佐久間象山という好奇心とさらにひとに伝達する情熱。ふたりが現在のひとなら、仮装してフランスから到着したワインを真っ先に飲んだであろうか。植民地にならなかったと胸を張ってぼくは過去に宣言できる覚悟を得ているのか。

 外国語という狭間と隔たり。英語という普及。江戸はオランダ語だった。目指す世界はオランダであった。

 貿易が利益を生み出すという仕組み。株式会社という発明。藩に頼らない生き方。円が高くなり、安くなる。労働力や賃金が安いところでものは作られる。子どもまで働かされる。搾取されるということが犠牲のかたちをとれないでいるようだ。

 高級車は売れ、ブランド品もデパートに並ぶ。不均衡が生じる。穴埋めとしてグローバルということばを挟む。

 大きなことができなくても、世界の片隅で生きる。ジーンズやスニーカーを縫う小さな手がどこかにある。自分に罪がある。あるいは、まったくの無実でもある。余った小遣いで株を買う。寝ている間に儲かったり、損したりしている。ある日、失業者が増えている。なにもすることがない状態で朝を迎える。不朽のことを考える。ベーブ・ルース。ハンク・アーロン。ペレ。プラティニ。自分が覚えなければいけないことばが無数に増える。

 自分という活断層に、どんな能力があったかも気付かないで終わるひとびと。もし、警察官か自衛隊の一員になったとしたら、拳銃を撃つ能力を発見できたかもしれない。そう思いながら失業手当を受け取りに行く。仕事がないひとの集団。仕事を紹介する能力と技術があるかもしれない机の向こうの労働者。対面。履歴書の書き方の上澄み。誰も、不朽になど達しない。数日後に口座に振り込まれる金額の乏しさ。暇を持て余す一日。そのはじまり。

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悪童の書 cb

2014年11月02日 | 悪童の書
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 最初の経験が尊ければ、最後となる経験も総じて尊いんじゃなかろうかという主題。劇的でも、刺激的でもなくなってしまったのに。

 しかし、「これが、最後」という明確な経験や体験ではおそらくなく、なんとなく、「あれ、もうやってないな……」という追憶の最中にそれはあるのかもしれない。

「あと、もう一回だけいい?」

 と、別れ話のときに言う。未練である。プリーズ。

「喜んで」と、厨房に注文を通してくれるかもしれない。「売り切れちゃいました、残念ね」とあっさり断られることもあろう。ふざけることだけが目的にある。マイ・プレジャー。ユア・ウエルカム。プレゴ。

 フレッシュさ。新鮮の期限。タバコをやめる決意のうえでの最後の一服。最後には覚悟がいるのだろうか。うやむやの美しさ。

 なんとなく職場を見回す。転勤とかありながらも、みんな同じひとつの会社で大体が暮らしていくんだな、それが大人であり、結婚に導くのであり、家族を構成させる陰の功労者なんだなと思う。毎日、辞めたいなと思っていたとしても。

 映画を見る。ひとの人生。

「面接でもあれば、紹介文、書くからね」と上司が退職するひとに向かって言う。ステップアップこそが正しいという認識もある。外国のひとつでは。ステップ・ダウン。新しいことを学びたいという願望というか衝動。マンネリ。

 初日。挨拶をする。最終日。挨拶をする。その間のできごと。

 ものを買う。前のを捨てる。壊れたからということもあるし、置き場所に困るからという場合もある。性能があがる。映画を見る。むかしの車。いかにも機械が作動しているという音がする。リズミカルの反対の老人の咳のようなエンジン音が。車にも顔のようなものがある。

 今年最後の野球の試合。今年から通いだした店で見ている。ふさわしい気がした。二十九年前の奇跡は起こらなかった。そして、何人かは引退して、何人かは不本意ながらも首になる。さらに何人かはチームを変える。やることは同じ。給料があがるひともいて、下がるひともいる。直ぐにサインのひともいて、交渉を繰り返すこともある。自分の価値基準と他人の評価。この差が世の中のすべてともいえた。

 マットレスを変える。新しいもので寝た最初の日か、前のもので寝た最後の日か、おそらく前者のような気もするが、記憶というのも手に負えないものになる。朝、仕度をしていると電話がかかってくる。

「誰か死んだな!」と、こころはぼくの意志より先に反応する。それは、実家にいる愛犬だった。よく、平日の休みにさみしいのかベッドにもぐり込んできた。ドアを開けろと、小さく鼻を鳴らす。そして、ぐっすりであった。動物病院に行く道をおそれ、カットとシャンプーから戻ってきた日はぐったりとしていた。彼も内弁慶であった。それを知らせる電話だった。新しいものに変えた日に、この世を去った。ものにも思い出がある。

 だが、寝るという行為は今後もする。最後は目が覚めないのであろう。明日、起きるという保証はなくても、確信に似たもので起きるであろうと目覚まし時計をセットする。

 飽きたから最後というのもある。水を飲むとか、パンを食べるという行為は不思議と飽きない。風呂に入る。目薬をさす。風を感じる。詩人の誕生になった。

 スカウトはひとを探す。ドラフトという不利なせりがある。マグロならちょっと試食ができる。そして、いつか首になる。早いひともいれば、遅いひともいる。最後の試合。家族が見つめる。

「悪いところ、直すから」という懇願もある。ひとは、みっともないマネを強いられる。猶予が与えられ、結局、最後になる。憎むようになって、憎んだことさえ忘れる。

 どこかで再会する。過去を美化する。反対に無視する。被害者のフリをして、加害者だと罪をなすりつける。ローンが終わる。最後の一回。月賦というむかしのことば。

 写真を捨てて、「あれ、あいつ、どんな顔だったっけ?」と、すこし悩む。写真をばらまかれる女性もいる。ネット時代。複製とコピーは簡単になる。

 終わりがくるんだろうな、とはじめる前から考えてしまう。こうして老け込んでいくのだ。区切り。段落。句読点。ピリオド。

 引導を渡す。他のものから宣告される。

 あきらめないうちは失敗じゃないというひともいる。失敗したから止める。成功したので最後にする。

 アイポッド・クラシック発売中止。販売終了。音楽媒体も物質ではなく、データとして生き残る。最後のコンサート。「普通の女の子に戻りたい」では、普通とは? 分析がいる。「別れましょうわたしから、消えましょうあなたから」歌。「ああしましょう、こうしましょう、どうしましょう」と、タモリさんがテレビで言っていた。困惑。

 テレビも終わる。チャンネルを変えるということだけで、時代も変わる。全員集合、ひょうきん族、という順番は革命であった。同時に日曜の夜の支配権も元気がでるテレビから、ごっつええ感じに移行する。世界一位と名乗る男性が見舞いに行く魅惑的なコント。彼も二位に転落したのだろうか。体力の限界。最後は華々しいのか?

 サグラダ・ファミリアの最後、完成した姿、異様をぼくは見られないのかもしれない。ぼく自身の最後も見ることは不可能だろう。遠退く意識、消え往く記憶。もう一回、せめて半分。

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