『わが青春に悔なし』(46)(1982.5.4.フジテレビ)
戦前に弾圧された京大の八木原教授(大河内傳次郎)と学生たちの師弟関係と、自我に目覚める教授の娘・幸枝の姿を描く。
とにかく、原節子演じる幸枝の女性像に圧倒されてしまった。前半の世間知らずのお嬢様らしい高慢さ、愛する男と共に過ごし始めてからのかわいらしさ、後半の鬼気迫るような意思の強さ…。
実際には、こんな女性はいないだろう。黒澤明は女性を描くのが下手だという批評を目にしたことがあるが、なるほどこういうことなのかもしれないと思った。あまりにも極端で、女性を理想化して描いているところがあるのだ。
ところで、この映画は、終戦直後に作られているのだが、思うに、黒澤にしろ、脚本の久板栄二郎にしろ、満を持してのものだったのだろう。戦時中は、軍の統制で思うような映画を作ることができなかった彼らが、その悔しさを一気に吐き出した結果、このような社会性を持った力作が出来たのだという気がする。
戦前の滝川事件とゾルゲ事件に想を得たこの映画には、野毛(藤田進)と糸川(河野秋武)という対照的な人物の間に、ヒロインの幸枝を置いて、彼女の変転を描き込んでいる。
見ていて、自分も野毛のように理想や信念を曲げずに生きたいと思いながらも、権力側におもねる糸川の方に感情移入してしまった。野毛ほどには強く生きられない、生きていくために理想から挫折してしまう糸川の弱さの方が分かる気がしたのだ。野毛が言うような「顧みて悔いのない青春」は俺にはないなあ。悔いだらけだもの。
ところが、野毛が逮捕される前に、幸枝に「自分の弱みだ」と言いながら、年老いた両親(高堂国典、杉村春子)の写真を見せるシーンから見方が変わってきた。人間はいくら強がってみたところで、所詮は弱いものだ。だが、その弱さを何とか克服して生きていこうと努力する姿にこそ、人間の本当の強さが表れるのではないかと思わされた。
その野毛の姿を見たからこそ、幸枝もあそこまで強く生きられたに違いない。そうとでも思わなければ、あのスーパーウーマンぶりは理解できない。
先頃亡くなった黒澤映画の常連、志村喬が、この映画では珍しく、独いちごと呼ばれる憎々しい特高を演じていた。その芸域の広さを改めて知らされた思いがした。
【今の一言】何と40年前のメモ。青くさくて我ながら恥ずかしくなる。