『スリーパーズ』(96)(1997.4.29.渋東シネタワー1)
贔屓監督の一人であるバリー・レビンソンは、どうも『バグジー』(91)あたりからおかしくなってきたところがあるが、この映画も骨子は目には目を式の復讐劇でありながら、どうもすっきりしない。
別にモラル云々を問うつもりはないが、たとえそれが憎むべき相手ではあっても、人を殺して、うそをつき、最後はだましが成功して万歳では、あまり後味がよくない。
そうした感慨を抱かせるのは、この映画がロビンソンお得意のノスタルジックな青春群像劇とも、少年刑務所の看守の腐敗を暴露した告発劇ともつかない、中途半端な作りになったことも影響しているだろう。
例えば、マーティン・スコセッシのように情味を消してこの題材を描けば、良くも悪くももっと陰惨な方向でまとまっただろうし、シドニー・ルメットのように社会派に徹すれば、もっと告発劇としての面が強調されたはず。などと、この映画には、ほかの監督の作風に思いが行ってしまうような弱さがある。
ただ、贔屓として好意的に捉えれば、この映画には原作があり、全くの改変などできなかったのだろうし、本来はもっと陰惨になるような題材をレビンソンらしくノスタルジーを絡めて緩和させたと言えなくもないのだが、『ダイナ―』(82)から『わが心のボルチモア』(90)あたりを撮っていた頃の彼とは何かが違う。
まるでかつては快速球で勝負していたピッチャーが、プロの世界でもまれるうちに、要らぬ変化球を覚えてその切れ味に酔い、当折速球も混ぜるが、本質は変化球ピッチャーに変容してしまったような寂しさを感じるのだ。
加えて、新旧のさまざまな役者をそろえながら、老ギャング役のラフ・バローネを除いては誰も好演の域に達していない。ロバート・デ・ニーロの神父は『汚れた顔の天使』(38)の焼き直しのようだし、弁護士役のダスティン・ホフマンもぱっとしない。若手のブラッド・ピットとジェイソン・パトリックはどちらもダブルキャストの子役に食われ、このところ名助演を連発していた看守役のケビン・ベーコンにしても、彼の持つエキセントリックさを強調したに過ぎない。
と、少しは弁護しようと試みても、気が付くと不満ばかり…。レビンソンが自分好みの監督に戻ってくれる日は果たして来るのだろうかと心配になる。
ところで、どうもこの映画は、スコセッシの影響がちらつくのだが、それは扱った題材がスコセッシの諸作に似ていることにも増して、既成の音楽の使い方のうまさに共通するところがあるからか。特にフォーシーズンズからフランキー・バリ、再びフォーシーズンズの曲を使って時代の変化を表現したところは秀逸だった。こういうセンスの良さが、まだまだレビンソンを見限れない理由の一つなのだ。