『リーサル・ウェポン4』(98)(2012.7.28.ムービープラス)
エンドロールの“アルバム”はずるいよ
このシリーズ、最初の『リーサル・ウェポン』(87)は、メル・ギブソン演じる自殺癖のあるリッグスの再生と、ダニー・グローバー演じるマータフとのコンビの誕生を描き、『2』(89)では、うるさい小悪党のジョー・ペシのレオを加えてトリオとし、さらに『3』(92)ではレネ・ルッソの女性刑事ローナを登場させてカルテットとした。
また、この間、第一の見どころとなるド派手なアクションのかたわらで、マータフ一家や警察内部の人間模様もこつこつと描いてきた。つまり、レギュラーを増やして人物描写に変化や広がりを持たせたところと、連続性を持った家族や仲間たちの描写にシリーズとしての魅力があったのだ。その点は、シリーズ全作を一貫して監督したリチャード・ドナーの功績大である。
そして、『3』以来、6年ぶりに作られ、最終作となったこの『4』では、敵をチャイニーズマフィアの“ファミリー”とし、ラストでリッグスとローナには子供を、マータフには孫を授け、ひたすら邪魔者扱いされてきたレオにも花を持たせるなど、家族や仲間というテーマをより前面に押し出していた。
さらに、ラストのレギュラー出演者たちの記念写真に続くエンドロールで「Why Can't We Be Friends?=仲間よ目をさませ!」(ウォー)に乗せて、キャストやスタッフの写真をアルバム風に延々と映して追い打ちを掛ける。それを夜中に一人で見ていたら、不意に泣けてきた。(ちなみに『2』のラストではジョージ・ハリスン&トム・ペティの名曲「チア・ダウン」が流れた)
みんな、写真では楽しそうにニコニコと笑っているけど、このうちの何人かはすでに亡くなったかもしれない、けんか別れした仲間もいるだろうなあ、今のメル・ギブソンの落ちぶれた姿を思うと…などといろいろと感じて、何だか妙に切なくなってきてしまったのだ。
こうした感慨が浮かぶのは、自分が年を取ったせいもあるが、去年の東日本大震災で、写真が持つ一種の残酷性を知らされたことも大きいのかもしれないなあ。
『Lethal Weapon 2』 End Credits
https://www.youtube.com/watch?v=ilu7Brquyy8
『Lethal Weapon 4』 End Credits
https://www.youtube.com/watch?v=d51eEoP4Z8I
『レッドブル』(88)(1991.4.14.日曜洋画劇場)
ロシア警察のダンコー(アーノルド・シュワルツェネッガー)と、シカゴ警察のリジック(ジェームズ・ベルーシ)が、アメリカから麻薬を密輸するロシアマフィアのボスを捕らえるため、反発し合いながら捜査を進めていく様子を描く。
ゴルバチョフ来日記念放送、というわけでもなかろうが、またしても、アメリカが一方的に描いたソ連像を見せられた気がする。アクション俳優としてのシュワルツェネッガーの存在感の大きさが、この映画をそれなりに面白くはしているが、所詮、ハリウッドの俳優がロシア人を演じるのには無理があるのだ。
そして、ベルーシとの相棒映画としてもいま一つな感じがした。例えば『フレンチ・コネクション2』(75)の面白さは、アメリカ人のジーン・ハックマンとフランス人のベルナール・フレッソンの対照的な姿にあったのだし、『ブラックレイン』(89)も、健さんとマイケル・ダグラスの対比が面白かったのである。この映画はその点が弱い。
ウォルター・ヒルという監督は、サム・ペキンパーやロバート・アルドリッチのような、男同士のぶつかり合いや友情を描こうとしているのに、それをきちんと描けたのは『ストリート・ファイター』(75)ぐらいで、その他には中途半端なものを感じさせられる。女性が強い今の時代が、そうした硬派な男の映画を撮りづらくさせているのだろうか。
アメリカ側の刑事の一人に、『ゴッドファーザー』シリーズでアル・ネリを演じたリチャード・ブライトの姿があった。渋い味が出せるいい脇役なので、もっと活躍してほしい。アメリカ映画でゴルバチョフを演じられそうな俳優は、その髪形や風貌から、ピーター・ボイルが案外適役だと思う。
【今の一言】「ゴルバチョフ来日記念放送」という一言に時代を感じる。期待していたリチャード・ブライトは2006年に交通事故で亡くなったらしい。嗚呼。
『ダンシング・チャップリン』(11)(2011.5.7.銀座テアトルシネマ)
草刈民代のバレエ人生36年の集大成として、フランスの振付家ローラン・プティがチャールズ・チャップリンを題材としたバレエ作品を映画として撮影・編集した作品。監督・構成は夫の周防正行。
この映画は、メーキングドキュメンタリーとバレエ本編という二部構成を取っている。そのため、草刈の相手役が交代するという緊迫した場面も含めて、実際にバレエがどのように作られていくのかを知った上で本編を見ることができる。
これはバレエには全く無知な自分にとっては大きな助けとなったが、同時に、ルイジ・ポニーノという素晴らしい表現者の存在を知らされ、彼の素顔とバレエを一度に見ることができた喜びを感じることもできた。
言わばこの映画は、周防監督によるバレエ入門映画であり、僧侶、相撲、社交ダンス、裁判に続く周防流のハウツー映画でもある。そして、プティの舞台演出に対する映画監督・周防正行の挑戦という見方もできる。
この映画を見るきっかけは、もちろん、チャップリンの映画がどのようにバレエ化されたのかに対する興味だったのだが、もともとチャップリンの映画には、素晴らしい音楽、サイレント(無言劇、パントマイム)へのこだわり、驚くばかりの動きやアクロバチックなダンスなど、バレエの影響を感じさせるものが多い。
その極みは、ニジンスキーの「牧神の午後」をまねた『サニーサイド』(19)のワンシーンだろうか。そう考えるとチャップリン映画のバレエ化も、それを映画の世界に戻したこの映画も目新しくはないのかもしれない。
などと偉そうに書いたが、実は『サニーサイド』のエピソードを教えてくださったのはかの淀川長治先生。『淀川長治の証言 チャップリンのすべて』という本を一緒に作った時に、身振りや手振りを交えながら楽しく語ってくださった。チャップリンが神様で、バレリーナになりたかったともおっしゃっていた先生が、この映画を見たらどんな感想を持たれたことだろう。チャップリンと言えば先生のことを思い出す。
2012.9.【違いのわかる映画館】vol.24 銀座テアトルシネマ(2013.5.閉館)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/7c2edc2c8f9678aea246404efe299f0b
『ファンシイダンス』(89)
ロックバンドのボーカルで大学生の陽平(本木雅弘)は、実家の寺を継ぐため、恋人の真朱(鈴木保奈美)を東京に残し、頭を丸めて田舎の禅寺へ入ることに。待ち受けていたのは、個性あふれる先輩坊主たちと想像以上に厳しい修行の日々だった…。岡野玲子の人気コミックを周防正行監督が映画化。
『シコふんじゃった。』(92)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/2eec70c151635bf89258350deb0b8848
元祖『Shall we ダンス?』×ハリウッド版『Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス?」
【映画コラム】新人女優、上白石萌音を発見するための映画『舞妓はレディ』
https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/966693
【インタビュー】『カツベン!』周防正行監督、成田凌
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/3e05619830e2646254dc35f638aab180
『ハスラー2』(86)(1987.1.29.日劇プラザ)
前作『ハスラー』(61)から25年後の続編。これは『サイコ』(60)から『サイコ2』(83)の23年を超えて、続編が作られるまでの期間の新記録とのこと。25年といえば、今の自分と同じ年なわけだから、これは両作に大きな違いがあっても当然のことだ。
何より、この続編には色がある(原題も「ザ・カラー・オブ・マネー」)。前作はモノクロで撮られたことで、時代背景となった60年代前半独特の暗さや、たばこの煙と酒のにおいがしみ込んだビリヤード場の雰囲気を出すことに成功していたし、何より、ビリヤードを職業とするハスラー自体が、日陰者の存在だった。
だから、主人公のエディ・フェルソン(ポール・ニューマン)とミネソタ・ファッツ(ジャッキー・グリーソン)が繰り広げる競技としての面白さもさることながら、むしろ、悲しみを感じさせる人間ドラマとしての印象の方が強く残ったのだ。
ところが、この続編は、動き回るカメラでナインボールのカラフルさが強調され、トム・クルーズ演じる新人類的なハスラー・ビンセントには挫折も暗さもなく、ひたすらかっこいい若者として描かれている。
そして、このビンセントと、老いて一度はビリヤードから離れたエディの対比が、嫌でも25年という歳月の長さを感じさせ、それがこの映画が語るテーマの一つとして浮かび上がってくる。
とはいえ、自分はエディによって体現された、年を取っても変わらない男としての自負やプライド、衰えを感じながらも、自らを貫く意地や業の方に強く魅かれた。これはハスラーとビリヤードとの関係というよりも、人間の宿命と言った方がいいのかもしれない。
このところ『キング・オブ・コメディ』(83)『アフター・アワーズ』(85)と不調が続いたマーティン・スコセッシだが、前作とは違ったアプローチから、現代風なものも取り入れながら、こうしたことを感じさせてくれた。その復活がうれしかったし、ニューマンは、もはや神話の域に達したと言っても過言ではない俳優になったような気がした。
【今の一言】25歳の時に書いた一文。“新人類”なんて言葉が出てくるところに時代を感じる。ニューマンはこの映画の演技によって、7回目のノミネートで、ついにアカデミー主演男優賞に輝いた。
『ねらわれた学園』(81)(1981.7.3.東洋現像所)
超能力で悪と対決する少女の姿を描いた学園サスペンス。原作は眉村卓。
非常に漫画チックで、角川映画の楽屋落ちや、つまらないギャグも多く、真面目に考えれば「何じゃこれは?」となるのだが、実は結構楽しんだ。『金田一耕助の冒険』(79)では、ふざけ過ぎを感じさせた大林宣彦であったが、これが彼のやり方だと思えば、それはそれで、他の監督にはまねができない特技だとも言える。ちょっと変わった特撮を使って、奇想天外なストーリーを展開させるファンタスティックなSFに大林の存在価値を見付けた。
ユーミンの「守ってあげたい」に乗って薬師丸ひろ子のかわいらしさを再発見。手塚真が癖のある役を好演していた。それにしても、峰岸徹はよくこんな役を引き受けたものだ。
【今の一言】公開当時は、結構戸惑わされた覚えがあるのだが、現在では、角川映画のアイドル路線と、大林が“大林ワールド”と呼ばれる独自の映像スタイルを確立させた作品として評価されているらしい。確かに、この映画の延長線上で傑作『時をかける少女』(83)が作られたのだ。
『昭和映画史ノート』に続いて再読。最初に読んだ時のノートを。
山田五十鈴が樋口一葉に扮した戦前の東宝映画から明治時代を考察する、第1章「「一葉の時代」の画像。」
監督フリッツ・ラングと俳優ピーター・ローレの数奇な運命とファシズムをめぐる、第2章「『M』の時代。」
セッシュー・ハヤカワの栄光と挫折、第3章「戦時下、パリの早川雪洲。」
産児制限運動者と芥川龍之介の小説をからめた、第4章「サンガー夫人と芥川の『河童』。」
ロベルト・ロッセリーニ作品と吉田満の著書『戦艦大和ノ最期』を軸に、国策映画について考察した、第5章「『白い船』と『戦艦大和』。」
ルキノ・ビスコンティとナチズムを交錯させた、第6章「ファシズムの美学と『地獄に堕ちた勇者ども』」、というラインアップ。
まさに映画を中心とした幅広い雑学を縦横無尽に語っている。『昭和映画史ノート』もそうだが、難しいことをすらすらと読ませる文章のうまさ、あるいは幅広い書物からの引用文の巧みな配置に唸らされる。巻末の解説を書いた某氏の、妙にひねって分かりづらい文章と比べても文才の差は一目瞭然。こういうものが書ける自分でありたいと思う。 (2005.1.13.)
『昭和映画史ノート 娯楽映画と戦争の影』(内藤誠)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/ab14ec5dbe593013cb9df93d85a3f4ec
『アパッチ』(54)
19世紀末、合衆国に全面降伏したアパッチ族から、闘士のマサイ(バート・ランカスター)が脱走し、故郷に戻る。マサイはアパッチ族の自立を主張するが、恋人ナリンリ(ジーン・ピータース)の父サントスの裏切りに遭い、捕らわれてしまう。護送中に再び脱走したマサイは、単身山中に立てこもるが…。
ランカスターが主宰するヘクト・ランカスタープロダクションが映画化。先住民が主人公の西部劇の先駆けの一本となった。監督はロバート・アルドリッチ。褐色の肌のピータースが魅力的だ。チャールズ・ブチンスキー時代のブロンソンもインディアン役で登場する。
脚本のジェームズ・R・ウェブは、同じくランカスター主演の『ヴェラクルス』(54)『空中ブランコ』(56)の他、『大いなる西部』(58)『西部開拓史』(62)といった西部劇の脚本も書いている。