
最近は生りものをとらない家が多い。柿やイチジク、ビワなどが枝や地面で哀れな形で残されている。いくら美味そうでも人さまの家のものを無断ではとれない。とるのは撮るだけにしている。今日も落梅というそんな光景を目にした。落梅の意味は、散る梅の花と落ちた梅の実の二つ。店頭には沢山の梅が積まれ、シロップや塩漬け用の関連商品を売っている。悲しいかな落梅にはそうしたチャンスはやってこない。
毎年、八朔を玄関まで届けてくれる人が「何もかも今年の生り具合は悪い」とは畑の果物類の不作を話す。それでは今年は八朔が届かないか、すると自家製のジャムは食べれない、と思案する。そういえばビワも届かなかった。別の知人のブログに剪定、肥やし入れ、雑草刈りと精一杯手を入れたのに、経験したことがないほどと梅の不作を嘆く記事が載っている。こうした現象は他にも話す知人がいる。
原因を聞くと「なんでじゃろうか」というのが答え。仏教的には「因果応報」といい、過去における業に応じて現在の果報がが生じるということだろうか。しかし、不作を嘆く人には過去の業は思い当たらない、となると無責任だがその原因は自然界にあるのでは、と思いたくなる。
今、自然環境に業を与えているのは人類ということは広く一致するところ。その自然は受けている業のために苦しみ続けている。その許容が限界近くなり、不作や異常気象など何かを報せているのかもしれない。自然は学習している、落梅がいつまでも続くと、日本人は梅不要人として学習し着果させなくなるかもしれない。遊んでいると「落ちた梅は口にするな」、子どのころには周りの大人から注意されていたことを思い出す。