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何十年も前の話し。自家用の野菜をつくる畑があった。その法面に数十本ほどの孟宗竹が生えていた。竹は畑で使う杭や支柱、大根を干す竿など、畑には欠かせないサポーターだった。タケノコの季節が近づくと、のぞいたタケノコを見つけやすするため雑草を刈ってその日を待っていた。
タケノコは伸びるのが早い。仕事の都合がありそれでも2日置きには堀にいった。必ず何本かは持ち帰る。皮をむいて茹でる、これが一仕事だった。それでも薪が家庭燃料のころは気にならなかったが、プロパンガスに変わるとその使用量が急増しその料金に跳ね返った。その畑は、公共用地になり自家製のタケノコは終わった。
以降は届物やお裾分けで旬を味わっていた。贅沢に食べたころを時には思い出しながら味わった。しかし、高齢化や耕作放棄などでいただける頻度は大幅に減り、頂き物が超貴重品になっていた。ところがここ10年あまり、茹でたタケノコをしっかりいただき、余った分は冷凍保存し、1年間を通して味わっている。遠くに住む孫にも送る。
そのいただく方のブログによると、大きな鍋に水を張り湯を沸かす準備をして竹林へ向かう。タケノコを掘り家につくと水は湯になっており、すぐに茹でる。掘ってすぐ茹でるのが美味さを保つ術の一つという。そんな茹でて皮をむいたタケノコが玄関へ届く。何の苦労もしないで旬をいただいていることに感謝している。今日、車で通った道沿いの竹林、タケノコになれず伸びた青竹がなにか詫びそうに見えたんは思い込みだろうか。