講義用ノート。いや政権批判になりそうであるから,実際の講義にはちょっと使いにくいが,少人数ゼミなら使えるし。
今朝のNHKの番組で,政府側の人物(副大臣クラスか,確認する気はあまりない)と外資等々のコンサルタント氏たちとの”討論”を見た。問題点はいくつか。原発,円高,産業構造変化,社会保障。まあ定番。
政府側の人物氏曰く,「みんなが合意を」できるような施策をしたい,数字目標も作りつつある―。
では例えば原発再開についてはどうか。ここでも「みんなの合意」が取り付けられねば再開できないものであろうか。次々停止して再開見込みが立たず,再開へ向けての事情報告会には反原発派が(文字通り)乱入する状態では,なるほど「みんなの合意」は成り立つまい。
いや,まあ,私はそれでもまあ,別にいいっちゃあ,いいんだけど。
つまり,
@mayousa_desuga まようさ or フィメたん 「少なくとも私は、少々停電したって死んだりしない健康な身体だし。余力が無くなれば寛容など…」(2012/2/12)
なわけで。こうした私を含む”健常人”たる”みんな”は,多少停電しようが死にはしない。都会では電車の本数が10%減るかもしれない,だが”多少不便”だが死にはしない。私について言えば,自宅のクーラーはこの3年間動いていない。それで私はさほど不満なく生きている。
しかし,さてシリアとか思い起こせば―例えば病院への電力供給が怪しくなれば,電力(ないし水)をやまと使用する透析患者には死亡フラグ。保育器というのか,そゆのに入っている乳幼児にも同様。
毎日新聞 シリア:中部ホムスなどで弾圧続く 50人死亡(2012/2/8)
「ホムスの反体制活動家男性によると、ホムスでは46人が死亡した。北部サビール地区では3家族19人が大統領派暴漢に殺害された一方、西部ワール地区の産婦人科病院「ワリード病院」では電力供給が遮断され保育器にいた乳児18人が死亡したという」
乳幼児というのは”みんな”にとっては大変便利な存在である。乳幼児のためにとか子供のためにとか言っておけば大抵のことは正当化できる。かつ,当人たちに「口はない」―発言権自体は(一応)あるが,発言の主体として認められておらず(「ガキのたわ言」),或いはそもそも発言不可能な状況にある(まだ喋れない)。結果,『こどものために』を錦の御旗に,誰か大人が自己の主張を大展開できることになる(なお参照,「日記(20110724)」)。
寒冷地のじっちゃんばっちゃんらについて言えば,まあこの季節は死ぬもんだ。季節の変わり目とか,体温・室温の調節に失敗したわけだろう,脳溢血とかなんとかでわりとハイペースで死ぬ(うちの地元の高齢化のほどが思われるが)。ところでこの節電要請の下,暖房を節約して,それで死ぬ予定にないところ死んでいる向きも割とあるかと想像できる。
つーか仮設住宅で死んだじっちゃんがいたな。過去に記事をチェックしたが,このじい様の場合は字を書くのも不得手だというのがさらに注意点。
要は,我々”健常人”たる”みんな”は,それ以外の人々を”みんな”から排除して意見形成していたりする傾向がある。字を書くのも難があるじっちゃんの「声」なんぞ,いったい誰が拾えるだろうか。しかし何か元気にデモしたりする人々の「声」は遠くまで届くのである。
さらにえぐいことには,どっち道日本各地でこの夏電力不足なのはほぼ確定のご様子で,つーことは上に挙げたような社会的弱者は半ば自動的に死を以てこの”みんな”の社会から排除されかねないということ。その後だったら,心おきなく均質化成った我々”みんな”は合意できることであろう(冷笑)!
@routarou 牢太郎's CounterAttack 「”史観”は危険である。人のものさしで物を観てるつもりが、人のものさしで絶望してる可能性もあるから。そこには創造や行為ではなく支配だけがある。不安を煽られ、そのことを考えているうちに、いつの間にか、誰かのコントロール下に組み込まれてしまう。」(2012/2/12)
今,私の文脈では”史観”ではなく”政治観”というべきだろうが,”みんなのための政治”という外貌で考えているつもりで,実はその”みんな”に誰を含めているのか真剣な考察がなければ,誰かの鼓吹した何かの見解のコントロール下に組み込まれてしまうという結果はさほど変わるまい。
でその結果としては
@mayousa_desuga まようさ or フィメたん 「いまの日本の財政問題は、なんといっても膨らみ続ける社会保障費をどう抑制するかって話で、死にたくないという人を見殺しにしておいて、後世には「民主主義的合意のもとに進んだことだ」と言い訳できるなら、これほど甘美なことはあるまいて。」(2012/2/12)
こーゆーわけだ。
困ったことに,そーいう社会的弱者の救済を目標に現政権は成り立ったはず―と信じられた―はずで(「コンクリートから人へ」)。その辺の初心を,彼らは忘れてやしないかという話になろう。
で,二元論的思考によれば”より自民党的”と言われるだろう経済コンサルさん側の主張としては『いや大企業は,このままの環境が続くなら国外に拠点を移すとかで利益を確保する方策があります』。だから大企業としては生き残る作戦は立つということなのだろう。しかし『でもそれだと,日本国内の産業が空洞化しますよね? 日本経済の赤字体質が確立しますよね? まずいですよね?』と語りかける。
―だって彼らは大企業に雇われているわけで,まずは,さしあたりそれらの利益を図らねばならない(とはいえ,それらの企業も日本に軸足[のひとつ]を置くので,日本の体制にも無関心ではいられないが)。だが政治家,あなたの”雇い主”は国民なんだから,国民へ顔を向けた作戦をしなくてはならないのではないか,と―
―だから私には,アレは討論に見えなかった。コンサル氏たちによる講義に見えた。彼らは高い教育と高い地位とがあいまってか,非常に上品な言葉しか出てこないらしくはある。いや相手の立場というのもあるしな。私だって学会会場で正面切って「バカかお前は」とかいえない。
他方,政治家さんとしても,下手なこと言って言質を取られては不味いので,言葉は抑制されることではあろう。
そんなわけで,講義用にノートを集積してみる試み。他に
「「ナチュラルな差別意識」」(2010/6/2)
「善意に依存すること前提のシステムはちょいと難ではあるまいか」(2011/1/22)
「差異と排除と」(2011/11/23)
「差異と排除(めもの2)」(2011/11/24)
「「差別」「アイデンティティ」なんて単語に反応する向きは読むとよいと思う」(2011/12/7)―「常民こそが,だから差別の主体である」(赤坂憲雄『内なる他者のフォークロア』6頁)という言葉の重みを知って泣き暮れるがいい。
今朝のNHKの番組で,政府側の人物(副大臣クラスか,確認する気はあまりない)と外資等々のコンサルタント氏たちとの”討論”を見た。問題点はいくつか。原発,円高,産業構造変化,社会保障。まあ定番。
政府側の人物氏曰く,「みんなが合意を」できるような施策をしたい,数字目標も作りつつある―。
では例えば原発再開についてはどうか。ここでも「みんなの合意」が取り付けられねば再開できないものであろうか。次々停止して再開見込みが立たず,再開へ向けての事情報告会には反原発派が(文字通り)乱入する状態では,なるほど「みんなの合意」は成り立つまい。
いや,まあ,私はそれでもまあ,別にいいっちゃあ,いいんだけど。
つまり,
@mayousa_desuga まようさ or フィメたん 「少なくとも私は、少々停電したって死んだりしない健康な身体だし。余力が無くなれば寛容など…」(2012/2/12)
なわけで。こうした私を含む”健常人”たる”みんな”は,多少停電しようが死にはしない。都会では電車の本数が10%減るかもしれない,だが”多少不便”だが死にはしない。私について言えば,自宅のクーラーはこの3年間動いていない。それで私はさほど不満なく生きている。
しかし,さてシリアとか思い起こせば―例えば病院への電力供給が怪しくなれば,電力(ないし水)をやまと使用する透析患者には死亡フラグ。保育器というのか,そゆのに入っている乳幼児にも同様。
毎日新聞 シリア:中部ホムスなどで弾圧続く 50人死亡(2012/2/8)
「ホムスの反体制活動家男性によると、ホムスでは46人が死亡した。北部サビール地区では3家族19人が大統領派暴漢に殺害された一方、西部ワール地区の産婦人科病院「ワリード病院」では電力供給が遮断され保育器にいた乳児18人が死亡したという」
乳幼児というのは”みんな”にとっては大変便利な存在である。乳幼児のためにとか子供のためにとか言っておけば大抵のことは正当化できる。かつ,当人たちに「口はない」―発言権自体は(一応)あるが,発言の主体として認められておらず(「ガキのたわ言」),或いはそもそも発言不可能な状況にある(まだ喋れない)。結果,『こどものために』を錦の御旗に,誰か大人が自己の主張を大展開できることになる(なお参照,「日記(20110724)」)。
寒冷地のじっちゃんばっちゃんらについて言えば,まあこの季節は死ぬもんだ。季節の変わり目とか,体温・室温の調節に失敗したわけだろう,脳溢血とかなんとかでわりとハイペースで死ぬ(うちの地元の高齢化のほどが思われるが)。ところでこの節電要請の下,暖房を節約して,それで死ぬ予定にないところ死んでいる向きも割とあるかと想像できる。
つーか仮設住宅で死んだじっちゃんがいたな。過去に記事をチェックしたが,このじい様の場合は字を書くのも不得手だというのがさらに注意点。
要は,我々”健常人”たる”みんな”は,それ以外の人々を”みんな”から排除して意見形成していたりする傾向がある。字を書くのも難があるじっちゃんの「声」なんぞ,いったい誰が拾えるだろうか。しかし何か元気にデモしたりする人々の「声」は遠くまで届くのである。
さらにえぐいことには,どっち道日本各地でこの夏電力不足なのはほぼ確定のご様子で,つーことは上に挙げたような社会的弱者は半ば自動的に死を以てこの”みんな”の社会から排除されかねないということ。その後だったら,心おきなく均質化成った我々”みんな”は合意できることであろう(冷笑)!
@routarou 牢太郎's CounterAttack 「”史観”は危険である。人のものさしで物を観てるつもりが、人のものさしで絶望してる可能性もあるから。そこには創造や行為ではなく支配だけがある。不安を煽られ、そのことを考えているうちに、いつの間にか、誰かのコントロール下に組み込まれてしまう。」(2012/2/12)
今,私の文脈では”史観”ではなく”政治観”というべきだろうが,”みんなのための政治”という外貌で考えているつもりで,実はその”みんな”に誰を含めているのか真剣な考察がなければ,誰かの鼓吹した何かの見解のコントロール下に組み込まれてしまうという結果はさほど変わるまい。
でその結果としては
@mayousa_desuga まようさ or フィメたん 「いまの日本の財政問題は、なんといっても膨らみ続ける社会保障費をどう抑制するかって話で、死にたくないという人を見殺しにしておいて、後世には「民主主義的合意のもとに進んだことだ」と言い訳できるなら、これほど甘美なことはあるまいて。」(2012/2/12)
こーゆーわけだ。
困ったことに,そーいう社会的弱者の救済を目標に現政権は成り立ったはず―と信じられた―はずで(「コンクリートから人へ」)。その辺の初心を,彼らは忘れてやしないかという話になろう。
で,二元論的思考によれば”より自民党的”と言われるだろう経済コンサルさん側の主張としては『いや大企業は,このままの環境が続くなら国外に拠点を移すとかで利益を確保する方策があります』。だから大企業としては生き残る作戦は立つということなのだろう。しかし『でもそれだと,日本国内の産業が空洞化しますよね? 日本経済の赤字体質が確立しますよね? まずいですよね?』と語りかける。
―だって彼らは大企業に雇われているわけで,まずは,さしあたりそれらの利益を図らねばならない(とはいえ,それらの企業も日本に軸足[のひとつ]を置くので,日本の体制にも無関心ではいられないが)。だが政治家,あなたの”雇い主”は国民なんだから,国民へ顔を向けた作戦をしなくてはならないのではないか,と―
―だから私には,アレは討論に見えなかった。コンサル氏たちによる講義に見えた。彼らは高い教育と高い地位とがあいまってか,非常に上品な言葉しか出てこないらしくはある。いや相手の立場というのもあるしな。私だって学会会場で正面切って「バカかお前は」とかいえない。
他方,政治家さんとしても,下手なこと言って言質を取られては不味いので,言葉は抑制されることではあろう。
そんなわけで,講義用にノートを集積してみる試み。他に
「「ナチュラルな差別意識」」(2010/6/2)
「善意に依存すること前提のシステムはちょいと難ではあるまいか」(2011/1/22)
「差異と排除と」(2011/11/23)
「差異と排除(めもの2)」(2011/11/24)
「「差別」「アイデンティティ」なんて単語に反応する向きは読むとよいと思う」(2011/12/7)―「常民こそが,だから差別の主体である」(赤坂憲雄『内なる他者のフォークロア』6頁)という言葉の重みを知って泣き暮れるがいい。
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